京都府京都市中京区弁慶石町
京都市内の繁華街に今もあり、弁慶石町の地名由来となる石。
新京極通(南北)と寺町通(南北)の間の三条通(東西)の道沿い、ビルの敷地の裾に隠れるようにたたずむ。
弁慶石の沿革を、伝承に沿ってまとめてみよう。
- 武蔵坊弁慶が生前に大切にしていた石。
- 弁慶の死後、石はそのまま奥州高館にあった。
- やがて、この石が「三条京極に行きたい(三条京極は弁慶が幼少に育った所という)」と発声鳴動し、付近に熱病が蔓延し人々は畏怖した。
- そこで享徳3年(1454年)、この石を三条京極に安置した。
ポイントは、石自体が明確な意思を持って霊力を発動していること。
それに対して、当時の人々が畏れを抱いており、「安置」という祭祀行為により鎮撫している。
弁慶という人物は後世の語りによって、伝説的な聖者と化している。
その聖者の元来は愛玩石に過ぎなかったものが、死後、聖者の痕跡となって聖性を帯びた。
聖性を帯びた結果、石自体が意思をもつ主体的存在に成長した、あるいは、元々意志を持つ石だが弁慶の個人的な愛玩により神聖視の域に至らなかった石が、死後、周囲の者からは神聖視されたと解するべきか。
もちろん、弁慶伝説を残す旧跡は全国各地無数のようにあることを考えると、弁慶石の伝説も後世の付会と考えるのが自然であるが、伝承上における人々の岩石に対して込めた歴史物語は、伝説創造時の人々の心理の投影であり、その意味で歴史資料たりうる。
現在はどうかというと、弁慶石の周りを河原石で敷き詰め大切にされていることは間違いないが、それは祈願の対象としての扱い方ではなく「旧跡名所」的な保存のされ方である。
実際、賽銭箱・線香・鎮花などの祭祀行為を示すものはなく、唯一、石碑と銘板を建ててこの石が町名の由来である啓発行為が見られるのみである。
どうやら弁慶石は当地の安置によりおとなしく鎮まったようであり、祭祀の必要はなくなり、 現在は町の歴史を偲ぶ記念物になったのだと考えられる。
参考文献
- 竹村敏則 1984 『洛中』(昭和京都名所図会5) 駸々堂出版
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