古墳時代の御堂ヶ池谷間群集墳は、この池の周りをある種囲むように築かれた。現在でこそ、池も古墳も道路・都市開発のために埋め立てられてしまったが、御堂ヶ池は往時は水の澄んだ大池だったという。
銅鐸は丘陵中腹の「巨巌」(田辺昭三・佐原真氏「京都市梅が畑出土の銅鐸」1964年)の手前の地表下から見つかったと報告されている。そして、仏教系遺物は山頂に露出した岩塊を中心に、その手前に人為的に石を敷き、同心円状に遺物が散布したと報告されている。
このように、弥生時代と奈良・平安時代という両期間において、岩石が祭祀の目印的存在として用いられていることは、当時の岩石信仰を考えるにおいて示唆的な資料と言える。
高橋潔「発掘ニュース31 山上の祭祀遺跡」(1998年)には、当遺跡の発掘時の遺構写真などが掲載されており、山頂岩塊の様子などが視覚的にわかるので下にpdfリンクを紹介しておく。
https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/115.pdf
梅ヶ畑遺跡の現状(現地報告)
梅ヶ畑遺跡はいずれも都市開発の途上で見つかったものであり、それがために、調査された後これらの遺跡は破壊された。
しかしそれでも、遺跡の周辺の丘陵はまだ一部生きており、山肌には露岩が残存している部分が見られるかもしれない。ここでは2004年に現地を訪れた時の状況を報告しておこう。
遺跡があった丘陵地は、山頂尾根のわずかな部分を残して、その南は宅地になっていた。西から北にかけてはゴルフ場が山を削っており、北から東にかけての山腹には、京都市の貯水池施設が広がっていた。
山頂尾根へ取りつくには、2つのルートが考えられる。
1つは、南西に広がる御堂ヶ池西山上群集墳のあたりから尾根経由で入っていく方法。しかし、入口も登山道もあったものではなく、なおかつ森がかなり鬱蒼としている。
そこで私は2つ目のルートとして、丘陵南の車道から直接、山頂尾根にアクセスした。
南の車道沿いには住宅地が広がっているが、その一区画にマンションとその駐車場が隣接する。駐車場の背後に丘陵斜面が直接つながっているので、そこから駆け上がればすぐ山頂尾根へ行ける。ここは樹木もそんなに茂っていない。
しかしもちろん駐車場へ勝手に入るわけにはいかないので、当時の管理人さんに一言断って通過の許可を得ている。現在も状況が同じかはわからず、ご注意いただきたい。
丘陵を直登すると、すぐ山腹に岩肌が帯状に広がっているのを確認できた。
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丘陵南腹の岩盤 |
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近くにある別の岩盤 |
この写真の岩盤は、報告書に記された銅鐸出土地点と大体同じ標高に位置している。
岩盤が帯状に伸びていたことから考えて、もしかしたらこの岩盤の東の延長線上に銅鐸出土の巨岩があったのかもしれない。
ただ、今回確認した岩盤は、麓の都市開発の際に土取りをしたところだといわれているので、原地形はとどめていない可能性が高い。したがって、今回確認した岩盤が、弥生時代の頃から露出していたかというと疑問で、土取りの際に露出した可能性も考えていいだろう。
山頂尾根にも足を踏み入れた。
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山頂尾根。写真右奥に開けているのはゴルフ場。 |
山頂尾根は開発の手が入っていないので、山頂岩塊の調査地域を除いては、原地形をとどめていると思われる。その点を踏まえて注目したいのは、山頂尾根にはほとんど岩盤が出ていなかったという点である。
