三重県鳥羽市相差町 神明神社境内
相差町の氏神・神明神社の境内社に石神社があり、ここにある「石神さん」という石は、海女の信仰を集め、女性の願いを一度は叶えるということで全国的にも知られる存在となった。
石神さんは、玉依姫命のご神体とされている。
言葉通り受け取れば、石そのものが神というよりは、石を通して玉依姫命を信仰するという磐座的発想に近い。
しかし、おそらく現地での信仰者の感覚としては、形而上の神を別にいただきながら目の前の石を目印とするという感覚ではなく、石=神と同一視するような始原的な感覚なのではないだろうか。
岩石信仰を、後世の神社信仰の中で再解釈した時に、この種の主客の逆転が起こりうる。
神明神社は明治41年(1908年)に近郷の神社をまとめて合祀して今の形になったと思われる。
では、それ以前の歴史となるとどうだったのだろうか。
『鳥羽市史』上下巻(1991年)を引いてみると、市内の神社一覧に神明神社の頁が割かれているが、現在の知名度に反し、石神さんについての記述は見当たらない。
唯一、正徳3年(1713年)成立の地誌『志陽略志』に「石神社」の名が相差の神社名の中に見られ、これが現在の神明神社境内社の石神社を指すのであれば、18世紀まで石神さんの歴史をたどることはできそうだ。
ただ、なぜか市史には他に併記された神社については現在の神明神社への合祀を触れているのに、石神社だけはその是非を触れていない。
他の郷土資料にも複数当たってみた。
伊勢志摩関係の民話集や民俗集、さらに平成20年代に調査された海女の民俗調査報告書なども図書館にある分でひととおり該当しそうな箇所を中心に読んでみた。
数百ページに及ぶのでざっと読みではあるが、鳥羽や志摩の信仰としては志摩市阿児町の横山石神神社のほうがむしろ有名のようである。
横山石神神社は、同種の石神さんをまつり、こちらは女性に限らない信仰を集めていた。
また、海女と岩石の信仰としては、相差町堅子の洗米石のほうが学術分野では取り沙汰されることが多い。
石に開いた穴に白米・小豆を入れて、海女漁の無事を祈るものという。
このように、自治体史や民俗学関係の郷土資料の中で、相差の石神さんがほとんど言及されていないのはどのような理由によるものだろうか?
文献記録がないからなのか、祭礼として記録される価値を認められていなかったのか、秘匿されていたり知られていなかったりした存在なのか、はたまた、近年町おこしで人気を博する前は信仰のかたちがまったく違っていた存在なのか。
岩田準一氏の『鳥羽志摩の民俗』(1970年)という本には、石神の記述が2項目に分かれて記されているようだが、こちらは未見である。
また閲覧の機会があれば、この記事にて追記修正をおこないたいと思う。
神明神社境内にある「盃状穴」 |
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