岐阜県関市から各務原市にかけて広がる丘陵地帯は標高300m級の山々が連なり、通称、関南アルプスや各務原アルプスと呼ばれて里山登りのメッカでもある。
実際に山に入ると否応なく気づくのが、○○不動などの修験道系寺院の多さであり、門前に掲げられた幟の賑々しさは、この地が現在も生きた霊場たちであることを教えてくれる。
この中でも、迫間不動・日之出不動・山中不動の三つは美濃三不動と総称されている。
岩窟を奥の院とする迫間不動、御神体を大岩とする日之出不動、本堂に接して巨岩に不動明王をまつる山中不動・大岩不動など、いずれの寺院でも山から露出した岩や石を霊地として利用していることを確認したので、ここで一括して紹介しておきたい。
迫間不動(関市迫間)
正しくは迫間不動尊という。
寺伝では、弘仁14年(823年)、この地方に疫病が流行した時、嵯峨天皇が迫間山内の不動明王の下で不動入法を修めたところ災いが治まったことから、岩谷不動尊という名で近在の人々の信仰を集めるようになったという。
延喜12年(912年)に本尊が焼失した。
延宝8年(1680年)、岩谷不動尊から迫間岩谷不動尊の名に改めた。
大正5年(1916年)にも再び火災が起こり、本尊及び堂舎が焼失したという。奥の院を現在の形に再建したのもこの時という。
本堂を進むと奥の院と滝がある。
奥の院は、岩窟を利用して2階建てコンクリ造の堅牢な堂が建てられている。
自然のままの空洞なのか、一部、人工的に掘削したのかは何とも言えない。
迫間不動奥の院 |
滝の行場が向かって右に隣接する。 |
岩窟内 |
一酸化炭素中毒を防ぐために換気用の送風機が岩窟内に置かれている。 |
内部には不動明王のほかに雑多な神々もまつられ、多くの蝋燭が絶えず灯っている。
門前にも小規模ではあるが現役の茶屋も稼働しており、いまだ数多くの崇敬者に支えられた霊場であることをうかがわせる。
境内には、岩盤の上に無数の堂宇や石碑がまつられており、その多くは御嶽教の影響色濃い霊神碑であることから、寺伝では山岳仏教に端を発するものの、現在の独特の修験道霊場の趣となったのは御嶽講・御嶽教成立後と推測される。
たとえば境内の「三之池摩利支天」は岩石をまつる堂であるが、由緒を引用すると「昭和三十三年八月吉日未明 御嶽山三之池摩利支天よりこの地に鎮座された石です」とあり、御嶽信仰の影響下で当地の霊場が形成されてきた様子を物語る。
迫間不動境内には数々の霊神がまつられる。 |
石倉大神・白石大神の石碑 |
三之池摩利支天 |
17世紀に名称を変えた記録や、大正5年の奥の院再建記録などから、おおよそであるが当地の霊場としての成立時期が類推される。
それでも、寺伝の上では美濃三不動で最古の創建記録を持つ寺院であり、規模も最も大きい。
日之出不動(各務原市鵜沼大安寺町)
正しくは日之出不動尊という。
当寺の由緒書によれば、当寺のすぐ南麓にある臨済宗妙心寺派済北山大安寺との関連性の色濃い寺伝を伝えている。
大安寺は応永3年(1396年)に笑堂常訴和尚によって開山された寺院だが、その笑堂が修行していた場所が当地と、当地の西向かいにある八木山頂上の「座禅石」(未訪)だったという。
その後、いつの頃かは定かではないが、ある旅僧が鵜沼宿で霊夢を見て、大安寺の奥山に鞍馬山の日之出不動をまつる一宇を建てよとの告げを受け、里人と共に堂を建てたのが直接的な当寺の創建とされる。
これらの点から、日之出不動は外部の鞍馬不動を奉じつつ、各務原に根差す大安寺の霊威を借りる形でその奥の院的な位置づけに入ったという来歴が浮かび上がる。
現在、当寺では「落ちない岩」を押し出しており、路傍の看板でのキャッチコピーになっているばかりか、お守りや護摩木・絵馬をセットにした合格祈願セットも、受験生向けに頒布されている。
「奉拝 岩」と記された珍しい御朱印もいただくことができる。
落ちない岩(身代石不動明王) |
日之出不動尊の入口看板 |
日之出不動の御朱印の一つ |
このようなご利益が生まれたのは最近のことで、全国各地で「落ちそうで落ちない石」が受験合格に準えられて霊石として新たな信仰を集めているムーブメントと無関係ではなく、おそらくそれ以前は別の信仰の場として在ったのだろう。
それを示すように、落ちない岩の横に置かれた「日之出不動奥の院」の案内看板はブーム以前の設立と見られ、落ちない岩の名前は登場せず、その代わりに「身代石不動明王 御神体 大岩」の名称が冠されている。
付設された石板には「大正3年開山」の字があり、迫間不動の奥の院の再建に通ずる当時の篤い崇敬の動きが感じられる。
なお、身代石不動明王(落ちない岩)の上には天御中主神の祠、さらにその上の行場頂上には御嶽大神をまつる大岩がある。
最上段が御嶽大神であることからも、当寺も御嶽信仰の影響下にあることは疑いない。