これが示すのは、自然石を伴わない地点は祭祀空間に選ばれず、とりわけ岩石が隆起していた場所において、銅鐸は埋められ、仏教系祭祀がおこなわれたという祭祀場選定の条件の可能性である。
肝心の銅鐸出土地と山頂岩塊の遺跡地点であるが、手前にバリケードがされていて立ち入ることはできなかった。
しかし少なくとも、この丘陵が岩盤の露出しやすい地質であることがわかったのは一つの収穫としたい。
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バリケードによって遺跡地点に立ち入ることはできなさそう。 |
次に、梅ヶ畑遺跡に言及した各種文献を参考にして、本遺跡の時期ごとの性格と岩石信仰の関係について考えてみたい。
弥生時代~銅鐸出土地と巨岩巨石の関係について~
丘陵斜面の「巨巌」の地表下2mの地点において、入れ子状態になって2組状態で発見されたということが記録されている。
入れ子状態というのは、大きめの銅鐸の中に小さめの銅鐸を収納するという形で埋納していたということである。
確認されている銅鐸は、高さ20~30cm程の外縁付鈕式の銅鐸4点で、弥生時代中期初頭の製品と考えられている。いわゆる大型銅鐸ではなく、まだ鐘としての機能性が強かった段階での銅鐸と言える。
銅鐸を埋納することの意味についてはさまざまな仮説が出されており、ここでその結論を出すことは到底できない。
岩石信仰・岩石祭祀の観点から一点だけ言及するなら、巨石・巨岩の近くから銅鐸が出土する類例が複数見られることに、意味を見出すかどうかということである。
たとえば島根県教育委員会ほか編『青銅器埋納地調査報告書』(2002年)では広島県木宗山遺跡、島根県志谷奥遺跡、兵庫県和気遺跡などを巨石・巨岩近くの銅鐸埋納地の例に挙げている。
私の知る限りでは、滋賀県大岩山においても、山頂の大小の露岩群の裾から見つかっているほか、和歌山県神倉山遺跡・香川県鴨神社旧社地(明神原)遺跡なども、岩石の下から銅鐸が出土した場所として把握している。そしてもちろん梅ヶ畑も同種の類例となる。
銅鐸だけではなく、広島県大峯山遺跡は巨岩の下から銅鐸ではなく、銅剣2点と銅矛1点を出土している。島根県命主神社境内遺跡も巨石下から銅戈1点、兵庫県保久良神社境内遺跡の場合は、大小の石が集まる部分の裾から銅戈1点が見つかった。広島県質石遺跡も、岩石下から銅剣出土の事例だという。
このように、岩石に寄り添って見つかるのは銅鐸だけではなく、剣や矛など他の青銅祭器でも見られる。
一方で、銅鐸出土地における巨岩・巨石の例は特段多いというわけではなく、必須条件ではないこと、いくつかの例には中世以降の「再埋納」「加工」の跡が見られること(広島県木宗山遺跡・兵庫県和気遺跡・和歌山県神倉山遺跡)などから、銅鐸出土=弥生時代の遺跡と安直に判断できないという批判がある。
大野勝美氏『銅鐸の谷 ある銅鐸ファンのひとりごと』(1994年)は「巨石の下の銅鐸」の一節の中で上記事例の一部について批判検討し、高知県大谷権現銅鐸出土地の例などから、銅鐸が中近世に発見されて、寺社の所有物として配置を動かされたうえでまつられたものが、弥生時代当時のままの出土状況として勘違いされている恐れがあることを指摘しており、大いに気を付けないといけない視点である。
石橋茂登氏「銅鐸と寺院—出土後の扱いに関して―」(2010年)においても、奈良時代・平安時代の古文献において複数の銅鐸記事があり、それらが寺宝として新たな位置づけを担ったことが論じられている。
梅ヶ畑の場合は、入れ子状態で出土したというその埋納形態がポイントだろうか。
