ページ

↑ からメニューを選択できます

2020年1月27日月曜日

美濃三不動「迫間不動・日之出不動・山中不動」と大岩不動(岐阜県関市・各務原市)



岐阜県関市から各務原市にかけて広がる丘陵地帯は標高300m級の山々が連なり、通称、関南アルプスや各務原アルプスと呼ばれて里山登りのメッカでもある。

実際に山に入ると否応なく気づくのが、○○不動などの修験道系寺院の多さであり、門前に掲げられた幟の賑々しさは、この地が現在も生きた霊場たちであることを教えてくれる。

この中でも、迫間不動・日之出不動・山中不動の三つは美濃三不動と総称されている。
岩窟を奥の院とする迫間不動、御神体を大岩とする日之出不動、本堂に接して巨岩に不動明王をまつる山中不動・大岩不動など、いずれの寺院でも山から露出した岩や石を霊地として利用していることを確認したので、ここで一括して紹介しておきたい。

迫間不動(関市迫間)


正しくは迫間不動尊という。
寺伝では、弘仁14年(823年)、この地方に疫病が流行した時、嵯峨天皇が迫間山内の不動明王の下で不動入法を修めたところ災いが治まったことから、岩谷不動尊という名で近在の人々の信仰を集めるようになったという。

延喜12年(912年)に本尊が焼失した。
延宝8年(1680年)、岩谷不動尊から迫間岩谷不動尊の名に改めた。
大正5年(1916年)にも再び火災が起こり、本尊及び堂舎が焼失したという。奥の院を現在の形に再建したのもこの時という。

本堂を進むと奥の院と滝がある。
奥の院は、岩窟を利用して2階建てコンクリ造の堅牢な堂が建てられている。
自然のままの空洞なのか、一部、人工的に掘削したのかは何とも言えない。

迫間不動奥の院

滝の行場が向かって右に隣接する。

岩窟内

一酸化炭素中毒を防ぐために換気用の送風機が岩窟内に置かれている。

内部には不動明王のほかに雑多な神々もまつられ、多くの蝋燭が絶えず灯っている。
門前にも小規模ではあるが現役の茶屋も稼働しており、いまだ数多くの崇敬者に支えられた霊場であることをうかがわせる。

境内には、岩盤の上に無数の堂宇や石碑がまつられており、その多くは御嶽教の影響色濃い霊神碑であることから、寺伝では山岳仏教に端を発するものの、現在の独特の修験道霊場の趣となったのは御嶽講・御嶽教成立後と推測される。

たとえば境内の「三之池摩利支天」は岩石をまつる堂であるが、由緒を引用すると「昭和三十三年八月吉日未明 御嶽山三之池摩利支天よりこの地に鎮座された石です」とあり、御嶽信仰の影響下で当地の霊場が形成されてきた様子を物語る。

迫間不動境内には数々の霊神がまつられる。

石倉大神・白石大神の石碑

三之池摩利支天

17世紀に名称を変えた記録や、大正5年の奥の院再建記録などから、おおよそであるが当地の霊場としての成立時期が類推される。
それでも、寺伝の上では美濃三不動で最古の創建記録を持つ寺院であり、規模も最も大きい。


日之出不動(各務原市鵜沼大安寺町)


正しくは日之出不動尊という。
当寺の由緒書によれば、当寺のすぐ南麓にある臨済宗妙心寺派済北山大安寺との関連性の色濃い寺伝を伝えている。

大安寺は応永3年(1396年)に笑堂常訴和尚によって開山された寺院だが、その笑堂が修行していた場所が当地と、当地の西向かいにある八木山頂上の「座禅石」(未訪)だったという。

その後、いつの頃かは定かではないが、ある旅僧が鵜沼宿で霊夢を見て、大安寺の奥山に鞍馬山の日之出不動をまつる一宇を建てよとの告げを受け、里人と共に堂を建てたのが直接的な当寺の創建とされる。

これらの点から、日之出不動は外部の鞍馬不動を奉じつつ、各務原に根差す大安寺の霊威を借りる形でその奥の院的な位置づけに入ったという来歴が浮かび上がる。

現在、当寺では「落ちない岩」を押し出しており、路傍の看板でのキャッチコピーになっているばかりか、お守りや護摩木・絵馬をセットにした合格祈願セットも、受験生向けに頒布されている。
「奉拝 岩」と記された珍しい御朱印もいただくことができる。

