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2019年12月24日火曜日

小夜の中山の夜泣石(静岡県掛川市)


静岡県掛川市佐夜鹿

昭和四六年夏、大場先生とともに小夜の中山を歩き、夜泣石について語り合ったことがあったが、それも、もう遠い日の思い出となってしまった。小夜の中山には扇屋という峠茶屋があり、その茶屋には、小夜の中山の歴史と伝承に非常に詳しく、茶店で「子育飴」などを鬻いで日を送る一人住まいの媼がいた。媼は、碩学の大場先生に滔々蜿蜒と小夜の中山談義を続けて捲むことがなかった。(略)後日の大場先生のお便りには、「しい語りする媼には小夜姫の霊が憑いているような気がしました」と書かれていた。
野本寛一氏『石と日本人』樹石社 1982年

夜泣石、夜泣き石と呼ばれる岩石は日本各地に見られるが、ここで紹介する夜泣石は代表格と言えるものだろう。
遠州七不思議の一つ「小夜の中山の夜泣石」の伝説で著名な存在である。

小夜の中山の夜泣石

小夜の中山は、東海道中の峠の一つをそう呼ぶ。
道中、ここである妊婦が岩石にもたれて休憩していたところ、金目当ての山賊に切り殺された。
切っ先が岩石に当たったので、お腹にいた胎児まで刃は届かず、赤ん坊は無事だった。
その後、岩石の泣き声が山頂の久延寺の住職の耳に届いて赤ん坊は助かったという。

妊婦の魂は岩石に宿ったのか、毎夜毎夜岩石から泣き声がしたことから夜泣石と呼ばれたという。

伝説は続く。
生まれた赤ん坊は音八と名付けられ成長した。ある日、刃研ぎ師になるようにとの霊夢を見て研ぎ師に就いた。
そんなある日、一人の侍が刃こぼれのある刀を持参し刃研ぎを希望したが、会話の中でこれが亡き母を斬った刀であることを悟った音八は、ついに本願を果たしたといいます。
悔恨の念に苛まされた侍と語り合い母の御魂を鎮めたとも、かたきとして侍を討ったともいい、伝説の細部にはバリエーションがある。

さらに、この伝説を聞いた弘法大師が、夜泣石の表面に南無阿弥陀仏の刻字を施したという付会も伝わる。

夜泣石に刻まれた刻字

以上が夜泣石伝説だが、夜泣石伝説が定着した後の夜泣石は、さらに二次的な逸話を生み出していく。

夜泣石は伝説の内容からもわかるように東海道の真ん中にあったが、明治時代にはいり天皇の行幸にあわせて道の脇に動かされた。

その後、明治13年に東京で催された博覧会に、見世物としてこの夜泣石が出展されることになった。わざわざ海路で運ばれたが、なんと帰路の途中で運送資金がなくなりしばらく焼津に放置されたという。その後しばらくして、篤志家によって現在地に戻された。
波乱の石人生だが、石がどこにあろうと、石そのものに霊性を認めたからこそ、どこにいても夜泣石は常に夜泣石としての認識を浴びていたのだといえる。

ちなみに、昭和11年にも東京の催事に夜泣石は出品され、その時の計測では重量は約三百貫(1125kg)だったと記録される。

現所在地について補記すると、実際の小夜の中山からは少し北に行った国道1号線沿いであり、アクセスは格段に楽になった。
ここには、音八がこれを食べて育ったという子育飴の小泉屋があり、小泉屋の南に覆い屋つきで夜泣石が保存されている。


なお、久延寺には後世に創られた夜泣石や、別の伝説にちなむ孕み石という岩石がある。小夜の中山の夜泣石伝説自体が別の伝説を下地にして形成されたものであるとか色んな話に事欠かない。

岩石の役割としては、妊婦の魂を宿らせるという超常的な力を伝えるが、泣き続ける以上の何かはなく、即、祭祀や信仰につながったということはなかったようだ。
唯一、弘法大師が石に南無阿弥陀仏を刻んだという伝承が、岩石信仰の要素として挙げられる。岩石に神聖な存在による字が刻まれることで、夜泣石は「悲しい歴史に向ける鎮魂の装置」に変じた。
現在、夜泣石の手前には賽銭箱や手向けの花が供えられているが、これも鎮魂行為の延長と言えるだろう。

2019年12月22日日曜日

拾石の大巖神社とたび石(愛知県蒲郡市)


愛知県蒲郡市拾石町

大巖神社

大巖神社の名前のとおり、大巖が社殿の背後にひかえている。
屏風のように横に広がる岩肌と形容すればいいだろうか。

中根洋治氏は「蒲郡市の大巖神社」(『愛知発 巨石信仰』2002年)のなかで、蒲郡市博物館職員の方へ聞き取りをしており、社殿内には金色の御幣が立ち、大岩を酒で洗ったり、餅でこすったりして雨乞いをしたとの談を記している。

大巖神社の境内の目の前には「拾石川」が横切っており、川を隔てて鳥居が建つ。
川・酒・雨乞いの水要素と、拾石・大巖の岩石要素が絡み合う。

拾石川

さて、拾石川が流れる拾石町には、拾石神社がある。
ちょうど大巖神社の岩肌の上に登ったところが素戔嗚神社の境内になっていて、素戔嗚神社の別称を拾石神社と呼ぶ。

拾石の地名の語源は調べ切れていないが、素戔嗚神社には「たび石」という奇石が安置されている。

岩盤の上に置かれた「たび石」

現地看板を引用しておく。
「天正の頃、深溝の城主松平家忠が、浜松に居る家康の所へ伺向する毎にいつも、ここに参拝して旅の無事を祈るのを常とした。それから後、里人はこれを“たび石”と呼び遠き旅立ちにはおまいりして家忠にあやかり無事を祈ったと伝えられている。」

出典


  • 現地看板
  • 中根洋治 「蒲郡市の大巖神社」 『愛知発 巨石信仰』 愛知磐座研究会 2002年


2019年12月15日日曜日

三河本宮山・砥鹿神社奥宮・岩戸神社の岩石信仰(愛知県豊川市・岡崎市・新城市)



