広島県廿日市市宮島町
安芸の宮島の名でも知られる厳島。
厳島神社の背後にそびえる弥山(標高530m)は厳島の最高所であり、山頂に無数の巨岩が林立していることは、岩石信仰の事例としてよく知られている。
しかし、それら厳島の岩石信仰については、文献記録や民俗学的な伝承の色濃く残る事例とまったくと言って良いほどの記録を残さない事例に分かれるようで、それら玉石混淆の事例群が歴史学的な見地から整理整頓される機会は少なかったのではないかと思われる。
今回は、島内に散在するあらゆる規模の岩石を、天保13年(1842年)に国学者の岡田清が発表した『芸州厳島図会』の記述からまとめてみる。
現在知られている情報との違い、そして、現在注目されていない岩石の存在に気づくことができるだろう。
本文については、福田直記編『藝州嚴島圖會』(宮島町 1973年復刻版)を参照した。
また、「新日本古典籍総合データベース」においても、『嚴島圖會』(国文学研究資料館 鵜飼文庫所蔵版)の全頁画像がオンライン公開されている。
以下、紹介順は『芸州厳島図会』の記述順に準ずる。
(厳島神社を起点に、島の周りを時計回りに紹介して、その後、弥山を紹介する形式となっている)
厳島神社と弥山 |
卒塔婆石
「大宮鐘楼の傍にあり。平判官康頼鬼界島よりながせし卒塔婆流れ寄りしところなり。今石の燈籠一区を建てその標とせり。」
厳島神社境内にあり、現地には説明板も立つため、比較的知られた史跡である。
卒塔婆石(写真中央やや左下の石) |
道祖神社の陰陽石
道祖神社については「幸町にあり。一に牛王ともいふ。祭神猿田彦大神」
陰陽石については「同社の後にあり、俗に道祖神の神体なりといふ。」
現在、門前町内に幸神社として鎮座するのがそれである。
陰石と陽石に分かれ、それぞれ現在も拝することができる。web上に写真が掲載されている。
幸神社
揺岩(ゆるぎいわ)
「長浜みち仁王門の辺にあり。大さ方二間ばかり。」
長浜みちの仁王門とは、現在、宮島港南の要害山に仁王門跡の石碑が残る辺りと推測される。
仁王門跡
そこに二間ということで、約3.5mの揺岩があったということになるが、本書に収録されている「小浦」(http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020166/viewer/128)の絵図には仁王門が描かれているものの揺岩の図示はない。
また、全図(http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020166/viewer/27)には島北の内陸部に「ユルギ岩」らしき注記があるが、「仁王門の辺」というにはあまりに内陸部すぎて、同一物を指すかわからない。
蓬莱巌
「聖崎をはなれて海水のうへにたてり。巌上に古松数株ありて海風にもまれ、容姿おのずから造りなせるがごとし。世に画がくなる蓬莱山といふものに似たり。故に名とす。」
聖崎は厳島北端の岬。
広島県立文書館のホームページに、蓬莱岩の絵はがき写真が公開されている。
https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/monjokan/ehagaki-bunrui-umi04.html
包岩社・つつみ岩
「磯にある石ことごとくつつみの形になれりければ、つつみの浦と名づくるよし。」
現・包ヶ浦(つつみがうら)を指す。
磯の石がつつみの形なのでその名があると記している。
包ヶ浦神社
ここには包ヶ浦神社があり、石上に社を築く。
『芸州厳島図会』の本文には岩について名称は記載されていないが、絵図には社を「包岩社」と記し、社下の岩に「つつみ岩」の名を記している。図絵の記述を借りれば、この「つつみ岩」の存在が包ヶ浦の由来となる。
千献岩(せんこんいわ)
「同浦(注:献浦のこと)にあり。平面の岩にして長さ五間。或云、千口の義にして、石面千口の魚を列ぶべし。蓋し漁人の言よりいでたるならん。」
献浦は、厳島東岸、包浦(つつみのうら)と鷹巣浦の間にあるらしい。
比目魚石(かれいいし)