入れ子状態の埋納は、島根県加茂岩倉遺跡のように再埋納ではない銅鐸埋納地でも見られる弥生時代当時の埋納形態ではある。
一方で、後述するように当地は奈良・平安時代の仏教系祭祀の場でもあり、その際に巨岩下の銅鐸埋納に影響をおよぼした可能性も否定できない。
最後に、その評価はさておくとして、梅ヶ畑銅鐸出土地は山頂の岩塊ではなく、丘陵中腹の巨岩において埋納されたという立地も一言特記しておきたい。
いずれにしても、他遺跡における巨岩・巨石と青銅器埋納の関係をどう解釈するかによって、弥生時代の本遺跡の性格についても評価が変わってくるだろう。
古墳時代における梅ヶ畑の地
古墳時代の梅ヶ畑は、御堂ヶ池群集墳の存在を主とし、岩石信仰との関連はこれといって見られない。
弥生時代の銅鐸埋納を是とするか非とするかによっても見方が変わってくる。
否であればとりわけ言及することはないが、是であればすでに当地は巨岩への特別視があったという前提で古墳時代を見ないといけない。
梅ヶ畑の遺跡群には古墳が築かれず、遺跡の南の丘陵帯に古墳群が形成されたという事実がある。
鈴木敏弘氏の『和考研究』(1998年)では独自の持論が展開され、弥生時代後期に出現する墳丘墓には、地山から露出した岩盤・自然石群のすぐ近くに墳丘墓が築かれたり(岡山県女夫岩墳丘墓遺跡など)、墳丘墓自体に人為的に立石を並べる事例(岡山県楯築墳丘墓遺跡)があることから、古墳祭祀の成立には岩石祭祀(鈴木氏は磐座祭祀に限定)と密接な関連および影響があると主張している。
岐阜県瑞龍寺遺跡も、山頂の自然岩盤近くから弥生時代の埋葬主体が検出されており、こちらもその類例に属するのかもしれない。
私は鈴木氏説と意見の違うところもあるが、祖霊祭祀と岩石祭祀の併存は矛盾せず、むしろ相互に影響しあう関係であった可能性を示唆している。
奈良・平安時代の山岳祭祀遺跡としての梅ヶ畑
この時代の祭祀の様相に関しては、久世康博氏「山岳祭祀の基礎的研究-京都市右京区梅ヶ畑地区の遺跡群をめぐって-」(1998年)が参考になる。
この時代になって、丘陵山頂の岩塊の周辺から祭祀遺構・遺物が見つかるようになる。時期ごとにまとめると以下のとおりだ。
- 奈良時代中期(8世紀中)の土器群・仏画線刻石は、山頂から西斜面にかけて散布している。
- 平安時代初期(8世紀末~9世紀前)の土器群は、山頂から東斜面に散布している。最も出土量が多い。
- 平安時代前期(9世紀後)の土器群は、岩塊南の整地層・敷石面から混在して分布する。
整地層の上面には焼土痕が見られ、焼土痕を南北に囲むように、直線状の柱穴列が2列検出された。
時期ごとで遺物の分布範囲が異なるという結果について、久世氏は次のように推測している。
まず、奈良時代の祭祀の性格を想定することには明言を避けているが、仏画線刻石の出土から、仏教の影響下に入ったことは明らかである。
また、山頂の岩塊という目立つモニュメントでありながらも、この時期以前の考古学的痕跡が一切見られない点を見ると、この時期までは丘陵頂部における禁足地観念が強かったのに対し、この時期以降は、山岳仏教における「山に登ることで霊力を会得する」という修行観が勝ったのだと考えられている。
そして、平安時代初期の出土遺物が最も多いことと、比較的短期間に多量の土器祭祀が行なわれたこと、時期的に平安遷都と合致することから、平安時代初期の祭祀跡は、都城守護のための祭祀行為だったのではないかと久世氏は推測する。
ただ個人的な疑問は、この時期の土器群の分布は東斜面にあるという点で、これを久世氏は東方向に祭祀が行なわれていた証だとするが、東方向に祭祀をするなら、司祭者は岩塊の手前で祭祀をする訳であって、土器を投棄する方向は岩塊を飛び越した東斜面にいくとは考えにくく、逆に司祭者よりも後ろの西斜面に投棄しそうでもある。
