2020年7月27日月曜日

伊勢山上の岩石信仰(三重県松阪市 飯福田寺)


三重県松阪市飯福田町 国峯山飯福田寺

真言宗飯福田(いぶた)寺が擁する修験霊場を「伊勢山上(いせさんじょう)」と呼ぶ。
現在も修行者が訪れる岩山で、三重県立公園および県指定名勝でもある奇観である。

伊勢山上

伝説であるが、役行者が開山したとき、急峻な伊勢山上に難儀して休息をとった。
そこにリスが現れてマタタビの実を食べて元気に動くさまを見て、役行者もタマタビを食べて回復したという話が『松阪市史』第十巻にある。

いつの頃か、吉野山上の登山が一時絶えた時があって、他の行場を求めた行者たちが伊勢山上に集い、吉野山に準えて今の行場の形を整えたとされている。

嘉永4年(1851年)完成の地誌『勢国見聞集』においても、長らく行場が荒廃していたのを、久米村の船木平兵衛広光という人が再興したという。
その時、行場の岩々の旧名を人から教えられ、「鏡岩」「明星石」「獅子ノ鼻岩」「権現岩」「不動岩」「轟岩」「屏風岩」の名が収録されている。

中世には伊勢国司・北畠氏の祈願所として、氏の関係者が住職を務めたというからこの頃は栄えていたはずであるが、安土桃山期に寺の伽藍を打ち毀して城の用材に持ち出され衰退したという。
上記の話を綜合すると、当行場の歴史は役行者の時代こそ伝説的であるものの、中近世においても途絶した時期があったらしい。

伊勢山上には、表行場と裏行場がある。
私は表行場だけを訪れたので本記事では一部の岩石の紹介となり申し訳ないが、裏行場については名称のみ掲げておく。

現地の伊勢山上表行場絵図(一部、裏行場あり)


表行場


■油こぼし
表行場最初の鎖場である。

油こぼし

■屏風岩
『勢国見聞集』記載

油こぼしを越えた先にある岩。このあたりの岩肌を指すか。

伊勢山上の正順路は厳しい登攀が必要となるが迂回路も用意されている。

■岩屋本堂
伊勢山上の象徴的存在であり、かつ、飯福田寺の奥の院的存在。
順路の先で、岩屋本堂を遠望できる場所がある。




■東の覗き
修験行場に多い「○○の のぞき」の一つ。岩屋本堂が建つ岩崖上の地点を指す。

岩屋本堂から麓を見下ろす。

■御笠岩
現地で標示を見つけられなかったが、名称と所在地から推測して、岩屋本堂を覆う笠部分の岩を指すか。

岩屋本堂の窟を構成する笠部分

■鏡掛
現地の標示には「鐘掛」とある。
市史記述の「鏡掛」は誤字か、それとも、『勢国見聞集』記載の「鏡岩」と関係あるか否か。

「鐘掛」の標示

■抱付岩
名称から推測して、岩に抱き付きながら登攀する岩肌を指したものか。

抱付岩の標示が奥に見える。

■御光岩
岩屋本堂から続く岩崖を登りきったところにある。
現地に表示を見つけられなかったが、岩崖上には瘤状の岩盤に石像が複数まつられている。
陽光が差し込めば照り輝く岩肌とも言える。

