岡山県岡山市吉備津~一宮
吉備の中山と吉備中山
吉備の中山は標高175mの龍王山(別称・権現山)を最高峰とする低山だが、山中には他にも複数の峯が林立しており一大山塊の様相を呈する。
吉備の中山 |
現在は「吉備中山」と書くことが多いが、薬師寺慎一氏『「吉備の中山」と古代吉備』(2001年)によると平安時代の歌集などでは「吉備の中山」という表記が一般的だったという。本ページもそれにならって「吉備の中山」の表記に統一したい。
吉備の中山の北東麓には備前国一宮吉備津彦神社、北西麓には備中国一宮吉備津神社が鎮座する。
1つの山を分け合って2つの一宮が鎮座するのがこの山の大きな特徴で、その理由はかつて吉備の中山が旧・吉備国全体にとっての聖山だったものが、大和朝廷により備前国・備中国に分割されたからと考えられている。
吉備の中山は現在平野上の里山の趣だが、古代は吉備中山のすぐ南まで海岸線が来ており、交通上の山アテとしても重宝された可能性が指摘されている。
吉備津彦神社境内の岩石信仰
■ 環状列石
備前国一宮吉備津彦神社の境内には神池という広大な池がある。
その中に、鶴島・亀島・五色島の3つの小島が配されて庭園となっている。このうち最も東に浮かぶ五色島に整美な環状列石が存在する。
写真のとおり、20個の岩石が綺麗に環状に並べられている。
批判的に見るならば、この庭園を築いた時に造られた産物であり、環状列石という言葉から連想するような、たとえば縄文時代に遡るような所産ではない可能性が高い。
庭園自体の築造年代は不詳だが、3つの島を配するという様式は三島式庭園と呼ばれ、平安時代まで遡りうるものといわれる。
■ 八島殿
吉備津彦神社所蔵の『古代御社図』には、徳寿寺の谷川を挟んだ対岸に文明3年(1471年)「八島殿」という建物があったことが記されている。
『古代御社図』にある八島殿(現地解説板より) |
薬師寺氏『「吉備の中山」と古代吉備』によれば、『備前州一宮密記』という文献に八島殿には神座と呼ばれる石があり、吉備津彦神社へお供えをする場合はまずこの石に供え物を置いて、霊烏がついばんでから吉備津彦神社に供えないといけないとある。
薬師寺氏の調査により、八島殿があったとされる場所に長さ約3m、巾約1m、高さ約1mの安山岩を確認したという。私は未見だが、これが八島殿の神座だったのではないかと薬師寺氏は推測している。
供物台石として用いられたことが分かる岩石祭祀事例であると同時に、神の使いあるいは神の象徴が一時的に現れる場としても語られていることがわかる。
■ 忠魂碑台石
境内南に忠魂碑が立てられている。
碑に使われた台石だが、かつて背後の一段高い場所から移設してきたものだといわれている。
薬師寺氏によると、そこは『古代御社図』に描かれたかつての本殿の位置であることから、この台石は古代のイワクラだったと指摘する。
根拠は、古代の社殿はイワクラの近くに作られることが多かったからというやや漠然としたもので、私は積極的に支持はできないが候補として紹介しておく。
吉備津神社境内の岩石信仰
■ 矢置岩/矢置石/箭置石
矢置岩・矢置石・箭置石など、複数の表記がある岩石。
備中国一宮吉備津神社の北参道口にあり、温羅(うら)という鬼を討伐するために大和から派遣されてきた大吉備津彦命が、この岩の上に矢を置いて弓を引き温羅を退治したと伝説が付帯する。
と同時に、矢置岩は「箭祭(やまつり)」という神事にも登場する。
箭祭の祭祀順序を簡略化してまとめる。
- 前日に祭場の掃除をしておく。
- 2本の矢を箭置石の上に置く。
- 神主がその矢を持って本殿に参る。
- 本殿の東北隅にある艮御崎神社に矢を供え祝詞を上げる。
- 再び矢を持って本殿に参る。