つまり、投棄の祭祀方向は平安京の向きと真逆の西方向の方が合致するのではないか。
といいつつ、私は土器の投棄方向と祭祀時の祭祀方向は直接関連しないと考える立場なので、その可否は本遺跡の性格自体に大きな影響をあたえない。
平安京建都に関わる祭祀だった可能性は、他に積極的な解釈ができない限りは肯定できるものである。
平安時代前期の祭祀については、久世氏は敷石遺構周辺に見られる柱穴痕や焼土痕から、修験道の護摩壇の祭祀を想定している。
護摩は、本尊の前に壇を設け、そこで火を焚きながら煩悩や邪悪なものを滅却するものだから、それなら焼土痕の説明もつく。同時期に奈良県大峰山寺境内から護摩壇遺構が検出され、それとある程度状況が類似しているということから、この解釈に異論はない。
最後に、久世氏の論文では一貫して山頂の岩塊を磐座とみなしているが、論文中に石神など他の岩石信仰への言及・検討は一切出てこないことから、おそらく久世氏は石神と磐座の区別をつけていないもの(あるいは石神信仰を看過しているもの)と思われる。
まとめ
類推や未確定内容が多いものの、簡単に整理しておく。
- 弥生時代(中期初):丘陵中腹の巨岩において銅鐸埋納を行なった可能性。後世再埋納の可能性も他事例からありうる。
- 古墳時代(後期~終末期):本遺跡の丘陵では古墳を築かず、南方に御堂ヶ池群集墳が盛行する。
- 奈良時代中期:山岳仏教の影響で、山頂岩塊の前で直接祭祀を開始。
- 平安時代初期:平安京遷都直後の都城守護祭祀か。
- 平安時代前期:より修験道化し、岩塊前で護摩壇を設置した祭祀を行なった。
- 10世紀以後:祭祀の痕跡が絶え、おそらく当地の祭祀空間としての性格は忘却されていったものと思われる。
弥生時代~古墳時代については、現在確認している考古資料のさらなる批判的検討の余地があるものの、奈良時代以降については、仏教における自然石祭祀の一事例として価値ある情報をふんだんに有している。
また、山頂と山腹に分かれながら、別々の岩石で異なる祭祀の痕跡が発見されているというのも貴重だ。
かえすがえすも、現在はその祭祀空間を形成していた岩石・池の景観を現地で観察することが難しいのが心惜しいことである。
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北から望む梅ヶ畑遺跡の丘陵(写真中央) |
参考文献
- 石橋茂登「銅鐸と寺院—出土後の扱いに関して―」『千葉大学人文社会科学研究』21 2010年
- 大野勝美『銅鐸の谷 ある銅鐸ファンのひとりごと』丸善名古屋出版サービスセンター1994年
- 久世康博「山岳祭祀の基礎的研究-京都市右京区梅ヶ畑地区の遺跡群をめぐって-」『佛教史研究』No.35 1998年
- 島根県教育委員会・島根県埋蔵文化財調査センター・島根県古代文化センター編『青銅器埋納地調査報告書』(島根県古代文化センター調査研究報告書12)島根県教育委員会 2002年
- 鈴木敏弘『-特集-磐座祭祀から前方後円墳の誕生』(和考研究6)和考研究会 1998年
- 高橋潔「梅ヶ畑祭祀遺跡」『京都市内遺跡立会調査概報』京都市文化市民局 1998年
- 高橋潔「梅ヶ畑祭祀遺跡」『平成9年度京都市埋蔵文化財調査概要』京都市埋蔵文化財研究所 1999年
- 田辺昭三・佐原真「京都市梅が畑出土の銅鐸」『日本考古学会昭和39年度大会研究発表要旨』1964年
- 高橋潔「発掘ニュース31 山上の祭祀遺跡」『リーフレット京都』No.115 (財)京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館 1998年