岩屋本堂の岩崖上

■蛇腹岩
表行場の一岩石として名が挙がるが、現地地図および現地看板に案内なく特定できず。

■足摺岩
亀岩の手前にある様子だが不明。

■亀石
表行場の折り返し地点あたり。
尾根上に、風化が進むゴツゴツした岩肌を見せる。

亀石

■鞍掛岩
「クラカケ」のネーミングは、崖が崩落状になっている場所に多いように思う。
当地は馬の鞍部と形容することもできなくない。

鞍掛岩

■蟻ノ戸渡り
特定できなかったが、名称からして、幅の狭い痩せた尾根の行場を指すか。

■押別岩
特定できず。押別の名を持つ神名も想起させる。

■不動棚(不動棚廻り)
『松阪市史』第六巻に写真が掲載されており、広大な岩崖に凹部が形成されている様子である。

■地蔵岩
特定できず。

■小尻返し
鞍掛岩からは徒歩5分の距離。その間に上記の蟻ノ戸渡り、押別岩、不動棚、地蔵岩があったという話で、それぞれが密接していることになる。

小尻返し

小尻返しの辺りから、登ってきた方角を見下ろすと、山腹に岩屋本堂の岩塊を眼中に収めることができる。
伊勢山上の全貌をつかむのに好立地である。

小尻返しから岩屋本堂を望む。

■千手が岩屋
特定できず。窟状の空間を持つ岩と思われる。
該当地点には鎖場があった。

次の飛石の手前にある鎖場

■飛石
小尻返しからも、隆起した岩盤を確認できる。

小尻返しから望む飛石

飛石

■平等岩
特定できず。平等石の名称は全国各地の行場や霊山にあり、元来は「行導・行道」に由来すると考えられている。

該当地点近くで見た岩塊と裾に安置された石仏。

■元居原行者(元居ヶ原)
ここを抜けると目立った岩場はなくなり、麓に降りて表行場巡りが終了する。

元居原行者(元居ヶ原)

表行場入口。伊勢山上は許可制登拝であり、必ず飯福田寺に入山許可を得ることに注意されたい。

裏行場


名称のみ記す。

  • 油こぼし(表行場にも同名のものがあるが別物)
  • 達磨岩
  • 獅子ヶ鼻 『勢国見聞集』収録の「獅子ノ鼻岩」か。
  • 西の覗き
  • 雌獅子岩
  • 胎内くぐり
  • 乳岩
  • 御船岩
  • 明星岩 『勢国見聞集』記載
  • 大黒天窟
  • 腰掛岩附

『勢国見聞集』に岩の旧名として記されながら、現在、表行場にも裏行場にも案内が見当たらないのは「鏡岩」「明星石」「権現岩」「不動岩」「轟岩」の5つとなる。
江戸末期から現代においても、歴史が途絶あるいは変容しているようである。

伊勢山上の奇岩が形成された理由


伊勢山上は歴史的名称であり、山自体の名前は寺名から飯福田山(標高390m。麓からの比高差約200m)と呼ぶ。

『松阪市史』第1巻では伊勢山上の自然についてまとめられており、飯福田山の山塊が地質的に第三紀層の砂礫岩から構成されていることに触れている。

行場を形成するさまざまな奇岩であるが、その特徴として、窟のような窪みをもつ岩肌面が多いことが指摘されている。
これは、もともと岩肌の凸凹面があったのが、日光の直射部と日光が当たりにくい陰部で化学変化の差が起こり、長年の経過および風化のなかで岩腹部の礫が特に脱落したことでこのような窟状の窪みが目立つようになったのだろうと論じている。

地質情報整備活用機構が作成した「日本の奇岩百景」のサイトでは、伊勢山上の奇岩形成要因として「タフォニ」を挙げている。

タフォニは、砂岩や凝灰岩などの脆い岩崖に発生しやすく、岩石に含まれた水分が蒸発する際に塩分が結晶化して、それが岩肌を破壊してオーバーハングした岩石を形成する現象を指す。

表行場出口付近から岩屋本堂の全景を拝める。タフォニか。

詳しくは下の別ページも参考にしていただきたい。
(私が「奇岩百景」として写真と一部の文章を寄稿したページである)

奇岩 伊勢山上(いせさんじょう)

参考文献

『松阪市史』(松阪市史編さん委員会)
  • 第一巻 史料篇 自然 1977年
  • 第六巻 史料篇 文化財 1979年
  • 第八巻 史料篇 地誌(1) 勢国見聞集 1979年
  • 第十巻 史料篇 民俗 1981年

2020年7月26日日曜日

垂坂山観音寺のおもかる石(三重県四日市市)


三重県四日市市垂坂町

地蔵堂から出た「おもかる石」


2019年7月頃、垂坂山観音寺の境内で、座布団に乗った三つの丸石が露天に出ているという話を聞き、さっそく足を運んだことがあった。



座布団に乗らず、地面に直接置かれた岩石も。

背後から撮影

どうやら、境内にあった地蔵堂が老朽化していたので、堂を建て替える間、堂内にあった諸々の石造物や岩石を一時的に野外に出したということらしい。
観音寺はそれまでも数度訪れていたが、お堂の内部にある丸石には気づかなかった。このような形で気づいていない岩石が多くあるのだろうと考えると、このたびの建て替えに出会えたことはありがたい奇遇だった。