- 桜箭神社に行き、穴を掘ってその中に矢を埋納する。
神への奉献物である矢を置く供物台石として機能していることがわかる。
■ 矢納宮石
江戸時代に描かれたとされる境内絵図には、矢置岩の背後の山腹に「矢納宮石」と記され、2個の石が描画されている。
薬師寺氏によれば、これは桜谷神社・桜箭神社といわれる社だという。
桜箭神社は前述の通り、箭祭において奉献物である矢を最終的に埋納した場所である。
矢納宮石も、矢置岩と同じく箭祭に用いられた岩石と思われるが、神事の中では「穴を掘って矢を納める」という記述しかなく、矢納宮石がどのように機能していたのかは不明だ。
■ 岩山宮
中山主命・建日方別命の二柱を祭神とする境内摂社。長い石段の上、山腹と言って良い場所に鎮座する。
社名が指すように、岩を神体とする神社だという。
現在は社殿の中に岩がまつられているため、外から岩の様子を確認するはできないが、岩石祭祀→社殿祭祀への変遷を示す事例。
■ 金比羅の露岩
江戸時代の境内絵図では、山腹に「金比羅」という字とともに、祠の絵とその背後に屏風のごとく覆う岩が描かれている。
この金比羅の祠は現存しておらず、他の場所に合祀もされておらず、完全に信仰が途絶えたようだ。
薬師寺氏の調査の結果、絵図の示す山腹の辺りには大きな露岩が現存し、その前面に二段積みの石垣と平坦地が確認されている。
ここにかつて金比羅の祠がまつられていたことは明らかとなったが、背後の露岩を岩石信仰と認められるかどうか。
絵図に描画されているのは、単に視覚的に印象に残ったからランドマークとして描いたのか、岩が神聖視されていたからなのか読み取れない。
ただ、薬師寺氏が古老に聞き取った所によると「金比羅さまは吉備津宮の元宮と聞いています」という話があったらしい。
吉備の中山の岩石信仰
■ 穴観音
大吉備津彦命墓として宮内庁指定されている中山茶臼山古墳(前方後円墳)。
その後円部の東に5体ほどの岩石が群集している。
岩石の表面を窪ませて仏を彫刻していることから穴観音の名称がある。主石の左側面の穴に耳を当てると観音様の声が聞こえるという。
一宮地域活性化推進委員会の現地解説板および薬師寺氏によると、これらの岩石群は中山茶臼山古墳築造以前からこの場所にあり、石仏以前のイワクラだったと推測されている。
しかし、前方後円墳の築造には大がかりな墳形整備が必要であり、中山茶臼山古墳測量図の等高線の流れから見ても、穴観音の岩石群の辺りは原地形を保っていない。
穴観音の岩石自体も地中に根ざす岩盤ではなく、地表に置かれた単立の岩塊である。私は明らかに古墳築造後の所産であると考える。
■ 鏡岩
山頂からやや西に下った山頂直下と言えるところに、身長を越えるレベルの巨岩が複数林立している。
その内の1体を鏡岩と呼んでおり、斜面下側の岩肌は縦にスパッと割れたかのように平らであり、楕円形の鏡の形状を見せる。
ただ、表面には石のしわが大量に走っており、鏡のような光沢面は見られない。
薬師寺氏『「吉備の中山」と古代吉備』に未登場であることから、もしかしたら近年の命名の可能性もある。
■ 八畳岩/奥宮磐座
標高162mピークのほぼ山頂に立地。
そこには奥宮磐座と総称される大小の露岩の群れが広がっており、その中でひときわ大きいものを八畳岩と呼ぶ。
特筆すべきは、この八畳岩の斜面下側の根元から土師器片が採集されていることだ。
岩の根元には岩陰状の窪みもあり、そこを祭具埋納の場所としたのかとも思わせる。祭祀方向も、山の斜面下側からということがわかっている。
しかし、土師器と一言でいっても、その製作は古墳時代から江戸時代まで幅広い。はたしていつの遺物なのか、今はどこに保存されているのか、重要な考古学的情報なだけにもう少し情報公開があっても良いだろう。