落ちない岩(身代石不動明王)

日之出不動尊の入口看板

日之出不動の御朱印の一つ

このようなご利益が生まれたのは最近のことで、全国各地で「落ちそうで落ちない石」が受験合格に準えられて霊石として新たな信仰を集めているムーブメントと無関係ではなく、おそらくそれ以前は別の信仰の場として在ったのだろう。

それを示すように、落ちない岩の横に置かれた「日之出不動奥の院」の案内看板はブーム以前の設立と見られ、落ちない岩の名前は登場せず、その代わりに「身代石不動明王 御神体 大岩」の名称が冠されている。
付設された石板には「大正3年開山」の字があり、迫間不動の奥の院の再建に通ずる当時の篤い崇敬の動きが感じられる。

なお、身代石不動明王(落ちない岩)の上には天御中主神の祠、さらにその上の行場頂上には御嶽大神をまつる大岩がある。
最上段が御嶽大神であることからも、当寺も御嶽信仰の影響下にあることは疑いない。

天御中主神(中段)

御嶽大神(最上段)

最上段から日之出不動境内を見下ろす。

お寺でいただいた毎日新聞2016年5月24日付けの記事には「毎月3回、名古屋や静岡などから40~50人の団体が午前6時から滝修行に訪れる」と書いてある。
私が三重県から来たことを話すと、堂守の方は「三重県からも数名滝修行に定期的に来ていますよ」とおっしゃられていた。

美濃三不動の中では、最も成長拡大路線を感じる活気に満ちた寺院である。


山中不動(各務原市各務東町)

正しくは山中不動院という。
美濃三不動の中では最も寂びており、境内の堂守の方も常駐されておらず、由緒書も下記のとおりプライベートな感が強い。

山中不動 本堂

社務所(閉鎖)に掲げられた文章

堂守の方も、今は亡くなられたとGoogleのクチコミに書かれており、真偽のほどはわからないが、今後の篤信家の方々の信仰で支えられていく霊場となるのだろう。

本堂の裏は巨岩に接しており、堂の屋根は年月の経過で傷んでいるが巨岩に取り込まれるかのようでもある。そこから稲荷社にかけて一大岩塊が横たわっており、南面して岩陰状の空間ができており、そこを岩屋不動としてまつっている。

本堂裏に接する巨岩

岩屋不動

滝上の岩崖

嘉祥年間(848~851年)にここで不動明王が刻されたというが、寺院として整備されたのは大正~昭和の頃ともいい(境内の稲荷社の社殿は昭和57年奉納と書かれていた)、隣に接して御嶽大社の社も建立されている。

以上の要素は迫間不動・日之出不動と同じくするものであり、当山塊における不動信仰は近世の御嶽信仰の影響下で、近世ないしは神仏分離が落ち着いた大正時代の頃に盛んになった聖地と考えられる。

もちろん、御嶽信仰以前の当地の山岳信仰・岩石信仰の可能性を否定するものではない。ただ、それを実証するのに有効な資料をまだ見つけられていない。
各務原~関で色濃く密集した不動霊場をフィールドに取り上げた歴史的研究があってもよさそうなものだが。


大岩不動(関市迫間)