地蔵堂に戻った「おもかる石」


その後、同年末に再訪したところ、新築の地蔵堂内にこの三つの石が安置されていた。

新築された地蔵堂

堂内に戻された岩石たち

おもかる石

住職さんにお話をうかがった。


  • 「おもかるさん」「おもかる石」と呼ばれている。
  • 悩み事や願い事がある時、この石を持ち上げてみて、予想していたよりも軽く感じれば祈願は成就するという。
  • 旧地蔵堂の頃から置かれていたが、いつ頃からある石なのかはわからない。地蔵堂の建て直しに伴い、旧堂内から一時的に露天に出していた。
  • 定期的に石に祈願される篤信者の方もおり、「上がらないときは絶対に上がらない」のだという。
  • 地蔵堂内にあるので、お地蔵さんに祈りを捧げ、それとセットで石を持ち上げる場合もある。
  • 三つの石が並ぶが、真ん中の石がメインと決まっているわけではない。


「おもかる石」すなわち「重軽石」の信仰は全国各地に見られ、三重県においても『三重の力石』という本があるくらい(後述)、仏教に限らず民間信仰の一角を占めている。


観音寺のおもかる石は2個ある。
3個置く例も他県にあるものの、自然石を大きさ違いで3個用意するのは珍しい。

私も持ち上げてみた。予想より重かった――。

しかし、この石は3個あり、大きさが微妙に異なる。3つともチャレンジできるのでは。

そこで2個目も持ち上げてみた。2個目も重く感じてしまったが、最後の3個目でやっと軽く感じることができた。
何だか救われた気がして、ここに当地の「おもかる石」の一つの特徴を見た気がする。

3回も持ち上げるのは邪道だろうか?
信仰者個々人にマイルールがあることだろう。教本もない。どの石を選ぶかも自由。
真ん中を選ぶという配置性か、裏をかいて脇を選ぶ思考性が出るか、全部欲張りに行くのか。
石の形に惹かれて選ぶということなら、それも岩石信仰の心理と言える。

観音堂の奇石


住職さんから、お寺にはまだいくつか石があると教えていただき、観音堂の中から見せていただいた石がある。


こちらも丸石だが、石に穴が開いていて、石の内部に空洞ができている。
おそらく穴を開けたのは人為的だが、内部の空洞はえぐられたのか、元から組成として空洞だったのか不明である。
内部に空洞があると知って穴を開けようとしたのかなどもすべてが不明の、特異な奇石である。
これはおもかる石の信仰とはまた別系統でとらえたほうが良いだろう。

地蔵堂にも、おもかる石以外に出自不詳の不整形の自然石が数個あり、地蔵菩薩の脇に置かれたり、お供えのように置かれたりと、まるで甲信地方で盛んな丸石神を想起させる。

地蔵堂の地蔵菩薩脇に置かれた丸石

地蔵菩薩前に置かれた白石

おもかる石と力石について


これと似ていて混同されやすいものに「力石」がある。

力石についてはすでにまとまった研究があり、その第一人者が四日市にいたことを改めて紹介しよう。

元四日市大学教授の高島慎助氏は『三重の力石』(岩田書院、2006年)を刊行し、四日市市内に三十例強の力石がある(あった)ことを明らかにしている。

同書から引用するが、力石とは「労働を人力に頼らざるを得なかった時代に労働者の間に発生し、力くらべや体力を養うのを目的にした石」を指す。昭和初期~戦前の頃にこの風習は潰えたらしい。
見た目は楕円形~丸石が多く、公民館や寺社の境内に転がっている。ただの自然石然としているが、力比べをするような石なので、75kg~110kgの重量に上るものが多い。

この力石と混同されやすいものに「おもかる石」がある。
こちらも見た目が丸石で寺社に安置されるという点で似ているが、違いを挙げるなら、おもかる石は力比べにならないほどの重さとなる。
力石とおもかる石が混ざったような「巨石のおもかる石」もあるが、本来は力石とは似て非なるものなのではないか。

参考リンク


「四日市の『おもかる石』信仰~垂坂山観音寺の事例から~」(本記事の抄録)

