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2020年1月3日金曜日

歴史学的に磐座・巨石を研究するときの注意事項


磐座や巨石信仰のことを知りたいと思ったとき、インターネットや本でたくさんの情報に出会います。

私も折に触れて検索や文献収集をしているのですが、ある視点が少ないと感じました。
それは、磐座や巨石信仰は歴史的な文化財、ということです。

このページでは、磐座や巨石信仰をこれから勉強してみたいと思った方のために、歴史学という学問でできそうなことを5つのポイントにまとめておきます。

1.歴史学の基本的な方法を知る


歴史には、ついついロマンを求めてしまいがちです。
それは全否定されるものでもありませんが、歴史が現代人に娯楽的に消費されるための素材だけになってしまっては、少々もったいないです。

あと、歴史に対して失礼かも。

そこで、一歩冷静になって歴史を取り扱うための作法のようなものが歴史学です。

歴史学は科学の一分野です。
科学なので、大前提は「追試ができること」です。
研究者がある説を唱えたとして、他のだれでも同じ方法で調べれば、同じ結果が出るという再現性がないと、それは科学ではなく、歴史学ではありません。

だから、調査方法や、調査に使った資料が公表されていない文章は、追試ができないという点で失格です。
磐座や巨石信仰は宗教的な性格を帯びるので、霊能者のお告げやパワーを感じるなどの理由が使われるケースがありますが、これは歴史学ではないので注意しましょう。

歴史資料は、文献資料・考古資料・民俗資料の3種類に分かれます。
それぞれの特性を把握して取り扱いたいところです。


■文献資料

文字で書かれた資料。古文書などです。
古文書は実物をおいそれと見られるものではないですし、崩し字が読めない、昔の言葉の意味が今の言葉の意味と異なるなど、扱う上でのハードルがあります。

実物でない場合は、なるべく信頼できるソースに当たりましょう。具体的には、翻刻・活字化された文章を選ぶことです。
意訳・現代語訳された文章に拠るのは危険です。訳した人の主張が混ざります。

また、文献資料は、文字が書けた人の立場の歴史であるということも注意ポイントです。文字を残せなかった立場の人々の方が多かったということを、特に地域の信仰となりやすい岩石信仰においては含んでおかないといけません。

■考古資料

地中に残る資料。遺跡・遺構・遺物を指します。
文字が残っていない時代のことを研究する場合には、一番使うことになる資料です。

でも、発掘は勝手にできません。
というか、法律的にもしてはいけません。 
ときどき、磐座や巨石の周りを掘ってしまっている人がいます。アウトですのでご注意ください。

考古学では、土の中から見つかった資料を、事細かに記録します。なぜかというと、一度堀ったところは二度と同じように戻せないからです。地層がぶっ壊されるので。
歴史の真相を知りたい!という浪漫心で地中を掘ってしまうのは我欲です。土の下の歴史は永久に復元できなくなります。だから、考古資料は考古学の技術がある組織に委ねましょう。

ということで、考古資料を取り扱う際も、多くの場合は実際の発掘を通して知るのではなく、専門の方が発掘して記録した発掘調査報告書を参考にすることになります。

この点で、考古資料は発掘調査者という人間を通して文献資料化してしまいます。
さらに、それをどう取り扱うかは、文字がないからこそ資料からメッセージがダイレクトに伝わらず、より研究者自身の価値観に委ねられます。


■民俗資料

民俗資料は、文字で書かれた資料や、土の下から出る資料から零れ落ちたものになります。

民俗学といえば伝説・昔話や祭り・風習などが知られますが、伝説や昔話は「口」を介して残る資料であり、祭りや風習は「動作」を介して残る資料という点で、民俗資料の特徴をよくとらえています。

おおむね、固定化しない人の言動資料ともいったところです。
民俗資料は古文書や考古資料に比べ、村の古老の聞き取りや観察などを通して自分で開拓できますが、だからこそ注意点があります。

それは、調査対象が一人の生きている人間であり、調べようとしていることは、目で見えず手で触れないような「言葉」「心」を扱うということです。
実体のないものはこちらの誘導の仕方や、相手の態度次第で変幻自在に形を変えます。そもそも「資料」化できるかどうかが注意ポイントです。


2.資料批判(史料批判)をしているか


歴史資料というものが、いろいろな取り扱いのハードルがあることを見てきました。

つまり、人が介する限り、歴史資料は「主観」から逃れられないということです。

人が書いた文章、人が話したこと、人が思ったこと、すべて主観的です。
どの立場、思惑、意図で書かれたのか、これらは歴史の語られ方を限定していきます。

だから、資料批判(史料批判)をしないといけません。
その文献に書いてあることの批判、その考古資料のとらえ方の批判、その聞き取り観察情報の批判。

こんな状態ですので、できるかぎり信頼できる資料を使うのは最低限の作法です。
いわゆる一次資料、原典と呼ばれるものです。
また、研究者自身も批判され、その批判に打ち克った研究者の文章を参考にすることも大事です。
追試・再現性の原則に照らし合わせて、すこしでも信頼性に欠けるものは、一片の真実が含まれていたとしても、自分にとって都合の良い情報だったとしても、それを追試再現する術がないかぎり、資料として使わないことが研究者自身に課せられた冷徹な態度です。

3.信じていい情報かどうかの見分け方


テクニック的なところでいえば、その文章における参考文献の挙げかたである程度、情報の信頼性の見分けができます(絶対ではないですので例外は常にあると思ってお読みください)。

論文を引用していない。特に、査読つきの雑誌の論文を引用していないのは危険臭が漂います。
査読とは、論文が審査されて実際に不掲載ということが起こりえないと、本当の意味での査読とはいいがたく、そのような査読雑誌がどうか見極めるのは難しいですが。