■ 環状石籬(かんじょうせきり)
環状石籬という用語は、今で言う環状列石=ストーンサークルと同義であり、かつて鳥居龍蔵博士が巨石文化関係の研究をしていた時に盛んに用いられていた。
前述の奥宮磐座と類似した大小の露岩の散在具合であり、自然の露岩群だろう。意図的に環状に岩石を並べたという様子はうかがえない。薬師寺氏の著書には未登場。
■ お休み岩
誰が休むのか沿革不明。薬師寺氏著書未登場。
■ 元宮磐座
標高175mピーク(龍王山)の山頂直下に位置。
斜面下から上までの高さ3mの単立岩で、元宮磐座という名前からはただ事ではない重要性を感じさせるが、先述の奥宮磐座との名称の近似性や対応関係は不明。
また、薬師寺氏の著書にはすぐ近くの経塚や八大龍王の記述はあるのにここは未登場というのが気になる。平成時代になってからまつられるようになったという話も聞く。
こう思うに、吉備の中山の岩石祭祀事例には、近年名付けられた「イワクラ」と、古来から祭られてきた「磐座」が混在している恐れがある。
「近年名付けられたイワクラ」も、名付けた側からすれば太古の磐座の掘り起こしという意味合いかもしれないし、現在は祭祀されている岩石ということは間違いはない。
たとえば、毎年、5月の第2日曜に備前吉備津彦神社の主催で「磐座祭り」が執り行われており、元宮磐座はその巡拝コースに入っている。
けれども、一つ一つの事例の歴史資料として差があるのならば、それを峻別しておかないと、あれもこれも太古の磐座では岩石も古代の人々も浮かばれないだろう。
人々の記憶の風化というのは恐ろしく早い。50年もすれば、すべての記憶は玉石混交になってしまう。
特に信仰というものは心の中の見えない世界観であるため、慎重に取り扱わなければその歴史的価値をすぐに取り違えてしまう危険性がある。
岩石に名前を新たに付ける方々にも、多少なりともその意識が共通認識として広がることを祈りたい。
■ 経塚
龍王山頂上に立地。
経塚とは、経筒を地中に埋納した後、地表を小ぶりの石礫で覆った後、中心に若干大きめの石礫を寄せ固めたもの。これも岩石祭祀である。内部から出土した銅製経筒は鎌倉時代製作の推定。
すぐ北に隣接して八大龍王の石祠がまつられている。石祠は天明の大飢饉で象徴的な天明年間(1781~1789年)の寄進とされている。
■ 権現岩/権現の神座/盗人岩/天柱岩
山腹の急斜面上に屹立する立岩。
岩の上部に「天柱」という虹が刻まれており天柱岩の名前があるが、これは山麓に本部を持つ宗教法人福田海が刻んだもので、かつては盗人岩と呼ばれ、江戸時代の文献や絵図においては権現岩、権現の神座といった名称で記されていた。
岩の根元からは鎌倉時代と推定される土師器片が採集されている。
■ 夫婦岩
元宮磐座からお休み岩へ至る山道の途中、「夫婦岩」への標識と分岐に出会う。
この分岐は吉備の中山の東側斜面を谷間沿いに下っていく道で、分岐から10~15分ほど歩くと「夫婦岩遺跡」と書かれた標識と共に2体の巨岩が出現する。
なぜここだけ「遺跡」の表示になっているのは謎。
立岩の手前は崩落したのか赤土むき出しの窪みが開けており、近年補強したのか、数段のテラスに形成した石垣が築かれている。
2体とも立岩状であり、どちらが男でどちらが女かはわからない。薬師寺の著書には未登場。
■ 不動岩
前述の福田海の敷地内にまつられている自然の巨岩。
福田海は明治時代に結成された新宗教だが、福田海ができる前ここは有木神社という神社が鎮座し、背後の峰を有木山と呼んでいた。
有木神社は明治時代に備中吉備津彦神社に合祀され、現在は跡地に小祠が残るのみだが、薬師寺氏によれば有木神社は平安時代に都人の間で屏風絵の舞台や和歌の題材として用いられるような著名な場所だったと指摘されている。