愛知県豊川市・岡崎市・新城市にかけてそびえる東三河最高峰、標高789.2mの本宮山。
一称に本茂(ほのしげ)山の名がある。

愛知県犬山市にある本宮山(標高292.8m)と区別するため、犬山市のものを尾張本宮山、当山を三河本宮山と通称することがある。

麓に鎮座する三河国一宮の砥鹿神社(豊川市一宮町)の神体山として信仰され、麓に通称・里宮が鎮まるのに対し、本宮山頂には砥鹿神社奥宮が鎮まる。
また、山頂には奥宮とは別に「奥の院 岩戸神社」もあり、山中各所に岩石信仰の地が残る。
本記事では、現地の状況と残された文献記録をまとめておく。

本宮山の岩場

馬背岩


本宮山南麓の長山登山口から砥鹿神社奥宮をつなぐ表参道には、1~50町目までの石標が立ち登山の目安となる。

ちょうど折り返しの26町目を越した辺りから、名前の付いた岩石が登場しだす。
まず、26町目~27町目に馬背岩(馬の背岩)が存在する。

馬背岩

岩石の形状を事物になぞらえる、いわゆる「姿石」の1つと思われるが、中近世、修験者の行場にもなったから岩に名がつけられた可能性がある。

杉下五十男氏は『本宮山あれこれ探索』(2017年)で「馬の背岩は梯子岩の上に連続するので、現在の標識位置は不適切である」と記しており、注意を要している。

蛙岩


28町目は麓の見晴らしが良く展望台も造られた好立地で、展望台の手前に蛙岩がある。
この蛙岩は参照した文献群には記されていないので、最近の命名だろうか。

蛙岩

日月岩


展望台を越したらすぐに日月岩(ひづきいわ)に出会う。
弘法大師による刻字と伝承される「日月」の線刻が岩石表面に見られ、この線刻を小石でなぞると筆の腕が上がると信じられる。

日月岩

ゑびす岩と天狗岩


37町目に石鳥居が建ち、「是より 霊峯本宮山 砥鹿神社境内」と書いてある。

ここから東を望むと、谷間を挟んだ東尾根上に天狗岩が見え、西を望むと、谷間を挟んだ西尾根上にえびす岩が見えるとの標識が立つが、森が深くどちらの岩石も肉眼で確認できなかった。

看板は建つが見えない。


ゑびす岩は鯛釣岩、または行人岩の名前も残る。岩の頂に行人が座して修行したという。

天狗岩は立岩の別称もあり、天狗の棲み処としての民話が残る。

表参道上にないため到達は至難だが、先出の杉下五十男氏『本宮山あれこれ探索』では両岩への踏査を敢行し、一節を設けて詳細なレポートを上げている。

杉下氏の踏査によれば、荒沢の右又沢の最上部の滝を越えた奥に、高さ約26mの岩峰があり、中腹に角ばった岩が出っ張っている。これがゑびす岩と思われるが、長居無用を感じさせる危険な場所だという。
天狗岩は林道上に標識もあり、天狗岩の頂上まではアクセス容易とのことである。杉下氏は全貌を確認すべく天狗岩の下部までザイル懸垂をおこない、高さ約50mの「フレミングの右手」のような三段構成の岩峰であることを明らかにしている。

山姥の足跡


32町目には山姥坂と呼ばれる斜面が広がり、39町目は地表面に露岩が多く見られる。
この岩盤の最上部を「山姥の足跡」と呼ぶ。

39町目に広がる露岩群

山姥の足跡(写真中央の窪み)

本宮山の山姥伝説は、かつて怪力を持った山姥がおり、本宮山と石巻山に足を跨げて豊川で髪を洗ったという内容である。
変型として、山姥が本宮山と吉祥山をまたいで小便したら豊川になったというものもある。

その山姥が本宮山に足を乗せた時についた足跡がこれだ。
登山時・下山時、靴底をこの足跡に擦らせると足が軽くなり、下山時、これをし忘れると逆に足が重くなるという話がある。
現代説話のように見えるが、1944年の『三河国一宮砥鹿神社史』にも「登山者はその窪みに足を入れゝば、疲れを軽くすると傳へてゐる」と書いてあり、戦前まで遡る習俗であることは間違いない。

「天の磐座」


山頂直下に青銅鳥居が建ち、ここから第一神域との標示がある。砥鹿神社奥宮境内に入る。
鳥居の奥一帯に露岩群が広がり、傍らに「天の磐座」の立て札が見える。


しかし、参考文献群を開く限り古文献には「天の磐座」の名称はなく、磐座という用語自体、本宮山の岩石信仰には用いられてこなかった。
いわゆる、磐座研究が戦前におこなわれたなかで後世付会された名称と判断できる。

現状の扱いを想像するに、どれか特定の岩石を「天の磐座」と定めたものではなく、一帯に分布する岩石群全体を総称したのだろう。

露岩群の上を表参道が通る形となるため、一部の露岩が人為的に切削されている。
遠山正雄氏は「『いはくら』について」第3回 (『皇学』第1巻第5号、1933年)のなかで、この本宮山奥宮の露岩改変工事に触れている。
「本宮とイハクラと思しき處との間一丁餘の間を、態々無理して小道を開き、あまつさへ累々たる巨巖の一部を無残にも破壊されております。之は新しき工事であり、その當時の責任者も分つて居るそうでありますが、我々はその無智を愍むよりは、あまりの心なしの無謀に呆然たらざるを得ぬ次第であります。」
磐座を愛するがあまりの感情ほとばしった一文で、事の善悪は本来ないものであるが、現在残る岩石信仰の地の今後の扱いにおいて警鐘の句となるのではないか。

石段を取ればそこは一大岩盤だっただろう。

元は一つの母岩を掘削して通路を造ったように見える。

荒羽々気神社


奥宮末社。
国幣小社砥鹿神社社務所編『三河国一宮砥鹿神社史』(1944年)の記述によると、祭神は大己貴命荒魂一柱で、由来は不明とのこと。
社殿の背後に巨岩が位置するが、神社としては特に関連性は指摘していない。

荒羽々気神社(写真右奥)

八柱神社


奥宮末社。五男三女神の八柱を祭神とし、江戸時代には八王子社と呼ばれた。
荒羽々気神社と同じく、社殿の背後に巨岩が控え、こちらは隣接しているためか、『三河国一宮砥鹿神社史』においても「一巨巌を背景として鎮まります」と記される。

八柱神社

行人岩/廻々岩


廻々岩は「めいめい岩」と読む。
斜面地表面から60度ぐらいの角度で立石が屹立している。

手を使わずにこの岩の先端まで登り、戻ってくることができたら願望成就という霊岩。
今は石の頂部に登ってはいけないようだ。

上から撮影

下から撮影

国見岩と岩戸神社(奥の院)


