2019年12月9日月曜日

岩崎山の岩石信仰(愛知県小牧市)


愛知県小牧市岩崎

尾張本宮山の山塊から西方、濃尾平野の中に標高54.9mの岩崎山がある。
歴史的には、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、秀吉軍の稲葉一徹による砦が山頂に築かれた山で知られる。

この岩崎山は、岩石信仰という点でも注目される。
小丘であるものの、山中には花崗岩が累々として、現に「岩崎石」と呼ばれる良質な石材の産出地としても知られている。
古くは岩崎山の石が近在の古墳石室石材に使用されていることが確認されており、また、名古屋城築城の際の石垣の一部にも使用された。

そのような採石行為の影響を受けながらも、山中には大小の露岩がいまだ残る。『尾張名所図会』後編巻之三(1880年)には岩崎山中に「五枚岩」「女夫岩」「弘法足跡石」「八尋岩」の4ヶ所の岩石が記載されている。
山中はある程度整備されており、4ヶ所の岩石へのアクセスも容易である。以下に紹介したい。

熊野神社の五枚岩


岩崎山の南側山腹に熊野神社(熊野社・熊野権現)が鎮座する。
創建年は不明だが、『尾張志』下(1843年)では『延喜式神名帳』記載の丹羽郡石作神社の論社に当てられている(ただしこの説を支持する人は少ない)。

この熊野神社の舞台の隣にあるのが「五枚岩」であり、岩崎山の岩石信仰の代表格と言って良い。




五枚岩の名の通り、五枚の立岩を並べたかのような構造をなす奇岩だ。
実際は亀裂および風化・浸食の結果によるものと考えられ、愛知県指定天然記念物に指定されている。

単なる奇岩ではなく、岩には注連縄が巻かれ、亀裂の間に石像がまつられていることから神聖視の対象と認められる。

熊野神社背後の岩


熊野神社の本殿の背後をのぞくと岩が控えている。




服部修政氏『知られざる岩崎山』(1984年)では、この岩を熊野神社の神体とみなしているが、記録や伝承上で神体であることを裏付けるものはなく、可能性を指摘するだけにとどめておくのが適切だろう。

女夫岩(ミタケ)


山頂やや北方に位置。



2体の立岩を女夫になぞらえたものと推測され、2体の隙間に「御嶽山座王大権現」と刻された石碑が建てられている。五枚岩と共通して、岩の亀裂や合間を聖なる空間としている。
『尾張名所図会』の絵図にも同所に「ミタケ」と記載されており、江戸時代から御嶽講による信仰があったことがうかがえる。

女夫岩の周辺一帯には、大小の岩石が数箇所に群をなして露出している。

山頂の岩石群

山頂の岩石群


服部修政氏『知られざる岩崎山』によると、これらの岩塊群は、その上に蓋石を置いて埋葬墓としていたものではないかと推測されている。

しかし岩崎山麓の岩屋古墳をはじめとして、岩崎山一帯の埋葬施設はいわゆる横穴式石室の墓制で統一されており、服部氏の述べる自然石を側壁として蓋石を置いたというような埋葬形態は、考古学上確認されていない。

さらに、冒頭で触れた通り山頂には砦が築かれていた時代があるため、その時に自然石に改変が加わっている可能性があり、現状の岩塊の形状だけで祭祀目的の何かに類推することは慎重でなければならない。

弘法足跡石


山の西側山腹に位置。
『尾張名所図会』には名前の記載しかなく由来は不明だが、岩石の表面に足跡状の窪みがあり、これを弘法大師の聖跡とみなしたものだと類推される。

弘法足跡石

弘法足跡石周辺の岩石群

斜面上に露出する岩石群

八尋岩


山の北側山腹に位置。
斜面に露出した巨岩で、頂面が平らになっているためこの名があるのだろう。

八尋岩から麓を望む

頂面に立つと木々の合間から平野が一望できる。岩の広さと眺望の良さから特別視された岩であることは間違いないが、それ以上の信仰は認められず、神聖視の段階には至っていないのかもしれない。

この近くには土石で形成された自然の穴があり、『尾張名所図会』には「穴居」として紹介されている。

穴居

岩崎山

参考文献


  • 岡田哲・野口道直(撰) 「岩崎山」 『尾張名所図会』後編巻之三 1880年( 臨川書店 1998年版<版本地誌大系17>を参考とした)
  • 深田正韶(編) 「岩崎山」 『尾張志』下 1843年(歴史図書社 1969年版を参考とした)
  • 服部修政 『知られざる岩崎山』 ブックショップ「マイタウン」 1984年


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