このことから、不動岩も自然岩であるために有木神社が盛行していた時期、あるいは神社祭祀以前から吉備の中山の山麓祭祀の一端を担っていた場所だったのではないかと考えられている。
■ 内宮石
『梁塵秘抄』(平安末期)に吉備津の「内の宮」として記述があり、江戸時代の吉備津神社境内絵図には11個の石が環状に描画されており傍らに「内宮石」と記されている場所がある。
内宮は明治時代に吉備津神社境内摂社の本宮に合祀されたため、旧社地は人跡がない。
1989年に薬師寺氏らが踏査したところ、旧社地であることを示す石碑や石段跡が確認されている。11個の内宮石は完存していないようで、その名残と思われる一部の岩石を発見するにとどまった。
平安末期の「内の宮」が江戸時代絵図の内宮石と同じものを指すかは若干の検討の余地を残すが、重要なのは、吉備の中山に散見される「環状列石」という一種の祭祀形態が戦前戦後の巨石文化研究の安易な影響によるものではなく、少なくとも江戸時代の吉備で環状に岩石を並べ祭場とする発想があったと裏付けられたことだ。
この事実は、備前吉備津彦神社の五色島にある環状列石も同様の発想に基づくものだということを補強し、吉備における環状列石思想の成立は研究する価値がある。
■ 影向石
吉備の中山の西麓にかつて新宮と呼ばれる社があり、新宮は明治時代に内宮と共に本宮に合祀された。
旧社地には「影向石」と刻字のある石碑が立てられ、以前そこが神のいた場所だったことを今に伝えている。
■ 「S山」山頂遺跡
「S山」とは薬師寺氏命名による仮称で、内宮石のほぼ真南に位置する峰に名前がないため、吉備の中山の南(=South)の峰という意味で付けられた。
ここにはイワクラと思しき岩石があったというが、鉄塔が建設された時に破壊され、その際に弥生時代の分銅形土製品・石剣・弥生土器片などが見つかったそうである。
どのような調査報告に基づくものなのかは薬師寺氏の著書に書かれていないので不明。
こう思うに、吉備の中山の岩石祭祀事例には、近年名付けられた「イワクラ」と、古来から祭られてきた「磐座」が混在している恐れがある。
「近年名付けられたイワクラ」も、名付けた側からすれば太古の磐座の掘り起こしという意味合いかもしれないし、現在は祭祀されている岩石ということは間違いはない。
たとえば、毎年、5月の第2日曜に備前吉備津彦神社の主催で「磐座祭り」が執り行われており、元宮磐座はその巡拝コースに入っている。
けれども、一つ一つの事例の歴史資料として差があるのならば、それを峻別しておかないと、あれもこれも太古の磐座では岩石も古代の人々も浮かばれないだろう。
人々の記憶の風化というのは恐ろしく早い。50年もすれば、すべての記憶は玉石混交になってしまう。
特に信仰というものは心の中の見えない世界観であるため、慎重に取り扱わなければその歴史的価値をすぐに取り違えてしまう危険性がある。
岩石に名前を新たに付ける方々にも、多少なりともその意識が共通認識として広がることを祈りたい。
■ 経塚
龍王山頂上に立地。
経塚とは、経筒を地中に埋納した後、地表を小ぶりの石礫で覆った後、中心に若干大きめの石礫を寄せ固めたもの。これも岩石祭祀である。内部から出土した銅製経筒は鎌倉時代製作の推定。
すぐ北に隣接して八大龍王の石祠がまつられている。石祠は天明の大飢饉で象徴的な天明年間(1781~1789年)の寄進とされている。
■ 権現岩/権現の神座/盗人岩/天柱岩
山腹の急斜面上に屹立する立岩。
岩の上部に「天柱」という虹が刻まれており天柱岩の名前があるが、これは山麓に本部を持つ宗教法人福田海が刻んだもので、かつては盗人岩と呼ばれ、江戸時代の文献や絵図においては権現岩、権現の神座といった名称で記されていた。