奥宮からは西方の谷間に、奥の院・岩戸神社が鎮座する。
山頂駐車場の南端に赤鳥居があるのでそれを道なりに進むと、5分ほどで柵内に囲われた国見岩に到着する。

国見岩

国見岩にも「天の磐座」の標示がある。やはり、天の磐座は特定の岩石の固有名称を指すのではなく、山頂一帯の岩石信仰の場を総称した表現であることがわかる。

その一角を担う国見岩は「昔、大己貴命がこの岩山に神霊を留め、この岩上から国見をして、“穂の国”を造ったといわれる」場所だ。
砥鹿神社信仰の最淵源と言える。


実は国見岩は、岩戸神社を構成する岩峰の最上部のみを指した名である。
つまり、国見岩を下ると岩戸神社にたどりつく。

今でこそ奥の院への参拝方向は「山頂→国見岩→岩戸神社」が一般的だろうが、元来は「谷間→岩戸神社→国見岩→山頂」で、それが修行にもなっていただろう。私達とは異なる体感のしかたをしていた。そのことを考慮しなければ、この場所の捉え方を誤りかねない。

国見岩の東西に道が分岐し、東の道を男道、西の道を女道と呼び、これを下ると岩戸神社がある。男道は急峻な道、女道は石段付きの道らしい。

国見岩の前に立つ男道・女道の標示

結論からいうと女道を下ったほうが良い。
やや滑るがしっかりした階段が敷設されており、国見岩の直下まで降りられる。そこには岩の亀裂に不動がまつられていた。

女道を下る。

下りきったところに亀裂の祭祀空間が。

亀裂内にかつてまつられていた不動

かつてここには古い不動が置かれていたそうだが盗難にあい、代替の不動を新たにまつった。しかし、なんとこの新たな不動も盗難にあった。どうなっているのだろうか?

年末に歩いた本宮山 その4(最終):岩戸神社をお参りして、今度は登山道で下る - ぶちょうほうのさんぽみち(旧名:「気ままに野山」)

不動の横には鎖付きの岩場があり、その中腹に注連縄が巻かれた亀裂がある。

岩戸神社(写真下の空洞内)

この亀裂内が岩戸神社である。しかし、私は探訪時この亀裂内を見逃してしまった。亀裂内に小祠がまつられているようだ。

承応2年(1653年)「三河國一宮砥鹿大菩薩縁起」に「奥院有岩窟名岩戸岩戸之中有慢蛇羅石其之文非常所有成」の記述、貞享3年(1686年)「本宮山縁起」に「山頂南向岩窟是神明之霊跡也」の記述があるという(『三河国一宮砥鹿神社史』)。
このことから、岩戸神社は「奥院」「岩窟」と呼ばれ、岩窟内には「慢蛇羅石」なる岩石が特に神聖視されていたことがわかる。この慢蛇羅石が岩窟内のどの石に該当するかは亀裂内を見ていないので何とも言えない。

岩戸神社隣の鎖は男坂につながるらしいが、現在、この鎖は撤去されてしまったという情報がある。

本宮山の山頂付近を周遊:(最終回)岩戸神社をお参りして帰途につく - ぶちょうほうのさんぽみち(旧名:「気ままに野山」)

行者岩


国見岩の分岐まで戻り、男道も下ってみたが酷い道だった。

途中に落差5mほどの岩場があり、鎖が渡されていた。

男道の鎖場

登る分にはまだ何とかなりそうだが下るには岩の窪みが少なく(特に上方)、足を引っ掛ける場所も一苦労な鎖場だ。
慎重に三点支持をおこなって下りてみると、そこは谷間水源の祭祀場だった。

谷間水源

岩陰にまつられた祠

近くの岩陰

三方を岩に囲まれた岩陰に祠がまつられ、左隣から清水が樋に乗って常時注がれている。岩と岩の合間から染み出る水はまさに水源であり、この沢は他の沢と合流して麓で豊川となる。
そしてここは、国見岩から続く岩盤が落ち着く最終地点でもある。

現地には何の看板もないが、杉下五十男氏『本宮山あれこれ探索』は、ここを行者岩だと指摘している。近年まで山伏の修行姿を見かけた場所だそうだ。
『三河国一宮砥鹿神社史』には「行者岩 ― 岩戸社より更に下方の岩窟前に存する」と記された存在で、位置的には岩戸神社の亀裂の奥方に当たる。

国見岩・不動・岩戸神社・行者岩は一つの岩峰にそれぞれ帰属した祭祀場であることから、これらを包括して奥の院と考えて良いのではないか。

なお、行者岩から谷間を挟んだ西側の尾根上を目指すと、岩にペンキで×点がしてあるが、この谷間から西方尾根にかけては巨岩累々とした露岩地帯であることも付記しておきたい。

行者岩の西方谷間

谷間を越えた先にある西方尾根の一大巨岩。

参考文献


  • 国幣小社砥鹿神社社務所・編『三河国一宮砥鹿神社史』(原著1944年。2012年復刻版を参照)
  • 杉下五十男『本宮山あれこれ探索』一粒書房 2017年
  • 遠山正雄「『いはくら』について」第3回 『皇学』第1巻第5号(1933年)



2019年12月9日月曜日

岩崎山の岩石信仰(愛知県小牧市)


愛知県小牧市岩崎

尾張本宮山の山塊から西方、濃尾平野の中に標高54.9mの岩崎山がある。
歴史的には、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、秀吉軍の稲葉一徹による砦が山頂に築かれた山で知られる。

この岩崎山は、岩石信仰という点でも注目される。
小丘であるものの、山中には花崗岩が累々として、現に「岩崎石」と呼ばれる良質な石材の産出地としても知られている。
古くは岩崎山の石が近在の古墳石室石材に使用されていることが確認されており、また、名古屋城築城の際の石垣の一部にも使用された。

そのような採石行為の影響を受けながらも、山中には大小の露岩がいまだ残る。『尾張名所図会』後編巻之三(1880年)には岩崎山中に「五枚岩」「女夫岩」「弘法足跡石」「八尋岩」の4ヶ所の岩石が記載されている。
山中はある程度整備されており、4ヶ所の岩石へのアクセスも容易である。以下に紹介したい。