天御中主神(中段) |
御嶽大神(最上段) |
最上段から日之出不動境内を見下ろす。 |
お寺でいただいた毎日新聞2016年5月24日付けの記事には「毎月3回、名古屋や静岡などから40~50人の団体が午前6時から滝修行に訪れる」と書いてある。
私が三重県から来たことを話すと、堂守の方は「三重県からも数名滝修行に定期的に来ていますよ」とおっしゃられていた。
美濃三不動の中では、最も成長拡大路線を感じる活気に満ちた寺院である。
山中不動(各務原市各務東町)
正しくは山中不動院という。美濃三不動の中では最も寂びており、境内の堂守の方も常駐されておらず、由緒書も下記のとおりプライベートな感が強い。
山中不動 本堂 |
社務所(閉鎖)に掲げられた文章 |
堂守の方も、今は亡くなられたとGoogleのクチコミに書かれており、真偽のほどはわからないが、今後の篤信家の方々の信仰で支えられていく霊場となるのだろう。
本堂の裏は巨岩に接しており、堂の屋根は年月の経過で傷んでいるが巨岩に取り込まれるかのようでもある。そこから稲荷社にかけて一大岩塊が横たわっており、南面して岩陰状の空間ができており、そこを岩屋不動としてまつっている。
本堂裏に接する巨岩 |
岩屋不動 |
滝上の岩崖 |
嘉祥年間(848~851年)にここで不動明王が刻されたというが、寺院として整備されたのは大正~昭和の頃ともいい(境内の稲荷社の社殿は昭和57年奉納と書かれていた)、隣に接して御嶽大社の社も建立されている。
以上の要素は迫間不動・日之出不動と同じくするものであり、当山塊における不動信仰は近世の御嶽信仰の影響下で、近世ないしは神仏分離が落ち着いた大正時代の頃に盛んになった聖地と考えられる。
もちろん、御嶽信仰以前の当地の山岳信仰・岩石信仰の可能性を否定するものではない。ただ、それを実証するのに有効な資料をまだ見つけられていない。
各務原~関で色濃く密集した不動霊場をフィールドに取り上げた歴史的研究があってもよさそうなものだが。
大岩不動(関市迫間)
こちらは美濃三不動ではないが、三不動と同じ山塊に属し、同一の宗教圏の中で形成された霊場と思われるため併せて紹介しておく。
一帯は、迫間不動にかけて「ふどうの森(不動の森)」として自然公園になっており、駐車場のアクセスなども一定整備されている。
本堂に向かって左横に「大岩不動 不動明王御神体」の案内があり、堂の欄干の下をくぐるように、岩崖の半ばに築かれた不動明王の石像を拝することができる。
大岩不動 本堂 |
本堂向かって左脇から御神体を拝観する。 |
岩崖内に安置された大岩不動明王 |
不動明王の祠は、ちょうど岩崖が凹んだ谷部に安置されている。
本堂の背後には、昭和10年に別の場所から移された白水竜王が岩崖上にまつられており、やはり大正~昭和初期の信仰の息吹を感じずにはいられない。
白水竜王 |
咳止め地蔵 |
参考文献
- 迫間不動尊の由緒書
- 日之出不動尊の由緒書
- 各寺の現地看板
- 毎日新聞2016年5月24日付記事「受験生に人気の『落ちない岩』」(日之出不動尊で授与)
- 2017年12月9日発行中日各務原市民ニュース「落ちない岩が受験生に人気!!」(日之出不動尊で授与)
- 「美濃三不動(迫間不動尊(関市)、日乃出不動(各務原市)、山中不動院(同))の由緒、縁起についての資料はないか。 」(国立国会図書館レファレンス協同データベース)https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000022750(2020年1月27日アクセス)
山中不動さんですが、年初は堂守の方がいらっしゃるとのことで行ってきました。3不動の中でもこの社だけ法人化されておらず、本堂は維持困難として解体の恐れがあり、一時立ち入り禁止となっていました。しかしながら、資金等のめどが立ち、傾斜崩壊しかかった本殿を修復できたそうです(現時点2021/1/2でまだ一部工事中)。修復工事の際、本殿のさらに奥に閉鎖された禁域がありその周辺の整備されたそうです。その禁域には、ご本尊である不動明王の像と菩薩様を収めた厨子が安置されている岩屋となっており、今回はその非常に貴重な禁域も拝させていただきました。本殿上方裏手の大岩にも岩屋不動も拝することができますが、実はその岩屋不動のその大岩の中にご本尊があるそうです。本殿のすぐ裏に入り口が小さく見えており、その奥に安置されているそうです(入り口は閉鎖されているうえに、アプローチ不可能です)。
返信削除貴重な情報のご提供を誠にありがとうございます。建物の護持が図られているとのこと、とても嬉しく思います。
削除本殿裏の大岩の中に禁域の岩屋があり、その岩屋内にご本尊を安置した厨子があるのですね。今後も永くまつられ続けることを願いたいと思います。