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2019年8月26日月曜日

六甲比命大善神社/心経岩/雲ヶ岩/仰臥岩(兵庫県神戸市)


兵庫県神戸市灘区六甲山町北六甲

六甲山地の中央部に位置する、4つの岩石信仰の地。
2019年8月現在、当地を護持している六甲比命講の出資によって「六甲山の上美術館さわるみゅーじあむ」駐車場を参拝に利用できて、交通の便は良くなっている。
※2021年3月1日追記:神社参拝用に4台の専用駐車場を新設したとの情報あり、上記の美術館駐車場は使用できなくなっているらしいので注意。

六甲比命大善神社/六甲比命神社


広大な巨岩である。
全体像は巨石神殿のような迫力があるが、一つ一つの細部は意図的な造形ではない。
1ヶ所に集めた巨石構造物ではなく、元は同じ一大巨岩が風化・浸食で剥離・分離・転石した産物だと思われる。

六甲比命大善神社の巨岩。この位置で花が手向けられている。

正面左手から。写真奥方に神社社殿の建屋が見える。

正面向かって左手に、このような岩穴状の窪みがあるが、内部はすぐ閉塞している。

六甲比命大善神社の社殿は急斜面に無理して建つ。

社殿の基礎の支石・石垣

六甲比命大善神社の本殿となる祠は、逆V字の岩の亀裂にまつられる。

本殿から六甲比命大善神社の巨岩を望むと、このような造形も見せる(明らかに自然の亀裂によるもの)

ここは六甲山(向津峰)山名由来比定地とされる。







心経岩


六甲比命大善神社のすぐ下斜面にある。
「昔 法道仙人の時に心経を切り刻まれ現在あるのは大正五年頃の再建とか」

広大な岩肌に、精緻な刻字で般若心経が残されている。
六甲比命大善神社の巨岩が選ばれなかったことが興味深い。

心経岩を背中にして撮影した光景。金属製の覆屋は新しく、講によるものか。

心経岩の頂部




雲ヶ岩/紫雲賀岩


六甲比命大善神社から斜面を登るとすぐある。
「法道仙人がこの地で修行中 紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩の上に現われたという岩です」

雲ヶ岩。岩石が二つに割れ亀裂から光が差し込む。

亀裂から山並を望む。


仰臥岩


尾根上にあり、六甲比命大善神社・心経岩・雲ヶ岩の上に位置する。

仰臥岩 遠景

仰臥岩 近景

石碑には左から「佛眼上人」「熊野権現」と刻まれ、
一番右は「花山法皇」と刻まれるらしいが判読しにくい。

石碑と石祠の背面側から撮影。



「六甲比命大善神社の由来」より


「六甲比命大善神社の由来」は、六甲比命講世話人会の2名が著した由緒書で、私は2019年8月6日の日付が入った第10版を六甲比命神社で入手した。
こちらに書いてある情報は比較的冷静な記述が多く、信頼に足るものが多いのではないかと考えられるので、要点を紹介しておきたい。

まず、六甲比命大善神社は俗称が「ヒメさん」で、正式には弁財天をまつるという。
2011年に、これは瀬織津姫であることが判明したとも付記されているが、これはいわゆる仮説であり、全方位から確定したものではない。
本来の当社の信仰を乱す恐れがあるため、「ヒメさん」「弁財天」とは切り分けておくことを求めたい。

先に紹介した巨岩横の社殿であるが、祠が初めて設けられたのは心経岩が整備された頃(刻字が彫り直された大正5年?)だそうである。
その後、昭和43年に立て直され、そのときに階段なども新設。さらに、平成6年に本殿の改築、平成8年に拝殿・階段が改築されたことも記録されている。
とはいえ、自然の過酷な立地環境にあるため、敷設された階段は腐食も進み、拝殿も横の巨石が少しずつずり落ちて来て接触しており、建て直しが検討されている。