熊野神社の五枚岩


岩崎山の南側山腹に熊野神社(熊野社・熊野権現)が鎮座する。
創建年は不明だが、『尾張志』下(1843年)では『延喜式神名帳』記載の丹羽郡石作神社の論社に当てられている(ただしこの説を支持する人は少ない)。

この熊野神社の舞台の隣にあるのが「五枚岩」であり、岩崎山の岩石信仰の代表格と言って良い。




五枚岩の名の通り、五枚の立岩を並べたかのような構造をなす奇岩だ。
実際は亀裂および風化・浸食の結果によるものと考えられ、愛知県指定天然記念物に指定されている。

単なる奇岩ではなく、岩には注連縄が巻かれ、亀裂の間に石像がまつられていることから神聖視の対象と認められる。

熊野神社背後の岩


熊野神社の本殿の背後をのぞくと岩が控えている。




服部修政氏『知られざる岩崎山』(1984年)では、この岩を熊野神社の神体とみなしているが、記録や伝承上で神体であることを裏付けるものはなく、可能性を指摘するだけにとどめておくのが適切だろう。

女夫岩(ミタケ)


山頂やや北方に位置。



2体の立岩を女夫になぞらえたものと推測され、2体の隙間に「御嶽山座王大権現」と刻された石碑が建てられている。五枚岩と共通して、岩の亀裂や合間を聖なる空間としている。
『尾張名所図会』の絵図にも同所に「ミタケ」と記載されており、江戸時代から御嶽講による信仰があったことがうかがえる。

女夫岩の周辺一帯には、大小の岩石が数箇所に群をなして露出している。

山頂の岩石群

山頂の岩石群


服部修政氏『知られざる岩崎山』によると、これらの岩塊群は、その上に蓋石を置いて埋葬墓としていたものではないかと推測されている。

しかし岩崎山麓の岩屋古墳をはじめとして、岩崎山一帯の埋葬施設はいわゆる横穴式石室の墓制で統一されており、服部氏の述べる自然石を側壁として蓋石を置いたというような埋葬形態は、考古学上確認されていない。

さらに、冒頭で触れた通り山頂には砦が築かれていた時代があるため、その時に自然石に改変が加わっている可能性があり、現状の岩塊の形状だけで祭祀目的の何かに類推することは慎重でなければならない。

弘法足跡石


山の西側山腹に位置。
『尾張名所図会』には名前の記載しかなく由来は不明だが、岩石の表面に足跡状の窪みがあり、これを弘法大師の聖跡とみなしたものだと類推される。

弘法足跡石

弘法足跡石周辺の岩石群

斜面上に露出する岩石群

八尋岩


山の北側山腹に位置。
斜面に露出した巨岩で、頂面が平らになっているためこの名があるのだろう。

八尋岩から麓を望む

頂面に立つと木々の合間から平野が一望できる。岩の広さと眺望の良さから特別視された岩であることは間違いないが、それ以上の信仰は認められず、神聖視の段階には至っていないのかもしれない。

この近くには土石で形成された自然の穴があり、『尾張名所図会』には「穴居」として紹介されている。

穴居

岩崎山

参考文献


  • 岡田哲・野口道直(撰) 「岩崎山」 『尾張名所図会』後編巻之三 1880年( 臨川書店 1998年版<版本地誌大系17>を参考とした)
  • 深田正韶(編) 「岩崎山」 『尾張志』下 1843年(歴史図書社 1969年版を参考とした)
  • 服部修政 『知られざる岩崎山』 ブックショップ「マイタウン」 1984年


2019年12月2日月曜日

愛知県設楽町名倉(大名倉・東納庫・西納庫)における岩石信仰の文献調査

愛知県北設楽郡設楽町の旧・名倉村は、かつて一度耳目を集めながらも、その後現代にいたるまで陽の目を浴びていない岩石信仰の地である。

大場磐雄博士が1951年に名倉村を訪れ、そこで数々の岩石信仰の場を記録に残している。

『楽石雑筆』巻三十四より(茂木雅博書写解説・大場磐雄著 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年)


本文には、他の文献では見られない場所が複数登場している。
該当箇所をいくつか抜き出して、改めてその存在を公にしたい。

大名倉編
大名倉部落に至る、寒狭川中流に存する山間僻地の一小部落にて、平和境なり、名倉橋を渡りて寒狭川に沿いて北行するに川沿ひに巨岩壘々たるところあり、こヽに山の神の祠あり、その傍に二立石並び存するあり、某氏崇敬すという、又傍にイボ石、陰居山の神(寒狭山に奥の山神ありて相対す)あり、何れも巨石の信仰なり、又附近にスグラ淵、カカシ淵、シヤクジ(石神)等もあり

小字「石クラ」編
宇連に至る、寒狭川最奥の部落にして、その部落の中に小字「石クラ」あり、後藤寿造氏方に立寄りて聞く、石神は同氏の邸裏にあり、巨石数個立てり、毎年二期(舊二月・十月の七日)に同家にて祭祀す、山の神祭りと同様なる方法にて、小豆飯にシロ餅(粟餅)を神の膳(クリ盆)にのせて献じ、御神酒を添ふ、又盆の十六日には附近において念仏踊りを行う。又石神のやヽ下方に烏帽子岩あり、同じく一種の石神なり、又同氏邸内の一角に自然石に南無阿弥陀仏と刻せるあり、ショウゴ様という、名号様ならん、もと石信仰より発せし一種のイワイ殿なるべし。

宇連峠(うれとうげ)編
同家を辞して一同徒歩宇連峠をのぼる。道は次第に上りとなり寒狭川は次第に遠ざかり、遥かに股戸山は雲低く垂れたり。頂上にて一休みす。この附近舊道に道祖神ありて宇連の石神というとぞ。又峠近くの菅沢山より晩期縄文土器出土せりという、峠を下れば間もなく道の左側に石を以て構えしものあり、中に馬頭観世音あり、傍に石棒形のものあり、今折れたり、大マラ地蔵という。又この附近を名倉石神ともいう。蓋し峠を中心とせる信仰遺跡ならん。