こちらは美濃三不動ではないが、三不動と同じ山塊に属し、同一の宗教圏の中で形成された霊場と思われるため併せて紹介しておく。

一帯は、迫間不動にかけて「ふどうの森(不動の森)」として自然公園になっており、駐車場のアクセスなども一定整備されている。

本堂に向かって左横に「大岩不動 不動明王御神体」の案内があり、堂の欄干の下をくぐるように、岩崖の半ばに築かれた不動明王の石像を拝することができる。

大岩不動 本堂

本堂向かって左脇から御神体を拝観する。

岩崖内に安置された大岩不動明王

不動明王の祠は、ちょうど岩崖が凹んだ谷部に安置されている。

本堂の背後には、昭和10年に別の場所から移された白水竜王が岩崖上にまつられており、やはり大正~昭和初期の信仰の息吹を感じずにはいられない。

白水竜王

咳止め地蔵

参考文献

  • 迫間不動尊の由緒書
  • 日之出不動尊の由緒書
  • 各寺の現地看板
  • 毎日新聞2016年5月24日付記事「受験生に人気の『落ちない岩』」(日之出不動尊で授与)
  • 2017年12月9日発行中日各務原市民ニュース「落ちない岩が受験生に人気!!」(日之出不動尊で授与)
  • 「美濃三不動(迫間不動尊(関市)、日乃出不動(各務原市)、山中不動院(同))の由緒、縁起についての資料はないか。 」(国立国会図書館レファレンス協同データベース)https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000022750(2020年1月27日アクセス)


2020年1月26日日曜日

御社尾の神石(奈良県奈良市)


奈良県奈良市都祁小山戸町 かもえ谷(都祁山口神社裏山)

都祁山口神社は延喜式内社であり、大和国に14座存在する「山口社」の一社として知られる。
また、同じく延喜式内社であり都祁村友田に鎮座の都祁水分神社は、元来当地にあったともいい、都祁の当地は山口神・水分神の神格にふさわしい聖地だったと言える。

この都祁山口神社の裏山を5分ほど登った山のへりに「御社尾の神石」がまつられている。
御社尾(ゴシャオ)が、岩そのものの名前でもある。




元慶3年(880年)、水分神が白龍の姿で降臨した磐座と伝えられる。

神石の手前で立入禁止の札が立つため奥の様子はわからないが、岩盤が地面から瘤状に盛り上がっていて、神の座石としてふさわしい形状をなす。

御社尾を含めた尾根全体が岩盤から成り立つ岩山

立地も興味深い。二つの尾根がちょうど重なるところに御社尾の神石があり、神石の奥から本格的な山に入っていく。

また、磐座の手前は谷になっており、その谷の先に都祁山口神社の社殿がある。この谷を「かもえ谷」(誤表記かもしれないが「かもし谷」表記もみる)と呼ぶらしい。

山口神をまつる立地でもあり、水分神をまつる立地でもあるということだ。

御社尾の前の谷間から流れる沢水は、都祁山口神社境内のこの池へ流れ込む。

近くには「都祁直霊石」と刻まれた岩石があり、御社尾を「都祁直(あたい)」の「霊石」と説明する石標にも思えるが、現状ではこの石の前に榊が献じられていることから、この石自体も霊石となっている。



御社尾の近くからは古墳時代の管玉が発見されていることがわかっている。
表面採集ではあるが、少なくとも古墳時代からの祭祀遺跡の事例としても重要な存在である。

小川光三氏は複数の文献において御社尾について取り上げており、御社尾の岩石には一部人為的に前方後円の形に整えられた形跡があると記している。現状として御社尾は禁足地であり、正面から見た限りでは人工と証明できる部分は見当たらないため私は自然岩盤と認識している。

さらに小川氏の情報によると、御社尾から尾根をさらに奥へ進むと八王山(ハッチョウサン)と呼ばれる小山があり、八王山頂上には「列石」があると報告している。しかし、その詳細については触れられておらず真に列石かも評価できない。

なお、都祁山口神社の社前の水田中に「森神さん」と呼ばれてまつられる森が残る。詳細は不明ながら、同じ都祁地域に存する雄神神社―白石国津神社間の「やすんば」と類似の信仰をしのばせる。

森神さん


参考文献

  • 小野真一『祭祀遺跡地名総攬』(考古学ライブラリー11)ニュー・サイエンス社、1982年
  • 国立歴史民俗博物館(編)『共同研究「古代の祭祀と信仰」附篇 祭祀関係遺物出土地名表』(国立歴史民俗博物館研究報告 第7集)第一法規出版、1985年
  • 小川光三「海洋民の『山立て』と古墳」 日本環太平洋学会 編『環太平洋文化 = Journal of Pacific Rim studies』(6),日本環太平洋学会,1993-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/4426203 (参照 2024-03-22)

2020年1月20日月曜日

立磐神社(奈良県奈良市)


