2020年5月17日日曜日

船岡山の露岩は磐座か?(京都府京都市)


京都府京都市北区紫野北舟岡町

船岡山が平安京の起点という説


京都盆地の北部中央に構える標高112mの船岡山は名前のとおり船形に細長く稜線を描く山で、平安京建設の要となった場所として知られている。

桓武天皇が平安京を築く際に大陸の都城制や風水思想を盛り込み、北の玄武に相応する地として船岡山を当て、この山を基準に南北の朱雀大路が引かれ、太極殿の背後に位置するように都づくりが進められたとされている。

ここまでは大方に支持されている通説的見解と言って良いが、船岡山についてさらに踏み込んだ一説があり、船岡山の頂上に露出する自然岩の露頭こそが平安京建設の起点で、いわば玄武の宿る「磐座」として北方守護していたのではないかという考えがある。

山頂に広がる露岩は下写真のとおりである。




三角形状に隆起する部分もあるが、全体としては垂直的な高さよりも、平面的な広がりを持つ一大岩盤である。

船岡山という聖なる山の頂部に位置することから、たしかに「磐座」とみなしたくなる向きもわかるが、これは学説というより、ふわっとした言説の域を脱していない。
おそらく、この言説の元ネタとなった話があるのだろうが、不肖ながらこの主張がいつ誰によってなされたものかは辿れていない。

船岡山の露岩について特集した京都新聞の記事(「岩石と語らう65 船岡山の露岩」1999.2.2付)において、白幡洋三郎氏(国際日本文化研究センター教授)、井本伸廣氏(京都教育大学教授)、松原宏氏(建勲神社宮司。以上3名すべて記事当時の役職)に取材をしながらも、船岡山の露岩に「信仰があったことを具体的に示す資料は残されていない」と結論付けている。

したがって、船岡山の露岩を「磐座」と名付けてしまうことは歴史学的な見地からは早計であると述べておきたい。

桓武天皇と磐座の関係


ところで、平安京建設を命じた桓武天皇といえば、通称「京都の四岩倉」と呼ばれる聖所を設けたという話でも知られる存在だ。
平安京を神仏に鎮護してもらうため、平安京の東西南北4ヶ所に「岩倉」を定め、一切経という災厄を防ぐ経典を埋納したという話である。その比定地に以下の4ヶ所が挙げられている。

  1. 北岩倉 石座神社
  2. 西岩倉 金蔵寺
  3. 東岩倉 観勝寺
  4. 南岩倉 明王院不動寺

四岩倉は、観勝寺のように寺院自体がすでに存在していない所もあり、北岩倉の石座神社(旧社地・山住神社)以外に「磐座」としての岩石は存在していない。
必ずしも、岩石の祭祀場を意味する「いわくら」ではないらしい。

「南岩倉」の扁額を掲げる明王院不動寺。岩石としての岩倉の存在は聞かない。

北の岩倉は一般的に石座神社に位置付けられているため、同じく都の北を守護する船岡山の露岩を「磐座」とするものとは、類似しつつも、別物としてとらえたほうが良いのだろう。

それよりも個人的に懸念しているのは、船岡山の磐座説につづき、この桓武天皇の四岩倉もいつどのような記録に基づいた存在なのかが、いまひとつはっきり追い切れていない点である。

私が追えた限りでは、四つの岩倉を平安京鎮護のために置いたという記録は、天和2年(1682年)~貞享3年(1686年)に編まれた『雍州府志』までは遡れるようであるが、江戸時代の話である。けっして、平安当時の同時代記録ではないことに注意されたい。江戸時代に生まれた伝説の可能性もあるからだ。

一応、西岩倉については平安時代末成立とされる『今昔物語集』に「西石蔵」の名が記されていることも併せて触れておきたい。
では平安時代末までは遡れるのではないかというと、正確にはこれは西岩倉の名前自体のみが伝わるまでであり、桓武天皇が四岩倉を鎮護のため置いたと明記されているわけではないことも注意したい。

これ以上の調査はまだ出ていないが、このように船岡山磐座説と四岩倉説は、おそらく学術的な文献調査がなされたことがないテーマであり、初出文献が明らかにされていないという点で、取り扱いに注意しないといけない。

船岡山の考古学的・地質学的情報


船岡山の山頂部からは土師器の欠片が見つかっていると聞いたことがある。
これも土師器の製作時期が調査されているなど報告書情報の有無をつきとめられていないが、そもそも平安京に接する里山である。遺物散布地として存在するのは当然だろう。土器の用途が祭祀一択というわけでもない。

先出の京都新聞記事でインタビューを受けた井本伸廣氏は地質学の研究者であり、氏によれば船岡山の露岩は、水晶質の殻を持ったプランクトンの塊からできたチャートだという。

市内の愛宕山、双ヶ岡、稲荷山にも同質のチャート露岩が見られるというが、京都盆地の特に北側は地中の岩盤(基盤岩)が地表に現れやすい地域だという。

京都盆地の基盤岩: 露頭する岩石、磐座信仰 - 京都高低差崖会

船岡山の露岩は、市内各地の岩石信仰と地質学的には同根かつ共通した地理的環境下で分布・発生したものと理解できる。

船岡山の歴史 その後


平安建都時は宗教的な位置づけがあっただろう船岡山も、時代を追うごとに変容していく。
船岡山西麓の蓮台野の地は中世以降、葬送地の一つとして著名となった。山を他界とする思想と浄土信仰が相まったものと考えられるが、保元の乱の折には船岡山の地が源為義・頼仲らの処刑地にもなり、処刑場としての性格も帯びるようになった。
その後、応仁の乱では西軍の砦(西陣)が築かれて戦の舞台となる。怨霊の籠もる山として忌避され、また、それを鎮めるための御霊信仰の祭り場が周辺に築かれた。
明治時代に入ると、船岡山には新しく織田信長・信忠親子を祭神とする建勲神社が勧請された。

一つの山を巡り様々な立場からの歴史が上に載っていくわけであるが、岩石信仰という観点でも新たな歴史が生まれることになる。

建勲神社の主典として、一時期、新宗教の大本教の教祖となる出口王仁三郎が務めていた。その縁で、若い頃に船岡山で修行していたという修養団捧誠会という団体の総裁が、昭和45年に船岡山の東山腹、建勲神社旧本殿の地に「大平和敬神 神石」という石碑を建てている。
世界平和の神の「神石」とされ、神名が石に刻まれている。外見的には記念碑のようなもので、刻字のなされた石碑が屹立しているという景観だが、これは現代(といってももう約50年も前の立派な歴史である)における岩石信仰の事例に数えていいだろう。
この旧本殿の地には、地形を削平したことによると思われる岩崖状の露出も確認できる。

大平和敬神 神石

旧本殿地に見られる露岩

また、建勲神社の社務所前には、建物と並行して一直線に伸びた岩が存在していて、このように山中には山頂以外にも露岩が複数箇所に散在している。

参考文献




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