碁盤石山編
市之瀬に至り行者岩見る、名の如くもとこヽには行者のコリ取場なりしか、岩の上に経塚や行者像あり、俗説にこヽに行者の像見え、もしをこれを見たるものは病を得ると傳う。蓋し一ノ瀬にて第一の禊場ならん
次に津具道をすヽむ、次第に道は細く険となれり、途中渓流を渡ること二度、三度目のところに道の傍に自然石ありて小石上にのれり、こヽを花立と称し昔こヽを往来の人々、木の枝等を折りてこヽに手向けして通れりと蓋し峠神への信仰なるべし
津具道を少し進めば舊道の傍に立石のあるを見る、巨大なる花崗岩の立てるにて、同じく石上に小石あり、一種の石上にて、通行人が小石を投げ上げて止まれば幸ありと
道を戻りて碁盤石山道をのぼる間もなく傍に蛇岩あり、蛇の頭に似たる大石にて傍に冷泉湧く
頂きに進む途中道の傍に七条石あり、巨大なる花崗岩の平石にて、女根と傳う、道を進むこと数町にて頂上見え、磐石見ゆ、第一は六個の花崗岩巨石の集合あり中に佐倉神社(宗五郎を祀る)あり、江戸時代一揆ありしに因むものならん、次で頂上に守護神様あり、同様の巨石十数個集合しその中の位置巨石上に天狗の石像あり、又その近くの一巨石(やヽ方形)は天狗のころばせし碁盤石にして碁に敗けしに怒りて磐を転ばせしなりと、下部にその目ありという
これより下山、青年の草刈りてつくりくれし小径を下りて「へのこ岩」に到る、名の如く男根状の巨岩屹立せり

以上すべて、茂木雅博書写解説・大場磐雄著 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年より。

引用が長くなったが、それだけ、名倉の岩石信仰が多く残っていたということである。

他の文献での裏付け、肉付けをおこないたいと思い、いくつかの文献を見つけることができた。ボリュームが多くなるが、以下に一つ一つ紹介する。

名倉村『三州名倉』1951年


著作者は名倉村名義になっているが、序文によれば『三州名倉』の主著者は名倉の郷土史家・沢田久夫氏のようである。
この沢田久夫氏は、大場磐雄博士を名倉調査に招待した人物であることが、大場博士の『楽石雑筆』にしっかり書かれている。
大場博士を名倉の数々の岩石信仰の場へ案内したのも沢田氏であり、その沢田氏がまとめた『三州名倉』にも岩石信仰の情報が多いのではないかと思って調べてみた。

『三州名倉』表紙

名倉の地名由来
クラは高御座、磐座のように或一定の神聖な場所を示し、また翔羊(いわしか)のことをクラシシ、岩躑躅のことをクラツツジという地方もあって岩の意味もあります。
神子谷下(みこやげ)の地名由来
ミコは中世農民の信仰に大きな勢力をもっていました。ヤは関東ではヤツ・北海道でヤチという湿地のことですが、岩のことをヤという所もあります。ヤゲが湿地の下か岩の下か、にわかにきめられませんが、岩とすればその岩は神子谷下の裏山にある赤子石(あかごいし)ではないかと思います。上代にはミコ神の信仰が広く行われ、神が童形をして降臨し、神跡として赤子の足跡をのこすと信ぜられていたからです。
碁盤石山
頂上の守護神様の巨石構築は、考古学者によって上代祭祀遺蹟である磐座だといわれています。もし学界の承認を得れば、三河最大最高地点にあるイワクラです。
大名倉の地名由来
元名倉の意だと思われます。また大名倉は大名座で、この地の磐座が近郷から脅威の存在としてみられ、崇められ畏れられたので、大名の坐(くら)という呼称を得ました。オオナは大名持で有名なことをいいます。さて問題の磐座はどれかといえば、山の神傍の巨岩らしく、これを囲んで外輪石とも思われる方四五尺の石が、その前方に半円形をなして配置されています。磐座の主体をなす巨岩は、先年森林鉄道の工事で破壊されて今はありません。

以上、すべて『三州名倉』より。
岩石に関わる地名考察については注目したいものがあるが、語源や推定については論拠が明確でなく、信じるに足るかどうかは批判の余地もあるだろう。

また、大名倉の山の神については、主体となる巨岩が森林鉄道で破壊されたという事実が記されている。
大場博士は、山の神に他の巨石の存在も記していることから、一部は残り、一部は消滅したような様子がうかがわれる。

神子谷下の赤子石については、沢田氏は知っていて、大場氏の探訪メモには触れられていない。
その一方で、大場氏が記した数々の岩石信仰の地の多くが、『三州名倉』には収録されていない。意外である。

『三州名倉』刊行後に久田氏は大場博士を招聘しているので、碁盤石山ほかの岩石信仰を「学界の承認」として「上代の磐座」と持っていこうとしたのだという当時の流れがわかる。

北設楽郡史編纂委員会編『北設楽郡史 原始-中世』1968年


「古代人の信仰と磐座」(p.247-255)と題された一節が古墳時代の章の末尾に挿入されている。
収録されている情報は下記のとおりとなる。

碁盤石山の磐座
  • 一合目 行者岩 行者がここで修業した。
  • 四合目 立石 岩の上に小石を投げ入れると祈願成就。
  • 五合目 蛇石 割れ目に白蛇が住む。
  • 七合目 七尋石 長さ七尋あることから。
  • 七合目 へのこ石 七尋石の前方小さな谷を隔てた所に立地する男根形の岩。
  • 九合目 守護神様 守護神様は天狗といい、五穀成就の神という巨石群。
  • 九合目 佐倉様 佐倉様を祀る巨石群
  • 頂上 碁盤石 グヒン様(天狗の異名)の碁盤石。周囲の砂地はグヒン様の御屋敷という。
  • 岩屋 行者が修行した岩窟。立地の記述なし。紹介の並びから考えて山頂か。

これらは大場博士の記録と重なるところがあり、実際に、北設楽郡史の本節には大場博士が現地を訪れ碁盤石山の巨石群を磐座と認めた旨が記されている。ただし、山を登らずに遥拝した上代の「第一次の磐座」ではなく、修験道が始まり山中に入るようになった平安以降の「第二次の磐座」と大場博士は論評したという。
いわば、大場氏の楽石雑筆のメモの結実が北設楽郡史と考えて良い。

現在の研究状況に照らし合わせると、古墳時代(かつての上代)の山岳祭祀遺跡には山中に踏み入ったうえでの祭祀遺物出土も各地に複数見られるため、山中にある磐座がイコール修験道・山岳仏教以降の創始とは言い切れないものがあるから、その点では大場博士の論評も批判されるべきだろう。


大平のお船石

菜畑峠の麓、大平部落の上方約150mの地に、お船石(お舟石)という二つの船形石がある。
どちらも長さ9m、幅1.5mの規模をはかる。
舟石川の浸食崖に、なかば空にかかって乗り出した景観と記す。

