『尾張名所図会』5巻(1880年までに刊行)では葉栗郡石刀神社として2つの岩が描かれ、神の尾とされる岩の存在を記している。
(「愛知芸術文化センター愛知県図書館HPの貴重和本デジタルライブラリー『尾張名所図会後編』」よりhttps://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/103.html)
これは現在、尾岩と呼ばれているものを指すと思われ、愛知県一宮市浅井町の石刀神社境外東約100m地点にある。
中根洋治氏『愛知発 巨石信仰』(愛知磐座研究会 2002年)の聞き取りによれば、伊勢湾台風以前は豚小屋に隣接していて、周辺の家に災難が続いたため、現在のように清浄にして整えたのだという。
ただし疑問があるのは、尾張名所図会の絵図に描かれている二つの岩は絵図の限り二つとも境内にあることである。
絵図には岩の名前が注記されていないが、現在、絵図に該当する二つの岩はそれぞれ「胴体岩」「奥の院」と呼ばれている岩石の場所に位置している。
そして、境外の尾岩は描画されていないのが気にかかる。
石刀神社は現在でこそ延喜式内社・中島郡の石刀神社の名で知られているが、石刀神社の論社は他にもあり確定ではない。
また、当社は近世においては黒岩神社、黒岩天王の通称が一般的であったようである。
石刀塚の地名も残るが、これは延喜式以来の石刀神社の知名度による影響を考慮しなければならず、黒岩という名称が地元に根差す岩石信仰の一起源であったことも注目したい。
黒岩は当社に残る岩石群全体の総称かもしれないが、特に拝殿背後の二重の玉垣内にまつられた岩石を指す。いわゆる神社の中心石・神体石としての位置にある。
この岩石は胴体岩の名称でも知られ、冒頭の尾岩と対になる神の体としての岩石である。
そんな胴体岩は二重の玉垣に囲まれたうえで、拝殿が手前に建つが、元々は拝殿も建てられていなかったという。
二重の玉垣は秘匿性の強い表れで祟り信仰も付帯しているようだが、一方で、前掲の中根氏の聞き取りによれば、境外の隣は木曽川の堤防がそびえており、その堤防から小石を投げて胴体岩に当てたら願いが叶うと信じられたらしい。
時代が変われば、あるいは立場が変われば、ずいぶん岩石に対する認識の違いが見受けられる。
胴体岩の奥にも、もうひとつ玉垣に囲われてまつられた岩石が姿を見せる。
尾張名所図会にも同様の位置に岩石が描画されており、同一のものと推測される。
これが先述した「奥の院」(奥の宮の名称もあるかも?)と呼ばれる岩石で、その名称自体は神体岩たる胴体岩の奥に控えるその位置関係から起こった名であろう。
同じく、中根氏は地元の方から、拝殿の東隣にあるしめ縄のされた岩石が、神社裏に住む人の屋敷から運んだものという話を聞き取っている。
私が訪れた時には、この岩石に気づくことはできなかった。
以上をまとめると、特別視された岩石は
- 尾岩
- 胴体岩(黒岩)
- 奥の院
- 神社裏の屋敷から運ばれて注連縄のされた岩石
の4種類が存在することになる。
一つ一つの岩石は決して巨岩・巨石という表現が似合うような大規模なものではないかもしれない。
しかし、見てきたように当社の岩石信仰は他例では見られない特徴的なものであり、その事例数も一社に集まる数としては多い。
なぜ、複数の岩石に分かれて信仰が生まれる必要があったのかという問題提起が思い浮かぶ。
一説には、これらの岩石は古墳石室石材の一部だったという話があり、事実、周辺一帯には古墳が散在している。
そのなかで、墳丘が消滅して今は亡き古墳があったとしてもおかしくはなく、そのよすがとして多数の石材が散逸し、時代を経て歴史の断絶した石材が神聖な岩石として再注目された可能性はじゅうぶんある。
いわば、古墳の存在が当地に複数の岩石信仰を再生産したという考え方もできるだろう。
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