奈良県奈良市大柳生町 夜支布山口神社境内

夜支布山口神社は延喜式内社だが、中世までは現社地から南600mの上出地区にあったという。
元々この地に鎮まっていたのは立磐神社(立盤神社とも)だった。
この地は大柳生の里を見渡せ、横には白砂川も流れる好立地と言える。

名前の通り磐石をまつる神社で、社殿が国指定重要文化財につき手前の石段を登れなくしているが、左右から斜面を登って立磐を拝むことができる。



高さ約3.5mとされる丸みを帯びた磐石が斜面から顔を出している。
これを「立磐」と称したのだろう。

現在は立磐の手前に社殿が建つが、社殿が設けられる延享4年(1774年)以前は社を持たなかったともいう。

境内社叢や周辺には数基の古墳の存在が確認されている。
古墳と立磐の関連性は不明である。


また、夜支布山口神社に向かう途中、路傍にこのようなものを見かけた。


2009年2月撮影

1体の岩石の手前に、藁で作った造形物が2つ置かれている。
何かの習俗かと思われるが人もおらずわからない。隣接する畑が、この岩石を避ける形で作られているのも思わせぶりだ。

場所は夜支布山口神社から1kmほど南へ行った、大平尾町へ向かう車道沿い。下に地図とストリートビューを埋め込んでおこう。




(2013年10月撮影とのこと)

私の探訪時とストリートビューでは、藁の造形物の置かれ方が異なる。
時期により岩石を取り巻く光景が変わるようである。
この岩石の詳細をご存知の方はご教示ください。

2020年1月19日日曜日

岩楠神社と絵島(兵庫県淡路市)


兵庫県淡路市岩屋

淡路島の北端近く、岩屋港に恵比須神社(戎神社)が鎮座する。
岩屋地区(古くは石屋とも)の産土神として崇敬を集めており、江戸時代に恵比須講が盛んになって勧請された。

この戎神社の背後に、境内社の岩楠神社(岩樟神社とも)がある。
岩樟神社は三対山の崖にできた岩窟で、濱岡きみ子氏の報告(1984年)によると、奥行き6m、高さ1.8m、幅2mの空洞を内部に持つという。




かつてはもっと長大な洞窟だったというが、背後の山上に岩屋城を築くときにこの岩窟の一部を崩したという話も伝わる。

地元では、伊弉諾尊が最終的にお隠れになった幽宮(最終的鎮座地・墓所)がこの岩窟であると信仰されている。

現在の祭神は国常立神・伊奘諾尊・伊奘冉尊の三柱だが、濱岡氏の調べでは『神社総社記』なる書物では月読尊となっており、また、長寛元年(1163年)の古記録では天地大明神なる神がまつられていたとある。

岩石信仰の観点から岩楠神社の岩窟を見ると、神霊の宿る空間を異界として明示する存在であり、異界の境界石のような働きでありながら、岩窟自体が内部構造に空洞をもつ神宿る岩石だったと考えることもできるだろう。岩窟祭祀の典型例の一つである。
恵比須信仰以前の当地の原初性を物語るのが岩楠神社の岩窟である。


なお、目と鼻の先の海岸に、絵島という岩の島がある。
伊弉諾・伊弉冉の国生み神話に登場する自凝島(オノコロ島)の候補地の一つとして知られている。



参考文献

濱岡きみ子「石屋神社」 谷川健一編『日本の神々 神社と聖地 第3巻 摂津・河内・和泉・淡路』白水社 1984年

2020年1月13日月曜日

蓬莱山・阿須賀神社・白玉稲荷神社・宮井戸遺跡の岩石信仰(和歌山県新宮市)


和歌山県新宮市阿須賀~蓬莱

蓬莱山・阿須賀神社・白玉稲荷神社・宮井戸遺跡は、それぞれが歩いて行ける距離に集まっているので一度にこのページで紹介しておこう。

阿須賀神社と蓬莱山の祭祀遺跡


和歌山県新宮市にある阿須賀神社は延喜式内社で、熊野速玉大社の境外摂社。
熊野三山の信仰と深い関わりをもつ。飛鳥社の当て字でも知られた。

『熊野権現御垂迹縁起』『熊野社記』という書物によると、熊野速玉大神は今の阿須賀神社の近くに一時鎮座してから現速玉大社に遷ったともいわれる(木内武男氏『熊野阿須賀神社』1983年)。