お船石は、大平部落の氏神・小鷹神社の神がこのお船石に乗って降臨したと古老の聞き取りが収録されている。
この伝説から、お船石は小鷹神社のお前立とされ、かつては鳥居も敷設され、今も鳥居の沓石が現存する。

小鷹神社は谷一つ隔てた小鷹山の山上に鎮座するといい、例祭日が雨天時はお船石で遥拝するという決まりがある。

山麓に立地することから、祭祀遺物の出土はないものの、本書では「第一次の磐座であることは、まず間違いないと思われる」と述べる。


岩倉の地名について

北設楽郡史であるため、稲武町や東栄町・鳳来町の例も挙げられているが、ここでは名倉の記述のみを引用したい。

  1. 前記菜畑峠の八合目に、岩倉という地があり巨岩がそばだっている。
  2. 湯谷部落の和倉渕の上方、須山の山中に岩倉という地があり巨岩がある。
  3. 清水部落には二ヵ所あり、字合戸は畑で石はない。今一つは下山の山中で巨岩がよこたわっている。
  4. 宇連部落の字岩倉には、巨岩を山の神として祀るところがある。

前3者は初見情報であり貴重。
最後者は大場博士の宇連字石クラ、中根氏が訪れた岩クラのことであるが、本書では「岩倉」の字が当てられていて一致しない。


北設楽郡史編纂委員会編『北設楽郡史 民俗資料編』1967年


北設楽郡の伝説が収録されているページがあり、その中から名倉の岩石信仰に関わる部分を紹介しよう。

市場口
設楽町川向、名倉平の入口の地名。ここに、「丸いきれいな石の市神様」がまつられていたという。今はなさそう?
市場口には「ジンジン石」または「焼石(やけいし)」と呼ばれる石もあるという。弘法大師が寒さをしのぐため、この石の上で焚火をして暖をとったという。それ以来、水をかけるとジンジンと音がするようになった。しかし、現在の街道を作るときにこの石は埋められてしまったらしいので、今は見れない。

碁盤石の天狗
「昔、この山に怪力者の天狗が棲んでいた。碁が好きで山下の村人を捕えて来ては碁を闘わし、これを負かしては喜んでいた。ある年、山下の村に碁の天才が現われて山上の碁盤石で対局した。精魂をつくして闘ったが遂に天狗の負となった。天狗はくやしさのあまり碁盤をひっくり返してしまったという。だから今ある碁盤石には目盛りがない。裏側が出ているからだという。この碁盤石の付近には天狗のお屋敷と称せられ、草木の育たない場所がある。」(同書より)
碁盤石山の天狗民話の最もまとまった記述と思われる。これ以降の文献で碁盤石山を紹介するときは、おおむね本書のこの記述を元にしているようだ。

行者岩
市ノ瀬の道端にある。川沿いで、岩上に役の行者像がある。
深夜に岩上で行をする者がいるというが、人の目に触れる前に姿を隠すので、誰もその顔を見た人はいないという。
もしその顔を見ると病にかかるとも伝わる。

蛇石
碁盤石山の津具道にある。
大蛇が絡みついて石に割れ目ができ、その頭はお姫様の顔と記述されるが、蛇の頭なのか石の頭を指すのかよくわからない。
久原(くばら)の川中にも蛇石があり大蛇がいるという。

へのこ岩
碁盤石山の男根形の珍岩ということで、他文献の記述以上のものはない。

石神
東納庫の大久保と大桑の境に石神という小字がある。大洪水で流れた石塔が諸人にたたるので、当地の大蔵寺の和尚が石塔を埋めて大明神としてまつったという。
石塔を埋めたのは飛田山の祠の床下か、大蔵寺の床下か、記述からはわかりにくい。
石塔が本来の機能を忘却し、別の場所に移動したことで、たたりの石神と化したという流れを描き出す興味深い情報である。

休み石
名倉の清水と川口の境、月ヶ平へ行く道中の路傍にある。
石の上に足跡のような凹みが数か所あり、弘法大師が休息した時の足跡と伝わる。

嬰児石(あかごいし)
寺脇の広畑にある。石の側面に数か所の凹みがあり、嬰児の足跡に似るという。
赤子の夜泣きを止める霊験があると伝わる。

お舟石
大平の山中にある。長さ8mの二つの巨石が崖に半ばかかった状態といい、『北設楽郡史 原始-中世』が記す長さ9mとは誤差の範囲としておきたい。
名倉盆地がむかし海だった時に、神様が船に乗ってここへ着いたと伝わる。

子産石
大平の道下家というお宅に、インゲン大の石1個を親として、小豆大の石数個を子どもとして、それらの石が宝珠形木器の中に収蔵されたうえで仏壇にまつられている。
知らない間に石の数が増えていくという。
現在の保管状況はわからないが、個人保管のためいつ歴史が失われてもおかしくない。

大名倉の雨乞い
大名倉と宇連の境に、釜渕という淵がある。釜渕は、大名倉と田口の境にある踊渕へ通じているという。
この淵には蛇がいて、雨乞いの時に山の石、川原の石をゴチャゴチャに投げ込んだうえで酒を飲みながら踊ると、淵にいる大蛇が投げ込まれた石に困って、石をくわえて放り出す。その時に雨が降るのだという。


以上概観したが、碁盤石山、大平のお舟石に加え、市場口、石神、個人宅保管の岩石信仰など、同シリーズの『北設楽郡史 原始-中世』よりもさらに多彩な情報が満載されている。
ただし、弘法大師伝説や天狗の民話、蛇の習俗や大蔵寺の縁起など、全体として後世付会の情報が含まれることを承知しておく必要がある。


設楽町誌編さん委員会『設楽町誌 村落誌』北設楽郡設楽町 2001年


『北設楽郡史』から時代は30年以上下り、新たに『設楽町誌』が編まれた。
古代の記述からは、『北設楽郡史』にあったような「古代の磐座」のような節は削除され、名倉の岩石信仰の記録は2000年代の自治体史から消滅した。
「古代の磐座」は考古学的裏付けに欠けるという判断によるものだろうが、その旨の批判的検討を設ける紙幅は割かれてよいはず。
「論ずるに当たらず」というのであれば、ここに、戦後間もなくの頃と現代の間で価値観の断絶があると言って良い。

