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2019年8月21日水曜日

越木岩神社と周辺の巨石群の諸問題(兵庫県西宮市)


兵庫県西宮市甑岩町

越木岩神社の甑岩


甑岩(こしきいわ)は越木岩神社の神体石に位置付けられる自然の巨岩で、高さ10m、全周40mを測る。
米や豆を蒸したり、酒の醸造などに使われたりする「甑(こしき)」の形状から由来するとも、甑の蒸気が出る様子から由来するともいわれる。

甑岩。写真右は境内末社・岩社

甑岩。見る方角で趣が変わる造形の複雑な岩だ。


当地は正保年間(1644~1647年)もしくは明暦2年(1656年)に社殿が建立され、越木岩神社としての歴史が始まったといわれる。

それ以前の歴史では延喜式内の大国主西神社という説があるとも、修験者の行場の一つであるとも、俳人である山崎宗鑑(1464~1553年)が残したという「照日かな 蒸ほど暑き 甑岩」の句があるともいう。
ただ、大国主西神社は他の論社もあることと、山崎宗鑑の句は18世紀末の『摂津名所図会』にあるものの初出がわからない。

延喜年間、甑岩から煙が立ち込め、それは瀬戸内海の海岸沿いからも見えたという話もあるが、平安時代の文献に明記されているというわけではなく伝承としてあるので、社殿建立以前の歴史はいまなお不明点が多い。

しかし、一つ確実に言えるのは、この場所に巨岩がはじめから存在していた事実である。
この巨岩は、北にそびえる六甲山地に多く見られる巨石群の最も南端に位置するという意味で、古来から多くの人々の目に止まってきた存在であるはずだ。それが特別視の段階だったか、神聖視の段階だったかが論点である。

豊臣秀吉の大阪城築城の時、その石垣として甑岩が標的にあったという伝承がある。
石工たちが甑岩を切り取ろうとした時、甑岩から突如プシューッと湯気または煙が吹き上がり、石工たちがばたばた倒れていったので、甑岩の切り取りは頓挫したという。

実際、甑岩の一部に、城郭の石垣などの石材用に切り取られている箇所やノミの跡、そして池田家や鍋島家の所有を示す刻印の跡が残っている。これらは新しくても江戸時代初期の大阪城の石垣の切り出しによるものだったことがわかっている。

甑岩の東面。一部、石垣で補強されている。

写真右下が池田家を示す刻印

ノミを以て切り取られている痕跡も甑岩には残る。


さて、各伝承に付帯する「瀬戸内海から甑岩が煙を出しているのが見えた」「甑岩から煙・湯気が噴出したため、大阪城石材を取ろうとした石工たちは退散した」といった気体噴出伝承だが、これは荒唐無稽の創作か、何らかのモデルとなった現象があるのか。

かつて、本ホームページの掲示板に投稿いただいた湯畑野秀明さんの情報(2002.7.11)を紹介しておきたい。

越木岩神社「甑岩」
投稿者:湯畑野 秀明 02/07/11 Thu 21:06:01

>延喜年間(10c初)のもので「甑岩から煙が立ち込め、それは瀬戸内海の海岸沿いからも見えた」という記述のものが残っています。

という箇所を、温泉を科学的に探求されている「やませみ」さんという方に解明を依頼した所、

この付近には、阪神競馬場から甲陽園にかけて、「甲陽断層」という活断層が
走っていることが最近の調査でわかっており、それから派生したマイナーな断層を通じて、地下から温泉やガスが上昇してきていたことは充分に可能性があるとの事だそうです。

しかし、湯気というのが熱かったのかどうかまでは即断できないそうで、高圧のガスが噴出すると、低温でも減圧で水蒸気が凝縮し、湯気のようになって見えることがあるそうです。

甑岩の気体噴出伝承がまったく架空の作り話であると即断するよりも、自然科学の現象で説明できることはより実証的と言え、傾聴に値する。

また、岩から煙が噴出するという説話は、甑岩を「活動する魂を内在したもの」という認識へ導くことにもつながっただろう。
甑岩という名称自体は甑に拠るものなので装置的だが、岩石から気体が噴出し、危害を加える者に祟りをなすといったあたりは石神としての性格を色濃く感じさせる存在だ。
それはこの岩にまつられるのが市杵島姫大神という別人格の神から、甑岩大神という岩神としての神格までさまざまな神名で崇められていることからも、磐座的であり石神的であるとも言える。
そこに先後関係があったか、並行して共存していたかは今後の検討課題である。

貴船社/雨乞社


甑岩の北の社叢にもいくつかの岩石祭祀事例が存在する。

まず、甑岩北東にある境内社の貴船社は、六甲山にある「石の宝殿」を遥拝している。
これは、水不足で困窮したかつての越木岩地区の人々が、六甲山の神に降雨を祈るため、その拝礼施設としてここに社を勧請したという。