2020年7月15日水曜日

妙法山瑞巌寺~岩内の石観音~(三重県松阪市)


三重県松阪市岩内町

岩内の地名と、瑞巌寺=瑞岩寺という連想に惹かれて、下調べなしに訪れた場所。

三重県指定名勝の瑞巌寺庭園を代表格に、本尊を「石観音」と呼び、境内に名前の付いた奇岩や石造物を複数有する寺院だった。

後日、『松阪市史』(松阪市史編さん委員会)に当たって、瑞巌寺に関する記録を複数巻に見つけることができたので、このページでまとめておきたい。

※『松阪市史』における瑞巌寺の参考箇所

  • 第一巻 史料篇 自然 1977年
  • 第二巻 資料篇 考古 1978年
  • 第六巻 史料篇 文化財 1979年
  • 第八巻 史料篇 地誌(1) 勢国見聞集 1979年
  • 第十巻 史料篇 民俗 1981年


石観音について


瑞巌寺の本尊は十一面観世音菩薩とされるが、本堂内に本尊はまつられていない。
本堂の裏、川を挟んだ対岸に岩肌が露出しており、これを通称「石観音」と称している。
現在も、本堂の欄干越しにその姿を拝むことができる。

本堂の裏の岩崖「石観音」

欄干越しに自由に拝観できる。

弘法大師作と伝わる十一面観音。仏の顔だけが浮かび上がっているという。

本堂背面の丸窓。この窓越しにかつては本尊を拝したのだろう。


本堂の背面には丸い窓が取り付けられており、その窓を開けると、本堂越しに、本堂裏の岩崖を拝む形になる。
この岩崖こそが、伝・弘法大師作の、顔だけが浮かぶ十一面観音とのことである。
実際に彫りこみがあるのか、自然の造形を仏をみなしたものかは判読しがたい状況である。

『松阪市史』によれば、この石観音は元来は全身だったようだが、山崩れで仏の顔だけが残ったのが現在の姿だという。

また、嘉永4年(1851年)完成の地誌『勢国見聞集』によると、石観音の傍らには「阿字石」と呼ばれるものがあったと記録されている。
石名のとおり、阿の字を彫った石で敬われたらしいが、数百年後に震動して阿字石は崩れ落ち、『勢国見聞集』刊行時にはすでに消失していたという。

庭内七奇石


瑞巌寺境内や庭園内には、名前が付けられた石造物や名石が存在しており、『松阪市史』では以下七石を「庭内七奇石」として総称している。

  • 小町石
  • 鯛石
  • 額石
  • 足石
  • 牛石
  • 鷺石
  • 鐘石


小町石

小町石については伝説が残っている。
『勢国見聞集』によると、

「回廊の下、石垣の内の青き石に、白き小野小町の立姿に似たるが附けたる如くなり。故に其の往時、小町石と彫付置かれたり。」

小野小町の立姿に似るという価値観が現代ではつかみにくいが、上写真のとおり、「小町石」の刻字は江戸末期まで遡りうることがわかる。

瑞巌寺庭園入口。石門である。

籠目石。七奇石の名称とは一致せず別系統の存在か。

鉦(かね)石。七奇石のうちの「鐘石」か。

足の裏石。七奇石の「足石」か。

釣鐘石。これも「鐘石」と名称が類似する。

鯛石・額石・牛石・鷺石の所在については調査不足である。

『日本伝説名彙』(日本放送協会 1950年)によれば、これらの七石は瑞巌寺を再興した法誉門超和尚の置いたものだという。いわゆる庭園の名石か。
法誉門超が瑞巌寺庭園を整備したのはおよそ18世紀末~19世紀初頭の頃と推測されている。

瑞巌寺の歴史的環境


瑞巌寺は弘法大師伝説を付帯して、弘法大師開基の寺伝も残すが、そのことを補強する旧記は残っていない。
江戸時代中期に中興の祖(法誉門超)が現れたという沿革もあり、おそらくはその頃に現在の信仰の形ができあがったものと思われる。

ただ、寺自体の歴史を離れて、周辺環境に目を移すと、瑞巌寺を取り囲むように古墳群が今も見られる。
尾根筋を中心に、約16基の横穴式石室とみられる群集墳が確認されており、瑞巌寺古墳群と呼ばれている。