通史からは削除されたとはいえ、別巻であるこの『村落誌』には地区別に歴史がまとめられており、ここに岩石信仰記録の残滓が見られる。

神子谷下地区
『三州名倉』の記述を引いて、神子谷下村の裏山の赤子石の存在を紹介し、これが神子の地名の由来という説を踏襲している。そこに批判的検討はない。
ただし、赤子石の位置を地図上で落としており、探訪の便宜となる。

市之瀬地区
同じく『三州名倉』から、碁盤石山の第一の禊場=一ノ瀬とする説を追認する。
しかし、『三州名倉』はあくまでも第二・第三の禊場もあったのではないかという推測の上での推測であり、大場博士も「蓋し一ノ瀬にて第一の禊場ならん」と、あくまでも推量である。批判的検討が必要である。
碁盤石山の巨石群も、考古学者によって上代祭祀遺跡とされているという戦後間もなくの初見をそのまま持ってきており、その判断の妥当性を改めて検討した様子はうかがわれないのは残念だ。
一方、碁盤石山の守護神が、市之瀬・万場・神子谷下の三か村によって回り当番で、費用も三分割して6月30日の祭りを分担していたとの記述は有用な情報である。

宇連地区
塞の神峠近くにあった陰陽石と双体の塞ノ神を、今は奥三河郷土館と石仏公苑に移されていると記す。
これは、大場博士が記した名倉石神の「宇連の石神(道祖神)」と「大マラ地蔵」に当たるのではないか?もしそうだとすると、現地には残っていない恐れがある。付属の地図には二ヵ所の塞の神と馬頭観音のおおよその地点が峠に印されている。
また、少し調べたが、奥三河郷土館は現在休館中で、2020年春に移転オープン予定とのこと。時機を合わせて訪れたい場所である。
宇連の岩クラについての記述は皆無。

大名倉地区
大名倉の地名由来が大名持の磐座からくるとする『三州名倉』の記述はなぜか大名倉では触れられていない。眉唾に過ぎるからか。
しかし、大名倉の山の神について、有用な情報が載せられている。
その場所は「山神社」と記され、場所は大名倉の小字沢入とのことで、実地特定がしやすくなった。この山神社の神体は、最大径3.5cm、長さ9cmの男根だという。
次に、1942年に大名倉林道を開設したとき、覆殿をダイナマイトで破壊したという記述がある。これは、『三州名倉』に記された山の神の巨石が森林鉄道で破壊されたという記述に通ずるものがあるが、林道と森林鉄道では異なるか。


設楽町誌編さん委員会『設楽町誌 教育・文化編』北設楽郡設楽町 2004年


「金石文・書籍」の章

諸神として道祖神や山の神の石造物について簡潔な言及がある。
設楽地域では道祖神をサイノカミやサエノカミと呼び、地域内に残る道祖神を形態別に分類した結果、「初めは自然の石を陰陽石にみたてたもの」や「遺跡から出土の石棒」が道祖神としてまつられ、文化文政期になると双体像、その後に文字碑の造立という流れが認められるという。

この考察についてだが、人工的な石造物については年代特定が可能なものの、自然石や石棒の多くは「素朴=古いもの」と常識的にみなして石造物より起源の古いものと位置づけられただけのようにも思える。
道祖神、山の神は屋敷内、山中にも点在するため、全貌はつかめていないという。
また、何の神をまつっていたかわからなくなっている石祠の存在も複数報告されている。


「地名」の章

沢田久夫氏の「北設楽地名考」を参考にして小字単位でまとめられているので、岩石信仰に関わる部分をまとめておく。

大名倉
「モト名倉」説を収録し、名倉の開発はここから始まり、大名持の磐座から由来すると「説く人もある」とぼかして紹介するが、それは沢田氏のことではないか。

クラ(倉)
隠倉(カクレグラ)という地名があり、ここは「周りを囲まれて外部からはちょっとみえないような地形」とのことで、クラ地名がつく根拠としている。「岩のそばだつ崖」説も併記している。

イシハラ(石原)
西納庫・東納庫・川向に石原、東納庫に石原瀬(イシハラゼ)の小字があるといい、「小石の多い所」と解説する。

イワクラ
東納庫の宇連の「岩クラ」地名である。「巨岩を用いる場所」として磐座からの由来を記すだけで具体的な記述はない。

シャグジ・シャモジ・シャゴジ・イシガミ
田峯に尺地(シャクジ)、神田にシャモジ山、東納庫に石神(イシガミ)の地名が残る。
検地で使った尺を埋めた場所という口伝があるがこれは誤りで、「自然・人工を問わず石を祀るものの総称」と断定するが、現在の研究状況に照らし合わせると、シャグジ信仰のすべてが石を用いているわけではなく、シャグジと石神を同一語源とするのは誤りの可能性が高い。
つまり、田峯と神田の例は石が関係ない可能性があるが、東納庫の石神は「イシガミ」読みであり、こちらだけは岩石信仰との関りを強く感じさせる。
この東納庫の石神とは、『北設楽郡史』が記す「東納庫の大久保と大桑の境に石神という小字」で、石塔が石神化したものと思われる。

イボイシ(疣石)
東納庫にあり。

フナイシ(船石)
東納庫にあり。

ハナイワ(鼻岩)
大名倉にあり。

ヒライワ(平岩)
小松・田峯にあり。

アカイシ(赤石)
田峯にあり。

キリイシ(切石)
清崎にあり。

ショウジイワ(障子岩)
神田にあり。

オオイシ(大石)
神田にあり。

クロイシ(黒石)
川向にあり。

ヒカリイシ(光石)
川向にあり。

チカライシ(力石)
川向にあり。

ミツイシ(三ツ石)
荒尾にあり。

すべての「石」地名に実際の岩石があるとも限らないことに注意。


「伝説」の章

「岩石に関する伝説」として4例が収められている。

あみだ岩
川向大崎にある巨石。阿弥陀様に似た窪みがあるのでこの名がある。

おとぼ様
川向の藤堂神社拝殿のそばに高さ1.45m、幅1mほどの「おとぼ様」という三角形の岩石があり、上に金属製の鳥居が立ち、祭典の時には下に賽銭箱を置いてまつる。腰から下の病に霊験あり。