雑誌論文は、雑誌ごとでの信頼性というのがある程度見極めの基準になります。
学術性・専門性が上がれば上がるほど、一般書店には置かれなくなるので、知名度=信頼性というわけではありません。

マニアックな雑誌ほどいいというわけではありませんが、一般書籍を参照しただけで構成された文章は、そのまま調べ方の浅さを示すようなものです。

そもそも出典を示さない文章であれば、それは追試・再現ができない可能性が上がります。
また、インターネットであれば、同じワードで検索してみることをおすすめします。どこかのだれかの文の転載ということも往々にしてあります。
同じことを、すでに昔の方が書いていたという場合もあります。

参考文献と似ていることとして、先行研究が上がっていない研究も危険です。それまでの研究者へ失礼にもなります。

同じ結論の繰り返しでは研究になりません。解明されていない余地を取り上げ、どこまでわかっていて、どこがわかっていないのかを明らかにすることで、後学に資する研究となります。

さらに、研究は常に更新されているので、最近の研究も取り上げられているか。これは、研究者自身がアンテナを張って勉強し続けているかの証明になります。

歴史自体も常に進んでいます。
ある時点での歴史が、それ以前も永久不変と考えたり、それ以降も永久不変と考えたりしないことです。
歴史自体も、解明されていないことが多いわけですから、常にアップデートされているつもりで危機感をもって情報収集したいところです。

主張のしかたも注意です。
結論が最初から決まっていると、すべての資料や論理がその結論のために染まっていきます。前提条件がない、仮定に仮定を重ねるなど…。
主張に、常に自己批判が伴っているかが、文章の信頼性を担保します。

歴史に、自身の政治的主張と絡めるケースもあります。
結果的に自然と、という場合もありますが、これも結論が政治的信条や宗教的信条にある場合は、途中の文章がすべて主観に染まっていきます。
アカデミズムへの毛嫌いをする文章も、この点で主観から逸脱しやすいです。アカデミズムを批判するなら、アマチュアリズムも批判してこそです。自らと、自らの同胞も批判して研究者です。

4.自己批判しているか


これをつきつめると、自己批判精神と言ってもいいでしょう。

自分すら一人の人間として客観的でいられないと考えて、主観的な自分をたえず批判できなければ、歴史にタッチするのは危険な行為と思ってよいでしょう。

現場や経験を数多く知っていると自負する経験主義は、だからこそなおさら危険です。
歴史の場合は、特に。価値観が同じである保証はないので、ならばまだ資料第一主義のほうが妥当性があります。

目の前にある現場、現物、資料は事実そのものだが、それを見た人間は事実どおりに受け止められなかったりするし、意図的でない嘘もついたりします。

人を介した情報には、事実と解釈が入り交ざります。
事実と解釈をひとつずつ、より分けましょう。そして、事実は事実だけでまとめて、解釈は解釈でまとめ、取り扱いを別にする文章に再構築しましょう。

また、資料として残っているのは、過去にあったすべての事象のうちのごく一部だけという前提も覚えておくことが大切です。
これは、残っている資料がすべての歴史と思わないところにあります。
書かれていないこと=ゼロではありません。

同様に、自分の推論と当てはまるものだけで研究をするのではなく、当てはまらなかったものに対する解釈も怠らないことです。

5.過去の人々を裁くという重みを知る


「こうである」と、一択で結論を出す行為は危険です。

いま生きている目の前の人のことすらはっきりわからないのに、過去のある地点の人を文字化するという重みです。

注意点としては、自分の都合の悪い事実ほど大切にしましょう。

歴史が好きで歴史研究をしているんだという自分の偏愛を自覚し、一歩離れた姿勢を持つと、ちょうどよいかもしれません。

そのほか

5項目を書いてしまい、文量も多くなりましたので、このあたりで区切っておきます。
あと書こうと思っていたことを、備忘録ついでにメモしておきます。


  1. 信仰している人には、敬意を払うが、信じすぎないこと。
  2. スピリチュアルとのつきあいかた…歴史に軽重はないので、スピリチュアルも歴史と捉える。自分が歴史に取り込まれるかどうかはまた別問題。
  3. 信仰は、かならずしも論理的ではないということ。感情の世界、無意識の世界、平常の意識ではない状態。それを覗き見ようとするある種で危険な行為。
  4. 祭神・神話とのつきあいかた…明治時代以降の神仏分離、神社合祀を調べておくのは前提条件。江戸時代以前も祭神の変更、勧請が山のようにあり、固定的でなかったこと。
  5. 話者の後天的知識に注意…今は情報化・グローバリズムの時代です。古老が教科書知識で語る可能性も。
  6. 使う用語にこだわる…しょせん用語、定義とか言ってしまうとまずい。自分への過信と、読者への配慮不足、言葉を大切に扱えない研究の信頼性。用語にこだわるのは、自分を信用していないから。
  7. 神道、古神道、原始神道、アニミズム、縄文といった言葉がもつ心地よい響きにだまされない。
  8. データを集める…1例だけですべてを覆さない。資料は、年代の検討をしたうえで扱いを変える。データ収集は面倒な作業だが、面倒な作業に頭をつっこんでこそ自己批判。研究=好きなことだけをすることではない。
  9. かならずといっていいほど、そのテーマを解明するために、自分の専門外のことも勉強しないといけない段階が出てくる。
  10. 今、身の回りにある文化・伝統がいつからあるか、自分の思考回路がいつからの常識かを疑う。「古そうなもの」は「新しいもの」ではないかと、疑う。一方、「新しいアイデア」は「古くから存在していたものではないか」とも疑う。



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