岩の根元からは鎌倉時代と推定される土師器片が採集されている。
■ 夫婦岩
元宮磐座からお休み岩へ至る山道の途中、「夫婦岩」への標識と分岐に出会う。
この分岐は吉備の中山の東側斜面を谷間沿いに下っていく道で、分岐から10~15分ほど歩くと「夫婦岩遺跡」と書かれた標識と共に2体の巨岩が出現する。
なぜここだけ「遺跡」の表示になっているのは謎。
立岩の手前は崩落したのか赤土むき出しの窪みが開けており、近年補強したのか、数段のテラスに形成した石垣が築かれている。
2体とも立岩状であり、どちらが男でどちらが女かはわからない。薬師寺の著書には未登場。
■ 不動岩
前述の福田海の敷地内にまつられている自然の巨岩。
福田海は明治時代に結成された新宗教だが、福田海ができる前ここは有木神社という神社が鎮座し、背後の峰を有木山と呼んでいた。
有木神社は明治時代に備中吉備津彦神社に合祀され、現在は跡地に小祠が残るのみだが、薬師寺氏によれば有木神社は平安時代に都人の間で屏風絵の舞台や和歌の題材として用いられるような著名な場所だったと指摘されている。
このことから、不動岩も自然岩であるために有木神社が盛行していた時期、あるいは神社祭祀以前から吉備の中山の山麓祭祀の一端を担っていた場所だったのではないかと考えられている。
■ 内宮石
『梁塵秘抄』(平安末期)に吉備津の「内の宮」として記述があり、江戸時代の吉備津神社境内絵図には11個の石が環状に描画されており傍らに「内宮石」と記されている場所がある。
内宮は明治時代に吉備津神社境内摂社の本宮に合祀されたため、旧社地は人跡がない。
1989年に薬師寺氏らが踏査したところ、旧社地であることを示す石碑や石段跡が確認されている。11個の内宮石は完存していないようで、その名残と思われる一部の岩石を発見するにとどまった。
平安末期の「内の宮」が江戸時代絵図の内宮石と同じものを指すかは若干の検討の余地を残すが、重要なのは、吉備の中山に散見される「環状列石」という一種の祭祀形態が戦前戦後の巨石文化研究の安易な影響によるものではなく、少なくとも江戸時代の吉備で環状に岩石を並べ祭場とする発想があったと裏付けられたことだ。
この事実は、備前吉備津彦神社の五色島にある環状列石も同様の発想に基づくものだということを補強し、吉備における環状列石思想の成立は研究する価値がある。
■ 影向石
吉備の中山の西麓にかつて新宮と呼ばれる社があり、新宮は明治時代に内宮と共に本宮に合祀された。
旧社地には「影向石」と刻字のある石碑が立てられ、以前そこが神のいた場所だったことを今に伝えている。
■ 「S山」山頂遺跡
「S山」とは薬師寺氏命名による仮称で、内宮石のほぼ真南に位置する峰に名前がないため、吉備の中山の南(=South)の峰という意味で付けられた。
ここにはイワクラと思しき岩石があったというが、鉄塔が建設された時に破壊され、その際に弥生時代の分銅形土製品・石剣・弥生土器片などが見つかったそうである。
どのような調査報告に基づくものなのかは薬師寺氏の著書に書かれていないので不明。
参考文献
- 薬師寺慎一 『「吉備の中山」と古代吉備』 吉備人出版 2001年
- 八木敏乗 「吉備中山」 『岡山の祭祀遺跡』(岡山文庫145) 日本文教出版 1990年
- 「吉備の中山を守る会」ホームページ 2022年1月3日閲覧 ※吉備の中山の旧跡に説明看板を立てている会で、説明文は資料第一主義の客観的な記述になっている。
0 件のコメント:
コメントを投稿
記事にコメントができます。または、本サイトのお問い合わせフォームからもメッセージを送信できます。