盗人岩
田口添沢にある岩で、そこを盗人坂という。かつて、ある盗人をこの岩に縄で括り付けた。盗人が脱げようともがいた時に、岩に深い切れ込みがついた。

碁盤石
『北設楽郡史 民俗資料編』の記述とほぼ同じ内容が記されている。

沢田久夫『川向大名倉むかしむかし』設楽町立川向小学校 1959年


名倉の郷土史家で、これまで何度か名前が挙がっている沢田氏の手による冊子。
どうやら、川向小学校(今は閉校)の学級新聞に沢田氏が連載を寄せていたらしく、その内容があまりにも貴重ということで請われて冊子化されたと序文に書いてある。

「いわくらでお祭りをした」の一節があり、ここに他文献で触れられていない情報が入っている。

川向に光石という字があることを先述したが、この光石のことが掘り下げられている。
光石は単なる地名ではなく、岩山を指すそうである。

沢田氏によると、川向小学校の正面に三角形の山があり、その頂上の岩山を光石(ひかるいし)というそうだ。
さらに正確にいうと、この岩山は川向地区では光石と呼ぶのに対し、大名倉地区ではコウゴと呼ぶのだという。
近くに「タイドボシの根」という場所があり、かつてはここで篝火を焚いたといい、沢田氏は信仰の霊地説を提示している。

中根洋治『愛知発 巨石信仰』愛知磐座研究会 2002年


「一九 設楽町東納庫字岩クラ」の一節で、大場博士が記録した宇連字石クラを中根氏が踏査されている。
大場博士は「石クラ」と記したが、現在の字名は「岩クラ」である。読みは一緒だろう。

中根氏は大場博士の『楽石雑筆』公表前に踏査しているため、大場氏の記録を手掛かりにできず独力で現地で聞き取りされている。
その結果、地元の方々から下記の情報を得ている。

  • 岩クラの地名由来や、元となる岩は聞いたことがない。
  • 県道沿いから見える特異な岩を「エボシ岩」と呼んでいる。

エボシ岩は、大場博士が後藤寿造氏邸のやや下方にあると記した「烏帽子岩」と同岩の可能性が高い。
Googleストリートビュー上で県道を眺めると、それらしき岩が映っている。



中根氏は、県道と白山神社の道の分かれ目から山中を登り、中腹に山の神を見つけている。これは、しめ縄のある直径2mほどの岩という。
山の神の上にも大岩があるが、人工的に一部切り取られている。中根氏の聞き取りによると、元は丸っぽく突き出る大岩があり、麓に落ちると危険なので県事務所に除去してもらったとのことである。
さらに尾根の奥を登ると、2つの大岩が立つ。岩の前には平地がまったくなく、中根氏は平地がないと祭祀ができないので磐座である可能性は薄いというが、平地の有無は磐座であるかどうかの決め手にはなりえないと思う。

このように、中根氏は大場博士が記録した後藤寿造氏邸の岩々の存在には気づかなかったが、岩クラ地区の山中に眠る他の岩の存在を報告した。
後藤寿造氏邸は小字・岩タケにむしろ近いので、岩クラはもしかしたら山の神周辺の岩群なのかもしれない。

中根氏の同書には、他に「一一 碁盤石山の岩たち」「一〇八 納倉の船石」の節を設けている。
同書の白眉は、各探訪地の位置マップを大まかながら収録していること。
これにより、碁盤石山の「行者岩」「へのこ岩」などのある程度の位置は把握できる。

また、大平の船石の位置は他文献ではさっぱりわからなかったのが、船石がゴルフ場内に片足突っ込んだ状態で現存していることを明らかにしている(中根氏はなんとゴルフプレー中に踏査した!)。
小鷹神社の奥宮とそれに付随する巨石の存在にも触れており、現地探訪の際は大きな羅針盤となること間違いない。

ゼンリン住宅地図より


ゼンリン地図からは、等高線の流れと地形の状態に加え、小字の明確な範囲も得ることができる。
また、今回の名倉調査でゼンリン地図が有効と思われたのは、大場博士の宇連の石クラ(岩クラ)調査時に「後藤寿造氏邸」の石神を記録していることである。
今から65年以上前の情報なので後藤寿造氏を探すことは難しいと思うが、同じ苗字を地図内で探せば石神の特定は易いのではと考えたのだ。

けれども、この狙いは外れた。
宇連地区はほぼ全戸が「後藤」姓であり、それは『村落誌』にも「後藤一姓の村落」で「奥三河でも珍しい」と記されている。
後藤寿造氏の名も見つけられなかったので、絞り込みをかけることは難しい。

ただ、大場博士は一つヒントを残してくれている。
それは「石神のやヽ下方に烏帽子岩あり」の記述。
言い方を変えると、烏帽子岩のやや上に後藤寿造氏邸があるということ。

烏帽子岩が、中根洋治氏が報告した「エボシ岩」と同一物と仮定した場合、このエボシ岩から「上」(どういう意味での上かにもよるが)に位置する後藤さん宅は、住宅地図で追う限り2軒ほどに絞られる。
ここを取っ掛かりにして現地調査の突破口が見えてきた。

名倉の岩石信仰の場まとめ


複数の文献をまたいで長くなったが、以上記した情報をGoogleマップ上に落とし込んでみた。現地調査する時の手助けに使いたい。



Googleマップは近年、ゼンリンと提携を解消して地方の等高線表示が失われたので、マップ上での視認性は悪い。探訪前の文献上差での概略位置で、正確な位置も落とし込めないので参考程度としてほしい。
今後、現地で正確な場所を確認しだい、位置を修正するつもりだ。


大名倉の調査が特に急務


さて、大名倉地区だが、ダム建設で水没する将来が迫っている。

●2015年3月某日/設楽ダム水没地域を訪ねる

設楽ダムの完成は2026年というが、ダム建設はすでに着工されており、大名倉集落の移住は完了し、一部の道はすでに立ち入り禁止で、工事用に山が切り開かれ別の道ができているとの情報もある。

大名倉での聞き取り調査はすでに難しいかもしれない。立ち入りも制限されるかもしれないが、このような事情から早期の記録保存が急務である。

大名倉には、森林鉄道で破壊された山の神の巨石や、林道建設時に破壊された山神社など、すでに岩石信仰の消失の歴史がある上に、とどめで設楽ダムである。

大場博士は、山の神の祠の傍にある二つの立石(某氏崇敬)のほか、イボ石、陰居山の神、シヤクジ(石神)の存在を報告しており、これらは林鉄・林道建設後もまた生きていた。
では、今はどうか。だれの記録にも収められていないのであれば、せめて今のうちに「最後の報告」を文字に起こしておかないといけないのではないか。