貴船社


貴船社は雨乞社の別称もあり、また、祠の裏には累々と巨石が重なり、これ自体が「石の宝殿」をシンボライズしているかのようである。
甑岩奥の巨石群に社を設けた理由に、この宝殿とも岩船とも見立てられる巨石群が無関係だったとは考えにくい。

稚日女尊宮/北の座


貴船神社の北へ進むと、社叢の頂上と言える場所に「稚日女尊宮(わかひのめのみことのみや)」がある。別称「北の座」とも呼ばれている。


稚日女尊宮 前面

稚日女尊宮 背面

こちらは社がなく、高さ1mほどのそこまで大きくはない数個の石を寄せ固めた場をまつっている。まるで日本庭園の三尊石のようであるかの佇まいを見せる。
また、神社の由緒書を見るかぎり、境内摂末社には入っていないようだが、越木岩神社の地主神にあたるという。

「北の座」自体やそこまでの参道は丁寧に整備がされているため、かえって、いつ頃から現在の状態で存在しているのか判断はつきにくい。

越木岩神社北のマンション建設予定地について


さて、越木岩神社を語る時、この問題に触れないわけにはいかない。
2015年、越木岩神社の境内の北に接した土地でマンション建設計画が持ち上がった。
この土地には自然岩が複数残っていることから、これらを「磐座」として保護・保全する運動がおこなわれたことは記憶に新しい。
詳しくは下記のwebページなどを参照していただきたい。

越木岩神社の社叢林と開発地に残る磐座の保護・保全を求めます。

越木岩神社隣接地西宮市甑岩町6番1、12筆において、株式会社創建による大規模開発(敷地面積23,443.48㎡、地下1階地上5階建、291戸)が進められております。 ...

2019年現在、マンション建設は中断されたままであり、土地内の自然岩群もそのまま残されているようである。


越木岩神社北のマンション建設予定地。森になっている所に自然岩があるらしい(2019年8月時点)

平成30年3月に終わる計画だったが着工されていないままだ(2019年8月時点)

このように保護運動には一定の効果があったが、土地の権利は引き続き建設会社側にあり、計画が取りやめになったという話も聞かないので、今後の先行きは不透明である。

マンションが建つことで、隣接する神社の社叢の環境に影響が見られる可能性があるなら、それは建設会社側が責任をもって配慮すべきであるが、土地内の自然岩群については所有者に権利があり、けっして法的に問題があるわけではないことも冷静に理解しなければいけない。

そして、神社周辺にはすでにマンションが他にも複数建っているという事実もある。
それらの先行するマンションは許されて、今回のマンションが許されないというのは、先行者利益や時代の差で片づけて良いのだろうか?すでに入居している周辺マンション住民の方への配慮も忘れてはならないだろう。
また、越木岩神社はマンション建設に反対しているわけではなく、予定地内の自然岩への配慮をした建設と、境内の社叢への影響への説明を求めているに過ぎないことも付記しておきたい。

私からは1点提起しておきたい。
これらの自然岩群が、越木岩神社から北山にかけて広がる露岩グループの一部であることは間違いないが、建設地の自然岩群が「磐座」だった(から保護されないといけない)という説はあくまでも推測にすぎない。
私の見聞きした限りでは、文献記録に明示されたものではないということに気をつけたい。

歴史的に裏付けがないのであれば、建設会社側が「文化財ではなくただの岩」とみなすのも(感情面は置いておいて)理屈としては通っている。
他者理解のためには、保護派・建設派の双方が理性的な根拠を持ち寄ることを個人的には求めたい。

日本全国には、文化財指定もされずに消滅した多くの岩石信仰の場があるのを私はたくさん見てきた。
究極的に突き詰めれば、すべての歴史的痕跡が大切にされるのなら、過去に人が住んでいた場所はすべて大切な歴史が宿っているので、今後開発は一切できないことになる。
当然、現実問題はそうにはならない。
だから、現に消滅する史跡と消滅しない史跡がある(埋蔵文化財はおおむね消滅する)。

岩石信仰の研究をしてきて、人一倍岩石に親しんできたからこそ、自己批判しないと自分の客観性を保てないと思って、このようなことを書いている。

その上で私の本問題に対する立場を表明するとしたら、次のようにまとめたい。
少子高齢化で人口減少一途をたどり、住宅飽和で空家空室増加中の日本で、新しいマンションを建てる旧来の成長拡大路線に対して、「破壊されたら二度と取り戻せない原風景を未来に残すこと」以上の価値を認められるか?私は、認められないと思っている。
この点に絞って、私は当地におけるマンション建設は不必要であると表明したい。

その一方で、保護運動側の全員ではなくあくまでも一部だが、建設会社側に対して政治的な思想と絡めて真偽定まらない情報を流布したり、宗教的またはスピリチュアルな世界と絡めて検証不明な祟りを煽ったりする一面もあったことは、当時の運動の推移を見ていた一人としては、非理性的な暴挙だったと記しておきたい。
保護という目的達成のために、無批判に感情的な流布に乗りかかることは、相手も等しく人間であるということに思いを致して、慎まないとならないだろう。