「比目魚崎 鰈(かれひ)石あるを以ての名なり。比目魚石 形似たるを以て名づく。」
比目魚崎は、楷木(かしのき)浦・藤浦と青海苔浦の間にあるらしい。
菓子盆石
「形似たるを以て名づけたり。」
島南の山白浜にあるという。
革籠崎(こうごさき)
厳島最南端の岬を革籠崎、あるいは革篭崎と呼び、その音が「こうご」であるため、全国各地に分布する「こうご・こーご・かわご・かご石」地名の一例として注目したい。
現地には、段状に積み重なったような亀裂を見せる岩壁がある。
御床浦神社
「神殿石上に建てたり。祭神市杵島姫命 島巡第七の社。相伝へていはく、此浦は本社の神天降らせたまひし時の眞床即ちいはほとなりし所なりとぞ。」
島西部に位置する御床(みとこ)浦に鎮座する神社。
神の降臨する床が岩となった。磐座にも近い性質の岩だが、聖跡として語られる。
7e105 (厳島神社 末社)御床神社(御床浦神社)
烏帽子岩
「牛王社 同浦(注:御床浦)にあり、此社のほとりに烏帽子岩あり。」
おそらく御床浦神社周辺にある岩礁のうちのどれかではないか。
鰐口岩(わにぐちいわ)
「大江浦 入江あり。鰐口岩といふ、此浦にあり。形似たるをもて名とす。」
大川浦の北。共に島内陸部につながる川をもつ河口の浦。
貝殻塚の窟
「大江の浦の濱邊にあり。十三町ばかりの山間に二丈餘の窟あり。其下貝殻多し。弘治年中陶敗亡の時残卒この處に遁れ來り、磯辺の貝をひろひ数日しのび居しとぞ。」
大江浦の浜辺に貝殻塚というものがあり、文意がとりにくいが、それとは別に、十三町ほど行った山間に、貝殻がたくさん埋もれる窟があるらしい。
下記リンクの文末近くに、現地の窟と思しき写真が掲載されている。
「宮島弥山倶楽部 専用ページ」(2020年7月5日アクセス)
http://www.st-takao.com/misenclub/misennclub_0526.html
内侍岩(ないしいわ)
「同所にあり。傳へいふ、徳大寺左大将実定卿いまだ大納言たりし時、嚴島へ下向ありて島の内侍有子といへるを愛したまひしに、帰京の時、此處にきたり別を悲歎せしにより此名ありといふ。」
「同所」ということで、大江浦の鰐口岩の近くにあるものと推測される。
下写真の岩を指す。記述内に直接岩への言及はなく、さしずめ岩は歴史の未届け人である。
内侍岩 - みんなの写真コミュニティ「フォト蔵」
鬼岩・大黒岩・梶石
「この浦(注:蹈鞴潟-たたらがた)に 鬼岩、大黒岩、梶石(正しくはてへんに尾)という三つの名石あり。みな形の似たる故に名とす。」
現・多々良潟。名石という書き方から、鑑賞としての対象である。
牛石
「大元浦 本社の西南にして或は竹原浜ともいふ。この浦に牛石とて名石あり。形似たる故に名とす。この辺泉石幽邃の地なり。」
卒塔婆石の紹介から始まり、これで島をおおよそ時計回りに一周したことになる。
大元浦まで戻ってきてくると、門前町からも徒歩圏内である。
名石の表現と、泉石幽邃の地ということで鑑賞の対象としての岩石であることがわかる。
山姥の飯炊石
「橘山 大元の上の山をいふ。此山に山姥の飯炊石といふあり。名義詳かならず。」
大元神社背後の山が橘山か。『芸州厳島図会』刊行時点ですでに由来不明となっていた石である。
石風爐(いしふろ)
「石をたたみ室を作る。広さ六七尺、高さ一丈餘、藻をしき潮をそそき病ある者これに入りて坐するに、頓に宿疾愈じむ。功験世に名だかし。伝云、もとこの風呂は弘法大師弥山に於て習法のとき、求聞持修行僧徒嵐濕の気に悩めるを見て、是をつくり濕氣を去らしめし所なりとぞ。實に千載の石室にして凡作にあらず。」
場所は、木比屋谷の「あせ山」で、現在は宮島水族館の道を挟んだ向かい側あたりにあったといい、現存していない。
江戸時代にはここを訪れる人が絶えない名所だったが、壊されたらしい。
獅子岩
「紅葉谷 南町の奥にあり。ここに獅子岩とて名石あり。」
場所はずいぶん離れ、宮島ロープウェイの山上駅・獅子岩駅の場所となる。
影向石
「愛染堂の前にあり。本尊の明王この石に影向したまふといふ。」
門前町南、白糸川の西岸に大聖院がある。
