2019年10月6日日曜日

「この人を知る 吉川宗明さん」(パッション第65号掲載)

四日市市立文化協会の会誌『パッション』第65号に、私のインタビューが掲載されました。



ローカルな記事ですので、一部、四日市市民向けに書いているのはご容赦ください。

私は岩石を信仰していない、とインタビューでは言っていますが、言葉というものは難しい。

私が岩石に愛着というか執着を持っており、執拗に岩石に惹かれていることは間違いない。
それは、信仰という概念そのものではないかもしれないが、信仰とまったく無縁の感情でもないのでは、とも思います。

かつては、研究者たるもの、研究対象に対しては第三者的に、客観的に、批判的に、ある種冷ややかに見ないといけないと枠にとらわれていた時期もありました。
しかし、それもそれでバイアスがかかっており、そもそも人が客観的であるということが傲慢で、さらに、当事者感覚を通過せずに研究することの危険さも感じ、今は必ずしも「信仰していませんよ」ということが免罪符になるわけではないということも承知しています。
(信仰していたほうが当事者感覚を理解できて、より良い研究ができると言っているわけでもないので、あしからず。)

こんなことを言い出すと雑誌のカラーにも合わないし、編集の方も困惑だと思うので、紙面のような感じにおさまりました。


紙幅の都合上カットされた質問項目がいくつかあり、その中のひとつだけこちらのブログで掲載しておきます。

Q.別の仕事をされながら石の研究を両立されているコツは?

A.これは家族を含め、周囲の方々の理解があるおかげです。
私の中ではひとつ思っていることがあります。昭和の頃は、学校の先生などをしながら郷土史研究などをされる在野研究者と呼ばれる人たちが一定数いて、その方々が地方文化の一翼を担っていたと聞きます。
近年は社会のいろいろなサービスが高度化してきて、余暇も仕事に還元していかないと満足なサービスを提供しにくい時代なのかなと、仕事をしていて感じます。
そのような働き方にも理解しつつ、一方で、その煽りを受けて衰退しつつあると思うのが、お金を生まないとされる研究活動や文化活動です。職業研究者以外は余暇の中で取り組むわけですから、オフもたえずオンに結びつけようと勉強している仕事人からすると、生産的ではない行為でしょうね。マイノリティなことをしていると思います。
ある意味、私はマイノリティの象徴として岩石信仰研究を置いているところがありますが、生産性がないと評価されて注目もされないマイノリティの文化が死滅すれば、最終的に世界は均一化していきます。均一化は、人々になにかしらの歪みを生むと考えています。
なんだか壮大な話になりましたが、こういう生き方もあっていいのではないかということをどこかの誰かに示したくて、今後も両立していきたいと思っています。

文化を守る文化協会の雑誌に載るものだから、私の文化に対する考え方を伝えたかったのですが、他の質問とカラーがちがうのでこれはボツですね(笑)

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