熊野の神々の系譜から目を転じると、阿須賀神社は社殿裏にそびえる蓬莱山を神の地とする自然景観にも注目したい。
蓬莱山は標高48mの小さな山だが、平地にぽつんと突き出ているその三角形の山容は目立ち、そもそも元来は海中に浮かぶ小島だったと推定されている。

熊野川対岸の三重県側から望む蓬莱山

阿須賀神社と蓬莱山

蓬莱山の麓、すなわち阿須賀神社の境内からは、弥生時代末期から古墳時代初期にかけての3基の竪穴式住居址が出土している(阿須賀神社境内遺跡)。

住居址とともに、陶磁器の破片、須恵器の破片、土師器の破片、弥生土器の破片、土錘、紡錘車、鉄鏃の破片、少量の石器が見つかった。
弥生土器の属性から、弥生後期前葉(1世紀~2世紀)以降、古墳時代に至るまでこの一帯で生活が営まれていたと考えられている。

阿須賀神社境内遺跡(境内で史跡整備されている)

さらに、蓬莱山の中からは、平安~室町時代における仏教関連の祭祀遺構・遺物が豊富に出土した。

神社本殿の西脇を上オンビ、東脇を下オンビと呼んでいる。
オンビの意味については「御幣(おんべ)」ではないかと木内氏前掲書で紹介されている。

この上オンビに、子安石という霊石があったと伝えられ、現地に子安塚が現存する。

子安塚

子安塚に献じられた玉石

上オンビのあたり

考古学者の大場磐雄博士は、氏の人生の中で少なくとも3回当地を訪れていることを自身のメモ『楽石雑筆』に記しており、そこで子安石と子安塚について以下の通り明らかにしている。

現本殿に向って左方に子安石と称する自然石竪居せりと、戦災のため破壊せりといふ、且つこの附近を「上オンビ」と呼ぶといふ。(昭和28年8月31日)
(略)
上オンビに子安塚あり、丸石をあげており、もとここに子安石ありしところ、ここは速玉社の例祭にも神倉社の火祭りにも奉幣の式あり、またここより少し上手に上りしところに巌窟ありて、御正体の出土せしところなりという。(昭和37年8月5日)(以上、『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』2016年より)

つまり、子安石は戦災で破壊され現存しておらず、現在それらしく屹立する立石は子安石を偲ぶ子安塚であるということだ。
この情報を入手するまでは、現状の立石が子安石と勘違いしていたので、重要な事実としてここに注記しておきたい。

さて、この子安石の裏は蓬莱山の端に当たり、そこから組石や敷石の人為的な遺構が見つかった。また、蓬莱山の南斜面に露出する巨石(自然石)を壁として利用し、その前面三方に石を組み合わせた石室(岩窟)遺構が見つかり、そこから御正体(鏡像・懸仏の総称で、鏡に本地仏を刻し祭祀対象や埋納祭具として使用したもの)総数194枚や、経筒片・経石などの経塚関係遺物が出土した。

他にも上オンビ、下オンビ一帯からは弥生時代の土器や古墳時代の手づくね土器、滑石製模造品なども見つかっている。
仏教祭祀以前の痕跡であり、遺物の性格から単なる生活の痕跡とは言えず、仏教祭祀以前の山岳祭祀があった可能性も捨て切れない。

なお、蓬莱山の熊野川寄りの海岸を「こりかけ場(垢離所)」と呼んでいる。


白玉稲荷神社


阿須賀神社のすぐ南へ足を向けると、住宅地にぽつんと存在する小さな社・白玉稲荷神社がある。
社殿のすぐ裏に、社殿を覆い尽くさんばかりの巨岩が2体あり、社殿向かって右にもまな板状の巨岩が1体寄り添っている。



元来は岩礁のひとつであっただろうことは、ここが熊野川、そして太平洋と目と鼻の先の場所にあることからもわかる。

単なる岩礁ならばそこに社がまつられる必然性はなく、後年、宅地開発のなかで社は遷座されるか、邪魔な岩扱いとして現在までに破壊されていただろう。
しかし、現状はこれらの巨岩群を避けるように住宅が建てられている。子供の遊び場となりやすいためか、「立ち入り禁止」の柵を張りながらも、岩の撤去はされていない。