また、瑞巌寺から北に徒歩30分の山中には岩内城跡が残る。麓にも「岩内御所」なる館があったという伝承があり信ぴょう性は定かでないが、これは瑞巌寺の場所とも重なる位置になるかもしれない。

これらの遺跡との関連性は時代も必ずしも同じではないが、さまざまな生活用途を経てきた当地の歴史の中に瑞巌寺を位置づけなければならない。

瑞巌寺の横を流れる岩内川は別名・観音川とも呼び、寺の南の山を観音山と呼ぶが、この自然環境自体が当寺および庭園としての素地だったのだろう。

渓流沿いに残る雄滝、そして男石、女石、他の露岩群の多くは自然のままの景観であり、それらが墓域となり、城郭に選ばれ、岩の名を冠する瑞巌寺が建った。
自然環境と歴史的痕跡の間には、有機的な影響が相互にあったという前提で考えたい。

岩内川(観音川)

川沿いに散在する岩石群

「男石」と「女石」の標示がある。対岸に目立つ巨石は見当たらない。

女石がどれを指すのかと下をのぞく。

対岸側ではなく、川沿いの垣の一部を指すのか情報収集不足。

いつの時代からかはわからないが、渓流沿いに露出する自然石に聖性を見出したところに信仰の端を発し、やがて石観音としての半自然・半人工の仏教霊場へ展開していったのではないか。

しそ飯でにぎわい再び 岩内の名勝・瑞巌寺で来月 石のアーチ橋や梅園も整備

檀家をもたない祈願寺で、無住の寺となって荒廃の一途となるを憂いだ地元の有志の方々が、ふたたび当寺を盛り立てる活動をされているらしい。

全国的にも珍しい石橋、名物のしそ飯と併せ、岩石信仰の観点からも再注目されることで、現地に残る数々の岩石の歴史の掘り起こしにも期待が持て、陰ながら応援したい。

2020年7月11日土曜日

高岳神社(兵庫県姫路市)


兵庫県姫路市西今宿 蛤山

高岳神社は「たかおか」と読むが、『延喜式神名帳』では高岳で「たかみくら」と読んでいる。

神社背後の丘を蛤山(標高125m)と呼ぶ。その頂には一大岩盤が広がっており、隆起した岩塊の手前に鳥居や灯籠が献ぜられまつられている。






往古の昔瀬戸内海が書写山の麓まで海に満ちていた。高岳神社の直ぐ北の山頂部に高さ約八十米にも及ぶ巨岩があり蛤岩と呼ばれている。これは土地の人がこの岩の上の窪みの中で蛤の親子化石を拾い福徳長寿の幸を得たのでこのように名付けられたそうである。
「延喜式内社 高岳神社 巨岩 蛤岩由緒碑」(平成二十年建立)より

高岳神社の社宝には蛤の化石が伝わるといい、かつてこの岩が海中にあったことを示すものだろう。

蛤の奇譚については、そこまで古い話ではないのかもしれないが、それ以前からの岩に対する信仰はあったのだろうか。

高岳神社は延喜式内社というが、元来の鎮座地はここではなく、やや東にそびえる八丈岩山頂上だったと社伝でいわれており、そこにも岩盤が露出している。
現・蛤山の遷座は天長3年(826年)のことと伝わる。

いわば、岩山から岩山へ、神が移動したことを示すのだが、その理由までは明らかになっていない。

藤本浩一氏は『磐座紀行』(向陽書房、1982年)の中で「これほど整った磐座があるのに、八丈岩山を高岳神社の旧地と考えたのは、いかなる時、いかなる人か、今我々が考えさせられるところである」と記す。
これでは八丈岩山旧社地説への批判のようなものであるが、藤本氏は八丈岩山の現地も訪れて比較している。いわく、その岩盤の規模は「八丈」というような大規模なものではなく「八畳」の誤伝ではないかと述べ、蛤山の露岩規模にはおよばないと評価している。

なお、八丈岩山は『播磨国風土記』に登場する「因達の神山」に比定されており、その点から、藤本氏は因達の神の磐座であろうとは認めているが、どうも蛤山の神とは別個の存在だったのではないかとみなしている節がある。
『播磨国風土記』の「因達の神山」の項に、岩や石に対する記述が見当たらないことも付言しておきたい。