六甲比命大善神社拝殿の貼り紙


本由来では、ほかに他聞寺についての情報もまとめられている。
六甲山吉祥院他聞寺は当地より北西の神戸市北区有野町唐櫃にあり、インドからの渡来した法道仙人が645年に開基したと伝えられる。
六甲比命大善神社・心経岩・雲ヶ岩・仰臥岩が残るこの山域は、他聞寺の奥ノ院に指定されており、山岳仏教の霊場の一つとして歴史をたどることは確実にできる。


心経岩の登り口にある、奥ノ院であることを示す標示。



「六甲山 瀬織津姫・白山姫と和歌姫和す・尽くす トノヲシテの復活!」より


六甲比命大善神社の拝殿内で頒布されていた私家版の本「六甲山 瀬織津姫・白山姫と和歌姫和す・尽くす トノヲシテの復活!」(以下、大江氏著作)は、ホツマツタエや瀬織津姫を研究する大江幸久氏によって著された研究書(2015年発行版)である。

書名のとおり、六甲山が瀬織津姫の聖地であり、ホツマツタエの記述からそれを探るという内容になっているが、注目すべき個所と、裏付け不足で持論として切り分けて読まないといけない箇所に分かれている。
六甲比命大善神社に関わる部分に絞って、いくつか論点を紹介しておこう。


■ ホツマツタエの取り扱いについて

ホツマツタエは『秀真伝』の名で知られ、いわゆる神代文字で記された古史古伝の一書として有名である。
ホツマツタエもホツマ文字(=ヲシテ)という独自の神代文字で記されていることから、神代文字が漢字以前に遡らない近世の創作文字であることが指摘されて以降、古史古伝の内容自体の評価も全否定か、いわゆるトンデモネタのソースとしてしか取り上げられない状況だった。
しかし、近年では近世における宗教思想を語る文献として再評価が進んでいるようで、最近では吉田唯氏『神代文字の思想―ホツマ文献を読み解く―』(平凡社、2018年)のような、学術的アプローチによる研究も増えている。

大江幸久氏もホツマツタエの研究家であるが、大江氏著作はホツマツタエを真作と見ており、その成立を記紀以前に位置付けている点で昭和以前の視点であり、現代の学問的批判を経たうえでの研究とは言えない。

その点を踏まえたうえで、情報を取捨選択していこう。


■ セオリツヒメの位置付け

セオリツヒメ(瀬織津姫)は、ホツマツタエでは天照大神を男神として描くアマテルの12人の妻の一人であり、向津姫(ムカツヒメ)の名もある(吉田唯2018年)。

この向津姫が、西宮市に鎮座する廣田神社に「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」(天照大御神荒魂)の名で主祭神としてまつられている。

また、六甲山は平安末期には廣田神社の社領であったとされており、六甲山の山名はもともと「ロッコウ」ではなく「ムコ」(武庫/向こう)と読むのが本義であったという見解が広く認められている(坂江捗2011年)。

ここから向津姫はセオリツヒメで、今は女性神化した天照大神の本来の女神部分(荒御魂)であり、六甲山はムコの神である向津姫をまつる山だったという推論が導き出される。この論理自体は納得性があり、多くの学者の検討に値するのではないかと思う。

ただし、大江氏著作ではホツマツタエに記されたセオリツヒメの生誕地「柿田川」の場所を、「霊能者ハニエルさん」の霊言によって静岡県三島市であることを証拠に挙げており、これでは科学的な追試は不可能で、本書の信頼性を大きく揺り動かすものとなっている。


■ 六甲比命大善神社という呼称はいつまで遡れるのかがわからない

また、六甲山が向津姫の鎮座地であることは首肯できるが、それが六甲比命大善神社だったとまでいうには論理の飛躍がある。

そもそも六甲比命大善神社という名前は、歴史上いつまで遡ることができるのか、ここが由来書においても、大江氏著作においてもはっきり書かれておらず、ウィークポイントである。

現地の巨岩は人工の造作ではないので、それが逆に、有史前から”そこ”に存在していたことを示唆するが(後世の地滑りなどでの出現でない限り)、由来書から読み取れるのはここが「ヒメさん」「弁財天」と呼ばれていたということだ。
六甲比命大善神という大仰な神名は、大江氏著作の冒頭にも記されているとおり他の伝承や記録には一切登場しない。歴史的な裏付けが取れないからこそ、後出名称の可能性がある。