「白玉」は、裏にそびえる球状の岩石群が、日光に反射して白く輝いた玉石を形容したものなのか、熊野に多い玉石信仰と、その玉石の巨大化した形状が相まって神聖視されたものなのかと類推される。


宮井戸社・宮井戸遺跡・千引の岩


熊野川の河口沿いに、こんもりとした森が残っている。宮井戸の森という。
外から一瞥するだけでは通り過ぎてしまいそうだが、森の中に踏み入れると雰囲気は一変し、森のそこかしこに自然露出の岩群が密集して岩山を形成している。




森の中には宮井戸社が鎮座し、古絵図には宮戸社として記録される場所だった。
いつの頃からかまつられていたかは不詳であるが、かつては海に囲まれた岩の島だったといわれ、飛鳥行人という者が創祀したという。
祭神は黄泉道守命で、熊野川の入口を黄泉国と見立てた信仰によるものか。

黄泉国信仰には、森の岩山にも向けられており、岩山全体を含めて「千引の岩」あるいは「千引岩」と呼んでいる。
黄泉国を塞いだ日本神話の千引岩を、河口という「境界」に群集する宮井戸の岩山に準えたのだろう。

千引の岩の一つには「キリーク」「カーンマーン」の梵字が刻まれ、それぞれ「大威徳明王」「不動明王」に該当する。
鎌倉時代の刻字と考えられているが、現地看板によると『熊野年代記』には文明3年(1471年)「本地梵字彫スル」との記述があるという。

千引の岩に刻まれた梵字

梵字だけでなく、森からは一字一石経も見つかっている。
仏教の聖地として神聖視されていたことは明らかだが、さらに、当地からは弥生土器も出土していて、宮井戸遺跡として文化財指定されている。
この発掘調査を主導された大場磐雄博士の野帳から下記引用しておこう。

宮戸神社千引岩・土器類出土・アスカの北の貴弥ヶ谷。子安石下より出土せしもの弥生式土器片。(略)千引岩 この石の下から経石あり。(昭和38年8月)(『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』2016年)

蓬莱山の子安石、宮井戸の岩山ともに、弥生土器を伴出したことがわかる。
ただ、弥生土器の出土をもって、祭祀にまで結びつけていいのかは即断できない。

宮井戸社は明治時代に阿須賀神社に合祀されたため現存していないが、現在は地蔵堂が建っている。

宮井戸遺跡に建つ地蔵堂と遺跡説明看板


補足・新宮の徐福伝説


蓬莱山の名称は、後世に広まった秦の始皇帝の徐福伝説にちなむ命名と考えられている。

徐福伝承地は南は佐賀県、北は青森県まで数十ヶ所伝わるが、阿須賀神社境内には「徐福之宮」という徐福をまつる神社から、徐福上陸碑、徐福の墓、徐福公園まである。

徐福之宮(阿須賀神社境内)

秦徐福上陸之地(記念碑)

徐福の墓の起源ははっきりしており、元文元年(1736年)、江戸幕府紀州藩祖の徳川頼宣の命で設けられたものである。
新宮の徐福伝説は江戸時代には知られていたことがわかる。
中国元王朝の支配を嫌い、日本へやってきた仏僧・無学祖元がこの新宮で徐福を偲ぶ詩歌を残しているので、鎌倉時代まで新宮の徐福伝説は遡れるそうである。


参考文献


  • 木内武男『熊野阿須賀神社』 1983年
  • 山下立『特別展 阿須賀神社の御正体』 新宮市立歴史民俗資料館・南紀熊野体験博 新宮市実行委員会 1999年
  • 小賀直樹「住居」『和歌山の研究』第1巻 地質・考古篇 津文堂出版 1979年
  • 新宮市史編さん委員会 「古代新宮の息吹き」『新宮市史』 新宮市役所 1972年
  • 和歌山県史編さん委員会 「阿須賀神社遺跡」『和歌山県史 考古資料』 和歌山県 1983年
  • 茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年