そして、建設問題によってさまざまな人々に湧き上がった感情のるつぼに振り回され、好む好まずを選ぶこともできず、新たな歴史を負ってしまった岩石たちがいるという事実。
今後、同様の問題がどこかで起こった時、岩石に対してどの立場であっても表明するということは、自分が岩石に対して新たな歴史をつくるということを、この越木岩神社隣地マンション建設問題は示している。
そのような教訓をもたないと、またどこかで同じような人々のいがみ合いが起こり、物言えぬ岩石は歴史を上塗りされるだけである。


北山公園の巨石群について


越木岩神社の北に、北山という比高差100mほどの低山があり、山中には名前が付けられた複数の巨石が存在する。
例をあげれば「火の用心石」「亀石」「西石」「太陽石」「方位盤石」などの通称が知られる。

これらの名称は古式ゆかしいものではないようで、昭和50年代に大槻正温という方が北山の巨石群を「太陽観測の天文台」だったとみなし、仮名称として名付けたことに始まっている。
大槻氏によれば、これらの巨石群の配置が各季節の太陽の出没方向と一致していると論じるが、巨石に明確な人為の手が見られず、元々そこに露出していたと思われる自然石同士に人為的な法則を当てはめることがどこまで科学的なのか、批判的に受けとめざるを得ない。

北山巨石群と言えば天文台説となっていて、本来の巨石の価値がよくわからなくなっているところもある。
岩石信仰の観点からは、巨石群に対しての祭祀を示す文献や考古学的痕跡が待たれるが、北山の南麓に越木岩神社が、まるで北山を拝するように位置し、先述したように露岩環境として同一環境にある点には一目置くべきだろう。

目神山の巨石群について


越木岩神社の北東、北山の東に目神山と呼ばれる一帯がある。
かつては丘陵地として名前のとおり一つの山だったが、戦後に宅地開発が進み現状は高級住宅地の一つとして知られている。

ここ目神山にも無数の巨石群が散在していたようで、その多くが宅地開発のなかで失われたようである。

下のwebページでは、地元の方が撮影保管していた大正末期~昭和初期の巨石群(現在は消滅)の写真が公開されており、他で見ず貴重な情報である。

六甲山ー巨石交流会ー2013年11月24日(日)神呪寺から目神山の磐座巡りを開催しました。

写真の「子持ち岩」ほか、「お鹿岩」「蛙岩」「倉掛石」「坪石」「重箱岩」「夫婦岩」の「甲陽七岩名所」があったという。
西日本では珍しい「七石」事例であるが、近代に名付けられた可能性もある。

「子持ち岩」は現・目神山町の2番坂を登って右側の山頂近くに位置したといい、本体は消滅したが、一部、岩石が残存するともいう。
他の六石のその後はわからない。古代や中近世ではなく、約百年前ですら記録がとられていないと歴史はたやすく断絶する。
今残っている岩石も大切だが、すでに消滅した岩石は加速度的に記憶の忘却が進むので、同好の方々には、このような記録を収集する作業も(地味だが)優先されることを願う。
誰もがやりたいことをやるのではなく、誰もしたがらないことにこそ、研究としての貴重性がある。


消滅した巨石もあれば、まだ残存している巨石も目神山にはあるそうだ。
それらのほとんどは個人宅の庭など私有地にあるので、一部見学している方もいるようだが所有者に配慮して、全貌はよくわからない。
一部の巨石は、所有者の方や見学者によって新たな信仰が生まれているようであるが、すべての石が古来から特別視・神聖視されていたかはまた別問題である。

もちろん、越木岩神社・北山・目神山・甲山の全域にある自然物がすべて神聖であるとみなせば、すべての石が神聖視されていたとみなすことも肯ける。
であれば、この地をすでにある程度開発していることは、現今のマンション建設問題と同じと言える。

目神山もかつては保安林や六甲山特別地区に入れられていたのが、宅地開発を進めるために保安林解除をしていった過去がある。

1956年には、目神山地域全域が瀬戸内海国立公園、六甲山特別地区に編入され、これにより土地の開発は難しくなった。 しかし、1958年目神山一帯を財団法人大阪住宅建設協会が買収し翌年分譲を開始した。保安林の解除には、この後も長く手間取った。
「甲陽園目神山地区まちづくり協議会 歴史とまちづくり活動の経緯」
https://www.machinami.or.jp/pdf/contest_report/report12_2_overview.pdf 

越木岩神社隣地マンション建設問題ではじめて問題化したようにみえるが、似たような過去があり、歴史は繰り返しているということがわかる。

この時は、守られようとした自然に対して、人々は積極的に開発の手を入れていった。
それが悪いということではなく、時代的な価値観や制約もあるし、人口増加と経済拡大の時期においてはその現象こそが自然なことだった。

では、今はどうか?
すでに私たちは相当程度の業を背負った上で、開発された土地の上に暮らしている。
そのことを理解した上で、今住んでいる人、開発する人、そして自然の岩の三者が通い合う対話がなされることを祈りたい。


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