その愛染堂(愛染院とも)の前にある石ということで特定はしやすそうだが、情報収集不足によりこれ以上の所在特定はできていない。
御幸石(みゆきいし)
「瀧(注:白糸瀧)の前の平らかなる岩なり。高倉帝御幸の時、この岩の上に御輿を居させたまへりとぞ。」
特定されており現存。下写真。
御幸石(ミユキイシ)...宮島・弥山の観光スポット
幕岩
「山の半腹にそびえて千仞の巌壁その形幕を張れるがごとし。」
弥山への登山路の一つ、大聖院コース途上で出会う。
下記リンクに幕岩の写真が掲載されているが、厳島の岩石の中でも最大級に属するものと言って良いだろう。
『幕岩を仰ぎ虹を見て遊女石畳に・弥山〜初冬厳島行(10)』
岩屋薬師
「窟の内に安置せる故にこの名あり。前なる流に板橋をかけたり。」
幕岩を過ぎ、中堂と呼ばれる登路の休み所の上にあるという。情報収集不足につき詳細位置特定できず。
灌頂石
「同十四丁目にあり。」
大聖院コースのルート上と思われるが、位置特定できず。
力石
「名義詳かならず。俚諺にいはく、前の國守福島左衛門大夫正則登山のとき、此處にいたりて怪異ありしかば下山せられき。よりてまた大夫戻の石ともいへりとぞ。是非いまだ詳かならず。」
灌頂石の近くで、大聖院コースを登り切ったところにある仁王門よりは下方に位置すると思われるが、位置特定できず。
船岩
「拾間四方の巌にして上に諸木を生ぜり。形の似たるをもて号けたり。岩下に石像の地蔵あり。」
ここからは弥山の頂上部の巨岩群が続く。
満干岩(みちひいわ)
「岩の半に腕を容るるばかりの小孔に潮水ありて、いかんる旱年にもかるることなし。かつ海潮の干満に従てこの水も増減す。まことにかかる高頂にありながら鹽氣のかよへること一奇といふべし。」
現・干満岩。弥山の七不思議の一つとして知られる。
岩の傍らには目洗薬師がまつられ、眼病を患う者は満干岩にたまる水で目を洗い祈ったという。
満干岩(写真奥) |
満干の塩水をたたえる穴(写真中央ではなくやや右上の岩肌の小穴) |
疥癬岩(ひぜんいわ)
「觸るることを忌む。是に觸るれば疥癬を生ずといふ。」
烏帽子岩
「地御前遥拝所 この所に烏帽子岩といふ名石あり、形似たるをもて號く。」
疥癬岩の近くにあると推測されるが、弥山頂上部における地御前遥拝所の所在地を特定できない。
頂上石
「高さ三丈、圍四丈、このところ弥山の絶頂なり。」
弥山頂上に広がる巨石群のことを、『芸州厳島図会』では「頂上石」、または「頂上カベシロ岩」(絵図での注記)と名付けている。
特段のいわれを伝えるわけではなく、頂上石というネーミングも後世的である。少なくとも文献記録上では、弥山頂上の巨石群を信仰史の上で紐解くのは難しい。
松井輝昭氏「弥山の描かれ方の変容と神仏分離」(『宮島学センター通信』第4号 2013年)
https://www.pu-hiroshima.ac.jp/uploaded/attachment/11548.pdf
によると、『厳島道芝記』(1697 年)や『芸藩通志』(1825 年)など、他の文献においても弥山の巨岩群についての説明はほとんど見られず、それが明治時代以降になると、頂上の巨岩群の存在を強調するようになったと論じられている。
現在、頂上巨岩群に対して冠される「厳島神社の神が降臨した最初の地」云々は、近代以降の解釈という可能性が指摘されている。
岩屋不動
「平橋のかたはらにあり。窟中に本尊を安置せり。」
不動岩とも呼ばれるもので、不動明王を巨岩群の隙間にまつっている。
岩屋不動の右には旧毘沙門堂が建ち、それに対して左には現在「くぐり岩」と呼ばれる構造物がある。
『芸州厳島図会』にはくぐり岩についての項は立てられていないが、絵図にはくぐり岩のあたりにそれらしき絵と共に「石洞門」の注記が見られる。
くぐり岩(写真左奥)と岩屋不動(写真右) |
岩屋不動(不動岩) |
窟内の厄除け不動 |
くぐり岩 |
このあたり、ドルメンと形容される机型の巨石構造物が2か所ほど確認できるが、『芸州厳島図会』も含めて、いずれの文献においても名前はつけられていない。
観音堂・文殊堂に接するドルメン状構造物 |
