三重県熊野市有馬町上地
高さ約50mといわれる岩壁「花の窟」に祭神・伊弉冉尊をまつる神社として有名である。
花の窟 |
花の窟下部と拝所 |
民俗学者の野本寛一氏の『石の民俗』(1975年)によると、別称として「般若の窟」「産立の窟」「隠れ窟」「オメコ岩」「大ハナ」が記録されている。
『日本書紀』の一書に「伊弉冉尊火神を生み給う時に灼かれて神退去ましぬ。故れ紀伊国熊野の有馬村に葬しまつる。土俗此神の魂を祭るには花の時に花を以って祭る。又鼓吹幡旗を用て歌い舞いて祭る」とある。
有馬村の伊弉冉尊の葬祭地がこの花の窟に比定されているが、細かいことを気にするなら岩石の記述は見当たらないことも付記しておく。
先述の書紀の記述には、開花期に花を供え、鼓・笛・旗などを使用して歌舞を行ない神祭りをするという祭祀の様子が具体的に描かれている。
このような、歌舞や花や幡で供え飾る祭祀行為はただの祈願祭祀というより、被葬者に対する鎮魂の性格を持つ祭祀としてあったと考えられる。
これらを踏まえると、花の窟は葬送祭祀であり、それが「神の最終鎮座地=神の墓」でおこなわれるという、神祭りと葬送の融合した性格を垣間見ることができる。
神が不可視の存在であることを踏まえると、葬送儀礼の中でもこれは埋め墓の発想ではなく詣り墓としての祭祀と考えてもいいかもしれない。
花の窟の淵源がいつ頃まで遡れるのかわからないので、これは古墳時代のいわゆる葬祭未分化という論点とは分けて考えたい。
地域差はあるだろうが、少なくとも当地では「墓所」「祖霊」「神祭り」といった概念が厳密に分かれていたわけではなく、同一軸上にあったということを示すのではないだろうか。
また、花の窟は窪み面を持つ岩肌だが、「窟」と言えるほどの岩屋空間は持っていない。
それでいながら「窟」と呼ばれるのは、磐蔵・岩倉といった蔵庫的な側面を持つ磐座思想から由来するものと思われる。
それは、岩石を神の魂の入れ物(クラ)と見る心性であり、岩石に穴や内部空間が必ずしもなくても、窪みや凹みがない岩石にさえ、神宿ると信仰された事例は数多認められる。
いわゆる岩屋信仰・窟信仰とは、神宿るという磐座の概念と聖地には空間があるという磐境の概念が融合したものと解することができるだろう。
2月と10月に催される「御綱掛け神事」は、花の窟の上部から御綱(錦の幡)を境内前面の塔(かつては海岸の巨松に掛けたが松は枯死した)に掛け渡す祭礼として知られる。
花の窟に掛かる御綱 |
花の窟の岩壁の窪みには種々の白石が積まれているが、これらは神社の祭礼の時に合わせ、地元の人々が社の前の浜で白い丸石を探し、それを岩壁の窪みに捧げる風習とのことである。
このような窪みと白石の奉献が複数箇所見られる。 |
花の窟に向かい合うように一回り小さい岩があり、これを王子窟と呼び、伊弉冉尊の子である火神・軻遇突智尊をまつる。
王子窟 |
花の窟神社の手水所の脇に高さ約1mの丸石があり、注連縄が巻かれている。
野本寛一氏の調査によれば、この丸石に水を注いで祈願すると病が治ると信じられているという。
別の情報として、神職の方談でこの丸石は花の窟から落ちてきたものともいう(「45メートルの巨岩に神霊を祀る 花の窟神社」)。
手水所脇の丸石 |
なお、2021年9月に「花の窟」の岩壁の一部が剥がれ落ち、下の敷石場と、すでに存在していた岩塊の上に重なるように落下したことが報道された。
世界遺産「花の窟神社」でご神体の巨岩崩落 三重・熊野:中日新聞Web
上記の手水所の丸石も、岩壁から落石した後に新たな信仰が生まれたことを考え合わせると、この度の新たな落石の今後の特別視、神聖視、物語化の可能性も注視している。