島根県雲南市加茂町岩倉
弥生時代の銅鐸群が一括出土した遺跡として有名な加茂岩倉遺跡。
祭祀遺跡との関係でしばしば語られるのが、地名の由来といわれる「岩倉」の存在である。
遺跡地の谷間からは約500m北東の麓の位置に、「大岩」と標示の打たれた岩石がある。
江戸時代には「岩窟」で「宝蔵」と冠された岩石だが、岩屋状の内部空間を直接持っているわけではない。
地中に金鶏がいる、のくだりを考慮すれば、さしずめ岩石は蓋の働きを担っている。
どちらかといえば、想像力を豊かにして、岩石の塊の内部や下部に内部空間をイメージしたタイプの「岩倉」と言えるだろう。
この大岩を岩倉、すなわち磐座祭祀の跡ととらえて、弥生時代の銅鐸の近くに巨石祭祀・磐座祭祀があったと考える立場もあるが、どうだろうか。
岩石と青銅器の距離関係の近さ、イコール、関連性と言えるかどうか。
まず、「近さ」の定義づけが難しい。
加茂岩倉遺跡と大岩の距離である、約500mを「近い」とみなすのは、個々人で評価が分かれるのではないだろうか。
そのようなときは、自分の主観とは逆の、批判的な評価を下すのが学問的な態度と言える。
大岩と加茂岩倉遺跡は、それぞれ肉眼で目視できる関係ではない。
それぞれの立地環境にも違いがある。
このように、マイナス要素を挙げて、それらが解決されるまでは肯定的評価を避けたい。
次に、遺跡と大岩が近くても、近いからという理由だけで、大岩が弥生時代の祭祀遺跡と認めるには論理の飛躍がある。
大岩が自然石である限りは、大岩が弥生時代に存在したことは間違いないだろう。
しかし、大岩の周りから遺物は見つかっていない。
「岩倉」の地名が、弥生時代に遡ると決まったわけでもない。
大岩と銅鐸の関係性を述べるなら、むしろ大岩にくっつくくらいの距離で銅鐸出土地は形成されるのではないか。
距離を離したという事実は、大岩と銅鐸のある意味での「違い」を示すものでもある。
仮に大岩と銅鐸を同じ弥生時代の祭祀と肯定した場合、それぞれ別々の対象となっているわけだから、どのような祭祀や信仰の世界観を想定しているのか。
これは、銅鐸祭祀というものの目的や詳細がはっきりわかっていないことにも起因する、大きな問題である。
(しばしば、銅鐸=依代、銅鐸=奉献品といった解釈があるが、これらはまだまったく証明されていないと言って良い)
加茂岩倉遺跡 |
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