岐阜県岐阜市岩田西
開化天皇の第四皇子・日子坐命とその子の八瓜命が当地を拓いたといい、土地の祖神としてまつったのが延喜式内社・伊波乃西神社である。
伊波乃西神社 |
伊波乃西神社は、清水山と呼ばれる標高163mの端正な独立峰の南麓に鎮まる。
しかし、元々の鎮座地はここではなく、当社から西の清水山中腹が旧社地と伝えられ、そこには祭神・日子坐命の墓といわれるものが存在する。
清水山(西方、加野の鏡岩付近から長良川越しに撮影) |
神社の左脇から日子坐命墓に至る石段が整備されており、5分も登れば宮内庁おなじみの鳥居と玉垣が見えてくる。
この日子坐命墓が特徴的で、山の斜面から突き出た岩塊を墓所に指定している。
マウンドも石塔も見当たらない。
これを「古墳の盛り土が流出し石室石材が露出した姿」と見るか「岩塊が自然露出したもの、あるいは自然石をここにおいて墓としたもの」と見るかで意味合いが変わってきそう。
岩塊は、上部の岩石と下部の岩石の2個から主に構成される。上部は上に尖った岩石で中心に亀裂が走っている。下部は横に広がった平石状の岩石である。
上部の岩石を天井石の一部と見て、下部の岩石が玄室あるいは羨道の石材と解し、他の石材は地中に埋没あるいは流出・消失したと見れば古墳跡と解釈できるだろうか。
ただ、現状として日子坐命墓は、埋蔵文化財としての古墳認定は受けていないようである。これは宮内庁の管理下により調査がしにくいことも手伝っているかもしれないが、清水山の中にもっと古墳が分布していても良いような気もする。清水山の麓に岩田古墳群はあるが、山中、日子坐命墓の近くに古墳の存在は報告されていない。
岩塊の様子も、かなり昔から露出していたのだろう。石室石材としてはかなり摩耗が激しい。ただの自然石の露出にも見える。
先述したように伊波乃西神社は、明治時代に宮内省が墓指定するまでは、この岩塊の地に神社があったことになる。
伊波が岩に通じるとしたら(この岩塊の通称として岩西様と呼ぶともいう)、社名は平安期の『延喜式』に記されているので、当時にはすでに古墳の風土が失われて岩塊をまつっていた可能性がある。
さらに、考古学者の大場磐雄氏は当地を訪れ、以下の記述を残している。
伊波乃西神社へ参拝、付近に日子坐王命の御墓あり、今宮内省より指定せらる、神社の横を更に丘陵をのぼりゆくにその中腹に一巨石の盤居あるあり、前に享保十一年銘の石燈籠立てり、これは恐らく伊波乃西神社の磐座とすべきものの後世同社の祭神の墓にせしものなるべし。
森貞次郎(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1977年
古墳ではなく、自然石を磐座そして墓と信仰したものという一考古学者の所見として参考にしたい。
神の墓所として岩石をまつった事例としては、花の窟神社(三重県熊野市)・天石門別八倉比売神宮(徳島県徳島市)・白鬚神社(滋賀県高島市)・船越鉈切神社(千葉県館山市)などにも見られ、同種の信仰として何らおかしくはない。
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