静岡県掛川市佐夜鹿
昭和四六年夏、大場先生とともに小夜の中山を歩き、夜泣石について語り合ったことがあったが、それも、もう遠い日の思い出となってしまった。小夜の中山には扇屋という峠茶屋があり、その茶屋には、小夜の中山の歴史と伝承に非常に詳しく、茶店で「子育飴」などを鬻いで日を送る一人住まいの媼がいた。媼は、碩学の大場先生に滔々蜿蜒と小夜の中山談義を続けて捲むことがなかった。(略)後日の大場先生のお便りには、「しい語りする媼には小夜姫の霊が憑いているような気がしました」と書かれていた。野本寛一氏『石と日本人』樹石社 1982年
夜泣石、夜泣き石と呼ばれる岩石は日本各地に見られるが、ここで紹介する夜泣石は代表格と言えるものだろう。
遠州七不思議の一つ「小夜の中山の夜泣石」の伝説で著名な存在である。
小夜の中山の夜泣石 |
小夜の中山は、東海道中の峠の一つをそう呼ぶ。
道中、ここである妊婦が岩石にもたれて休憩していたところ、金目当ての山賊に切り殺された。
切っ先が岩石に当たったので、お腹にいた胎児まで刃は届かず、赤ん坊は無事だった。
その後、岩石の泣き声が山頂の久延寺の住職の耳に届いて赤ん坊は助かったという。
妊婦の魂は岩石に宿ったのか、毎夜毎夜岩石から泣き声がしたことから夜泣石と呼ばれたという。
伝説は続く。
生まれた赤ん坊は音八と名付けられ成長した。ある日、刃研ぎ師になるようにとの霊夢を見て研ぎ師に就いた。
そんなある日、一人の侍が刃こぼれのある刀を持参し刃研ぎを希望したが、会話の中でこれが亡き母を斬った刀であることを悟った音八は、ついに本願を果たしたといいます。
悔恨の念に苛まされた侍と語り合い母の御魂を鎮めたとも、かたきとして侍を討ったともいい、伝説の細部にはバリエーションがある。
さらに、この伝説を聞いた弘法大師が、夜泣石の表面に南無阿弥陀仏の刻字を施したという付会も伝わる。
夜泣石に刻まれた刻字 |
以上が夜泣石伝説だが、夜泣石伝説が定着した後の夜泣石は、さらに二次的な逸話を生み出していく。
夜泣石は伝説の内容からもわかるように東海道の真ん中にあったが、明治時代にはいり天皇の行幸にあわせて道の脇に動かされた。
その後、明治13年に東京で催された博覧会に、見世物としてこの夜泣石が出展されることになった。わざわざ海路で運ばれたが、なんと帰路の途中で運送資金がなくなりしばらく焼津に放置されたという。その後しばらくして、篤志家によって現在地に戻された。
波乱の石人生だが、石がどこにあろうと、石そのものに霊性を認めたからこそ、どこにいても夜泣石は常に夜泣石としての認識を浴びていたのだといえる。
ちなみに、昭和11年にも東京の催事に夜泣石は出品され、その時の計測では重量は約三百貫(1125kg)だったと記録される。
現所在地について補記すると、実際の小夜の中山からは少し北に行った国道1号線沿いであり、アクセスは格段に楽になった。
ここには、音八がこれを食べて育ったという子育飴の小泉屋があり、小泉屋の南に覆い屋つきで夜泣石が保存されている。
なお、久延寺には後世に創られた夜泣石や、別の伝説にちなむ孕み石という岩石がある。小夜の中山の夜泣石伝説自体が別の伝説を下地にして形成されたものであるとか色んな話に事欠かない。
岩石の役割としては、妊婦の魂を宿らせるという超常的な力を伝えるが、泣き続ける以上の何かはなく、即、祭祀や信仰につながったということはなかったようだ。
唯一、弘法大師が石に南無阿弥陀仏を刻んだという伝承が、岩石信仰の要素として挙げられる。岩石に神聖な存在による字が刻まれることで、夜泣石は「悲しい歴史に向ける鎮魂の装置」に変じた。
現在、夜泣石の手前には賽銭箱や手向けの花が供えられているが、これも鎮魂行為の延長と言えるだろう。
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