一帯が岩盤の上に建つと言い換えても良い立地。 |
玉取岩
「伝へいふ。昔人ありて海上より望み、この山に璞玉(あらたま)あることをしりて取かへりしといふ。今三尺ばかりの孔岩にあり。」
弥山本堂境内の閼伽井の辺りに存在するというが、情報収集不足につき特定できず。
閼伽井 |
霊火堂 |
霊火堂裏の巨岩。弥山本堂一帯の巨岩を構成する一つ。 |
曼陀羅石
「求聞持堂の下なり。数十丈の盤石にして石面平らなり。大師石面に梵字を書し、また眞字にて三世諸佛、天照太神宮、正八幡、三千七百餘座の字を鐫りたまへり。」
現・曼荼羅石。満干岩と同じく弥山の七不思議の一つとして知られる厳島岩石信仰の代表格だが、ここへ至る道は長らく封鎖されている。
求聞持堂。この奥の下斜面に曼陀羅石があるという。 |
弥山の七不思議の看板。2つ目の曼荼羅石の解説があり写真も掲載されている。 |
三鬼堂
「盤石のうへに建つ。」
これは現在の三鬼堂の場所を指すのではなく、明治時代の神仏分離令以前の三鬼堂は現・御山神社の場所にあった。
堂前は「数百丈の絶壁」で伊予の山々も遠望できると記す。
平成29年(2017)5月2日 宮島弥山3往復(博奕尾コース、大元コース、大聖院コース) : 恐羅漢と大山ばっかりなんですが。
帆掛石/鏡石
「奥院大師堂 金剛燈籠堂并に籠所あり。これより南下の路なり〇此所の山の巓に帆掛石といふ名石あり。形の似たるを以て号けたり。または鏡石ともいふ。こは遠方より望むときは鏡台に似たればなり。」
場所がわかりにくいが、絵図の厳島全図裏三(http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200020166/viewer/20)には、「三好の尾」と書かれた支峰の下方斜面に「かがみ岩」らしき注記が見える。
龍馬場(りゅうがばば)
「巌上に馬蹄の跡あるを以て、一に駒が林ともいふ。」
弥山の頂上から西を眺めると、一峰上に多数の露岩が群れる丘陵がひときわ目に入る。これが現在、駒ヶ林(標高502m)の名で知られる場所だが、『芸州厳島図会』では龍馬場、あるいは龍が馬場の名称のほうが代表的だったようである。
岩上に馬蹄跡が残るということで、一種の馬蹄石の信仰の類例と言えるが、後述するような岩石信仰の場もあり、それが龍馬場の名の由来となるらしい。
弥山頂上から眺める駒ヶ林 |
三劔窟(みつるぎのいわや)
「龍が馬場に至る路にあり。伝へいふ、巻の一に載するところ三段に折れし御剣を納めたりと。」
絵馬岩
「同上の上数十丈の巌壁なり。中央に馬の形を画くがごとし。遠くのぞめば赤色にして其色昔より曽て變ぜず。」
龍窟(りゅうがいわや)
「一に護摩谷の窟といふ。盤石上より覆ひかかりて、一に室屋のごとし。内に弘法大師の像を安けり。この所は、弘法大師護摩修法のあとなりといふ。傍に龍が洞とていにしへの龍の出しといふ穴あり。其深さ知るべからず。すべて此辺を龍が馬場といふも名の起りはここなるべし。」
岩船岳について
岩船岳(標高466.6m)は厳島南部にそびえる岩峰で、『芸州厳島図会』には一見記載がない(名前が違っていた可能性も)が、ここには山中に奇岩怪石が見られるという。
一般登山道はなく、厳島の中では上級者向けコースとなっているようだ。
詳しくは、前掲の「宮島弥山倶楽部専用ページ」および「岩船岳登山」に詳しいが、岩船の名の由来と思しき船形の岩石などが確認されている。
また、この岩船岳を遥拝するために、先述の三劔窟を擁する三剱山(火山/名無し山)には、かつて遥拝所としての鳥居が建っていたという話があり、その柱穴らしき岩穴が残る。
以上、他にも厳島には名前の付いた岩石がまだまだあるようだが、ひとまず、江戸末期の地誌『芸州厳島図会』を中心に、厳島に歴史的に記録された岩石を紹介した。
その位置関係はページ冒頭のGoogleマップを参考にしてほしいが、現地特定をできていない場所が多々あるため、それらは大体の場所を図示するにとどめ、詳細位置は不明とさせていただきたい。
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