静岡県熱海市上多賀字宮脇
発掘調査の概要
上多賀宮脇遺跡 |
遺跡地に元々あった岩塊。この岩塊の下から祭祀遺物が見つかった。 |
多賀神社からは古くから土器・石器・有孔円板・土製丸玉などが収集されており、昭和33年(1958年)になって、神道考古学の大場磐雄氏を中心としたメンバーが正式な発掘調査をおこなった。
多賀神社の社殿背後には「地主神(ぢしゅしん)」と呼ばれた石祠がまつられていたと地元の方所蔵の文政9年(1826年)『境内地相図』に描画されており、ここは元宮の地であることが記されている。
調査時点では既に石祠はなく台石が残るのみだったが、元宮伝承の重要性及び台石周辺に露出していた大小の岩石の意味を調べるために、ここが発掘調査地に指定された。
地主神の北東8m地点には欅の大木があり、神木としてまつられていた。
既に神木の辺りから遺物が採集されていたのでここも重要であるという結論になり、もう1つの発掘調査地に指定された(昭和35年前後に枯死して伐採されてしまったという)。
地主神の周辺には大小の岩石が露出しており、石祠・台石のすぐそばには長径92cm、短径48cm、高さ40cm程度の最大規模の大きさを持つ楕円形の石塊があった。
この石塊を持ち上げたところ、下から仿製漢式鏡(変形六獣鏡)1面、素文鏡3面の計4面の青銅鏡が出土。
また、石塊の下には玉石が敷かれてあるのが確認され、ここはまた石を敷いた上に大ぶりの石塊を置き、祭祀を行なった遺構であることが判明した。
欅の神木周囲からも素文鏡2面、鉄製鍬先片1点が出土し、同様の祭祀が行なわれた様子が推測された。
ほか、遺跡内からは古墳時代前期~後期・歴史時代に至るまでの長期間の土師器・須恵器や滑石製有孔円板が発見されている。
以上は古墳時代を中心とする祭祀遺物であり、時代の異なるものとして縄文土器片・弥生土器片・磨製石斧・石皿・灯明皿・古銭(寛永通宝)も見つかっている。
向山と多賀神社の祭礼
多賀神社から望む向山 |
多賀神社の北北東には向山(むかいやま。標高227m)があり、なだらかな三角形の山容を神社から直接望むことができる。
向山は神を迎える山の意ではないかという説もあり(大場1967年)、上多賀宮脇遺跡の石塊・敷石遺構は向山の神を迎える山麓祭祀の場だったのではないかと考えられている。
多賀神社は正徳年間(1711~1715年)に滋賀県多賀大社の伊弉諾尊・伊弉册尊を勧請し、日少宮(ひのわかみや)と号していたことまでは分かっているが、それ以前の歴史については不明である。
所在が分からなくなっている延喜式内社の白波之弥奈阿和命神社に比定する向きもあるが、確定には至っていない。
ただ多賀神社には、祭神が最初来臨した時の興味深い伝承と神事が記録に残されている。
多賀神社の祭神は最初海からやって来たといい、多賀神社のすぐ南にある戸又海岸に神(木像と伝える場合もあり)が漂着し、それを地元の人が青草を刈ったものを海岸に敷いて小麦の強飯を捧げ神に休んで頂き、その後、現在の多賀神社の場所まで連れて行って(その道順は現在も「神の道」として知られる)そこで奉祭したのが神社の始まりといわれている。
多賀神社で現在は絶えているがかつて行なっていた神事が下記である。
例祭前日に地主神の石祠に小麦の強飯を供え、例祭日未明に熊ヶ峠という場所で茅を刈り、それを戸又海岸にある神幸所(御旅所)の「おかりや石」の上に敷き並べる。
多賀神社を出発した神輿はその「おかりや石」の茅敷の上に置かれ、そこで神事と鹿島踊りの奉納が行なわれた後、再び神社に戻るという祭祀があったという。
神の海岸漂着伝承を裏付けた祭祀内容となっている。
「おかりや石」の存在は残念ながら探訪時は知らず未訪であるが、大場磐雄「上多賀宮脇遺跡」の写真を見ると楕円形のそこまで巨大ではない岩石であり、上多賀宮脇遺跡の石塊と共通したものがある。
戸又海岸から見る向山は美麗な三角形の山容といい、古墳時代の磐座祭祀の場だった地主神に小麦の強飯を供え、祭祀の時に「おかりや石」に茅を敷き神輿(=神の化身)を一時的に乗せるという多賀神社の祭祀は、磐座の性質を忠実に受け継いだものと言える。
残された論点
当地の祭祀は、多賀神社境内の地主神地点における磐座祭祀のほか、すぐ近くにある大欅での樹木祭祀、そして戸又海岸における祭祀と、3地点での祭祀が浮かび上がってきた。この地点差は何なのかというのが1つの論点である。
大場氏も、集落の違いか個人間の違いか祭祀内容による差なのか判断はできないと述べている。しかしいずれにしてもこの3地点は向山の三角形山容を直接目視できる山麓祭祀であり、多賀神社が川沿いの立地であることも山岳水源に依拠した祭祀場だった可能性を補強している。
その一方で、多賀神社の伝承・神事は極めて海への視点に偏っている。
これは神の彼方は異世界でありそこから神がやってくると信じられた、いわゆる常世国観念に基づくものとされるが、海と山では祭祀方向が一定しない。
祭祀方向自体は置いておくとしても、海の神と山の神が独立した存在だったのか、同質的な性格で語られる存在だったのか、大きな論点といえる。
海上から見る向山はランドマークであり、漁業民にとって必ずしも海と山は対立する存在ではない。
しかし、海の神が山の神になったのか、山の神が海の神を迎えたのか、今挙げたのはあくまでも一例だが、そういった人々の中での神の世界の論理付けや思考構造は伝承・祭祀からはまだ見えてきていない。
少なくとも、当遺跡は「山麓で比較的小ぶりの岩石を人工的に置いて、その下に玉石を敷いて鏡を供えた」――そのような祭祀形態が古墳時代にあったことを事実面で示したとまでは言えるだろう。
同じく山の見える場所で、人工的に岩石を置いて祭祀を行なったとされる埼玉県こぶヶ谷戸遺跡(鏡の模造品である有孔円板も出土している)や長野県雨境峠の鳴石遺跡(鳴石周囲には敷石あり)などと相通ずるものがあり、当時の岩石祭祀の解明に寄与する好資料であることは間違いない。
出典
- 大場磐雄 「上多賀宮脇遺跡」 熱海市史編纂委員会 『熱海市史 上巻』 熱海市役所 1967年
- 小野真一 「上多賀宮脇祭祀遺跡」 熱海市史編纂委員会 『熱海市史 資料編』 熱海市役所 1972年
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