2019年11月25日月曜日

奈良県宇陀市榛原内牧村における岩石信仰の文献調査

先日、ちくま学芸文庫から再刊された筑紫申真氏の『日本の神話』(原著は1964年発表)を読みました。
そのなかで、下記の記述が目にとまりました。

「磐余のすぐ東がわには、広大な磐境の遺跡がある。高城岳を中心とする宇陀郡内牧の、神籠石とおぼしき山岳信仰の遺跡は注目に値する。」

そのような「遺跡」があるとは寡聞にして知らず、これの典拠はなんだろうと探してみました。筑紫氏も出典を書いてくれればいいのですが。

結果、竹野次郎氏著『奈良県宇陀郡内牧村に於ける皇租神武天皇御聖蹟考』(皇祖聖蹟莬田高城顕彰會、1937年)という文献を発見。図書館で探すより、古本で買ったほうが易かったので取り寄せました。


薄い冊子です。
奈良県宇陀郡内牧村は、現在の行政区分で宇陀市榛原内牧となっている場所です。

目次を開けます。



見出しに、磐境のオンパレードです。
本文を読んでいくと、磐境はストーンサークルや神籠石の用語と同じ使われかたをしていました。

「神籠石と認められ」「磐境の神籠石かと思はれる」などの記述から、磐境や神籠石という呼称はストーンサークルと同様、地元で古来から呼ばれていた名前ではなく、当時の学者が好んで使用していた学術名称のようなものと考えたほうがいいでしょう。
なお、これは学史上、神籠石論争の影響を受けたものであり、現在の研究状況では神籠石や磐境を安易に宗教上の施設名称として用いることは学問的ではないとみなされています。

さて、本書を一読しましたが、戦前の神武天皇顕彰による影響や、当時の研究水準云々から、すべてを信じることはもちろんできません。
しかし、内牧地区の数々の「磐境」や立石、岩窟が紹介されているなかで、各地の地元の伝承や小字の説明が収録されています。「だだおし」「ジョウセン岩」「玉石」など、元の名前がついている岩石も見られます。
それらの情報は「磐境」と学者に呼ばれてしまう前の本来の岩石信仰につながる記録として、もう一度陽の目をあてる必要があるのではないかと思うのです。

本書にはこのような地図も付属していました。



見にくいですが、赤字で内牧地区の旧跡が細かく注記されています。

本書収録から90年超の歳月がたちました。
はたして、これらの旧跡のうち、いくつの旧跡が残り、いくつの旧跡が失われたでしょうか。

なにぶん、磐座・巨石の愛好家の間でも、この内牧の岩石信仰事例の数々はほとんど知られていないと思います。
関連文献、webの探訪記などを見ても、精々取り上げられていて内牧地区南方の「嶽の立石」ぐらいでした。
本書収録の「磐境」たちは、それほどに、認識の外に置かれているような存在と言って差し支えないでしょう。

まずは実地踏査をする前の予備調査として、本書から抽出した岩石祭祀事例のリストとおおまかな位置を、Googleマップ上に落としてみました。
下のマップでご確認ください。



Googleマップはゼンリン地図を使用しなくなったので、地方山間部の等高線など詳細情報がなくなってしまい、明らかに後退してしまいました。

そういうこともあり、位置はすべて「だいたいこのへん」で落としただけなので当てにしすぎないでください。
実地踏査で確認出来たら、随時、正確な位置に修正する予定です。

神武天皇伝説との絡みから、冒頭で紹介した筑紫氏は「磐余のすぐ東がわ」と記していますが、マップをご覧のとおり、むしろ室生寺の西に位置するととらえたほうが適切かもしれません。

私も時機到来したら現地を訪れる予定ですが、もしすでに当地を訪れた方、これから訪れる方、内牧の岩石信仰に詳しい方がおられたら情報を何なりとお寄せください。


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