また、私は岩石信仰の研究者として情報収集を続けてきたが、たとえば西宮市在住で兵庫県内の磐座に熟知していた藤本浩一氏の『磐座紀行』(向陽書房、1982年)に当地の巨岩は一つも登場しないし、イワクラ写真家である須田郡司氏の『日本の聖なる石を訪ねて―知られざるパワー・ストーン300ヶ所―』(祥伝社、2011年)にも六甲山特集が組まれているにも関わらず、当地の紹介はない。

六甲比命大善神社がパワースポットとして有名になったのはこの2011年より後のことだろう。
先述のとおり、2011年、この巨岩をセオリツヒメと定めた(大江氏が定めたようである)時から急浮上した感がある。セオリツヒメはスピリチュアル世界で人気の神であることから(セオリツヒメ商標登録問題など)、ホツマツタエをスピリチュアルに取り入れる中で知名度が相まっているのだろう。

いわゆる神代文字・古史古伝・日本ピラミッドブームが起こった1980年代のオカルト系・超古代文明系の文献を紐解いても、六甲山はかつてから超古代巨石文明の証拠として保久良神社の磐境、北山巨石群、目神山巨石群、甲山ピラミッド説など百花繚乱の地だったが、当地・六甲比命大善神社は一文字も出てこない。

もちろんこれは、仰臥岩、雲ヶ岩、心経岩、そして他聞寺の奥ノ院であることを考え合わせると、ただ関係諸氏の中でこの地の存在がひたすら知られていなかっただけに尽きるだろうが、それはそのまま、当社が大仰な名称ではなく地元民だけで語られる素朴な「ヒメさん」だったことを示唆しているのではないか。

その「ヒメさん」が、弁財天を指すものだったか、向津姫に通ずるものなのかは、即断できない。今後の後学の研究に期待したい。

聖地としての全国知名度は、極めて最近のムーブメントによるものであり、これに惑わされず、切り離したうえで岩石の歴史を考えないと、思わぬ錯覚・誤解をきたす。
当地の今後の取り上げられかたは、旧来から真に伝えられてきた地元の人々の信仰を尊重するということを大切に進められて欲しいと願っている。

【参考】大場磐雄博士の所見より


考古学者の大場磐雄博士が昭和9年に当地を実地踏査しており、博士が記した調査ノート『楽石雑筆』巻11に両地の所見が記されていたため、参考に付記したい。

心経岩を見る、ここは雲ヶ岩の下にありて修験者の行を行うところなりと、一巨岩に般若心経を刻せり、ここより登ること二、三町にして雲ヶ岩に至る、巨岩累々或は磐居し、或は立ち、或は組み、或は積まれ千態万姿たり、天工の妙大いに見るべし、蓋し何れも自然のままのものなるべし。

以上、角田文衛(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(中)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1976年 より


心経岩や雲ヶ岩の名は出るものの、おそらく六甲比命大善神社の巨岩を指すだろう千態万姿の岩には、岩の名前も神社名も出てこない。ヒメさんや弁財天の名も登場しない。
そして、「天工の妙大いに見るべし」と驚嘆の評価をしつつも、一方で「何れも自然のままのものなるべし」と、客観的にこの巨岩群が自然の営為でじゅうぶん形成される存在であることを記している。

参考文献

  • 六甲比命講世話人会「六甲比命大善神社の由来」2019年第10阪
  • 大江幸久「六甲山 瀬織津姫・白山姫と和歌姫和す・尽くす トノヲシテの復活!」私家版 2015年
  • 吉田唯「ホツマ文献にみる『ミヤコトリ』について―『秀真政伝紀』と大宝神社所蔵『都鳥の歌』を中心に―」『宗教民俗研究』第29号 2018年
  • 坂江捗「六甲山の呼び名―『ロッコウ山』と『ムコの山』―」『神戸・阪神間の古代史』神戸新聞総合出版センター 2011年
  • 六甲比命講公式ブログ http://rokkouhime.cocolog-nifty.com/blog/(2019.8.26閲覧)
  • 角田文衛(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(中)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1976年 

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