滋賀県栗東市 六地蔵-伊勢落
岩上神社と、山頂の岩盤の祭祀
日向山(にっこうやま)は、別名を多喜山(たきやま)とも呼び、栗東市の北東部、地理的には野洲川の南岸にそびえる。
標高222.9mの里山で、麓からはお椀を伏せたような端正な山容を見せる。また、野洲川を挟んだ北には、近江富士の美称で知られる三上山を仰ぐことができる。
この日向山北麓には現在、岩上(いわがみ)神社が鎮座している。
舟杉眞理子氏の調査(『栗東の歴史』1988年所収)によると、岩上神社はもともと日向山の山頂に鎮座していたといい、15世紀末に社が焼亡したため永正元年(1504年)に山麓に遷座したと伝えが残る。
岩上神社旧社地となる日向山頂上には岩盤が露出している。
これは「石神」とも「岩神」とも「鎮座石」とも呼ばれていたことが、古記録に記載のあることから判明している。岩上神社の社名はここに由縁するのだろう。
一つの岩石に、三種類の名称をもつというのも特徴的だが、「石神」と「岩神」は同一の意味を持つ語として括れ、それは社名の「岩上」とも同音だ。
一方で「鎮座石」という名称には、磐座的な意味も込められていると言える。岩神は、岩上に鎮座するという意味合いにも転化しやすい。
よって、本例は岩盤を神そのもの(石神)とみなす人々もいれば、神が鎮座する時の一時的な「座所」(磐座)とみなす人々もいたのだろう。それは、時間軸(年代ごとでの岩石の位置づけ)と空間軸(同時代での信仰者の認識の違い)によるグラデーションと捉えて良い。
このあたり、石神と磐座が後世的にない交ぜになりやすいことを示す好例と言えるだろう。
また、舟杉氏は「日向」「多喜=焚き=火焚き」の山名から、太陽に関する信仰・祭祀の地だったのではないかと推測しているが確証に欠ける。
探訪報告-岩盤の現状に関して-
現地の状況について報告する。
前掲写真のとおり、岩肌はかなりボロボロに風化しており、平面的な広がりはあるものの視覚的に目立つ存在とは言い難い。
理由の一つとして、日向山には多喜山城という山城が築かれていた事実が挙げられるだろうか。
多喜山城は文献記録がない山城だが、山中には土塁や曲輪の跡など山城の痕跡が残っており、織田家による築城とも推測されている。
織田家の築城はおよそ1570年代と想定されるので、伝承上ではあるが、すでに日向山岩盤をまつる岩上神社が1504年に山麓へ移った後となる。
神社の手を離れた岩盤であるから、なおのこと、築城時に山頂岩盤に改変の手が加わった可能性がある。
このような改変・風化浸食を考慮すると、元来の山頂岩盤はもっと視覚的に大規模な存在だったのかもしれない。
ちなみに、山頂岩盤の上には現在小祠が建てられている。こちらは岩上神社ではなく、江戸時代になって地域の人々が雨乞いのために勧請した竜神社といわれている。
岩上神社とは別系統の信仰によるものの、あえて岩盤の上に祠を建立したあたり、岩盤に対する特別視あるいは神聖視が再来または継続していた可能性も言及しておきたい。
参考文献
- 舟杉眞理子「祭祀と信仰」 栗東町編さん委員会編『古代・中世編』(栗東の歴史 第1巻) 栗東町役場 1988年
- 「多喜山城」(栗東市発行リーフレット)
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