2020年10月29日木曜日

一宮神社の「古代祭場跡(神籬・磐境)」(福岡県北九州市)


福岡県北九州市八幡西区山寺町

境内に「古代祭場跡」と銘打たれた場所があり、柵の中に二基の石積みが存在する。




奥側の石積みは方形で、手前側の石積みは円形という違いがある。
また、敷石の中心には神籬を想定したであろう常磐木が立てられている。

付設された看板によると、昭和30年代に國學院大學教授の角南隆氏が訪れた云々と書いてある。



一宮神社はかつて王子神社と呼ばれ、神武天皇が東征の折に当地で一年過ごしたという「竺紫の岡田宮」(『古事記』による)ではないかとみなされている。

そのため、比較的近代の顕彰や運動の影響が見られる場所であり、元来の歴史が見えにくくなっている側面がある。

石積みには「神籬・磐境」という位置づけがなされているが、以下のように疑問点がいくつか挙げられ、その疑問に対しての是非をしようにも、資料的な確認をとれていない。


  • 考古学的な遺跡(埋蔵文化財)には指定されていないこと。
  • 角南隆氏は考古学の専門家ではないこと。
  • いわゆる考古学的発掘が伴った記録が見当たらないこと。
  • 昭和60年代に「復元」がされているようで、原状とは変わっている可能性が高いこと。
  • 神武天皇による祭場の旧跡というのは、多分に神話的で事実とは言い難いこと。
  • 神武天皇云々の由来は、戦前の神武天皇聖跡比定運動による可能性があること。
  • 当社自体が『古事記』におけるいわゆる「竺紫の岡田宮」の伝承地として確定ではなく、比定地の一つであること。
  • 神籬・磐境という認定方法が、『日本書紀』の神籬磐境の記述に拠った古典的な神道学の影響下であることを拭えず、石積みの性格として恣意的であること。


2020年10月25日日曜日

日峯山遺跡~山頂直下に形成された岩石信仰の祭祀遺跡~(福岡県北九州市)


北九州市八幡西区浅川日の峯 日峯山


日峯山は標高113.9mの山で、日峰山・日ノ峰山などの表記もある。

山頂直下にかつてあった女郎岩(上﨟岩)の手前から、古墳時代中期以降の土師器群が出土して、日峯山遺跡(日峰山遺跡)の名前でも知られる。

山頂で祭祀を行わず、山頂直下の岩石の前で祭祀を行なったと推測され、古墳時代の山岳信仰や岩石信仰のありかたを考えるうえで重要な祭祀遺跡である。

本遺跡については、拙著『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』(2011年)において「日峯山遺跡」の一節を設けて紹介しているので、詳細はそちらを参照いただきたい。

この記事では、紙幅の関係上載せられなかった写真を中心に特集する。

日峯山

日峯山頂上(日峯神社上宮の石碑が建つ)

日峯山は四方を見渡すにおいて絶好の眺望

麓の日峯神社


女郎岩/上﨟岩

玉依毘売命にまつわる旧跡とされる。

山頂直下の斜面上に立地していた立石で、周辺は岩場だったという。

日峯山に配水池を造った時、女郎岩が開発区域に入ったため発掘調査が行われ、その結果祭祀遺跡が見つかった。
発掘後、倒壊の危険があるため麓の日峯神社境内に移設された。

なお、女郎岩の南に行った斜面下には「神穴」と呼ばれる場所があり洞穴状になっているようだが、こちらの現状は調べていない。

女郎岩(日峯神社境内 移設後の姿)

立石状の岩盤だったことが窺われる。

裏側

日峯山中腹の配水池(女郎岩旧地付近)

女郎岩があったと思われる場所付近の斜面。岩盤が露出。


国見岩

隠岐国焼火神社祭神の大日孁貴尊が、この岩石の上に腰掛けて隠岐島を偲んだという。

日峯山頂上の北西端にある岩とされる。

日峯山頂上にも露岩が複数見られる。

山頂直下には岩盤がさらに剥き出している。

日峯山がかつて火山だった時の火山岩の様相を残す。

このような岩盤がそこかしこにある。

地図的にはこの露岩が国見岩の場所に当たるが、雑木に隠れている。


琵琶岩

隠岐国焼火神社祭神の大日孁貴尊が、この岩石の上で琵琶を弾いて四方を鎮めていたという。

関連文献を読んでも場所がはっきりせず、女郎岩と同一物説もある。

日峯山頂上には、岩上に座して四方を眺められる場所が複数あり、そのいずれかなのかもしれない。

座れそうな岩その1

座れそうな岩その2

座れそうな岩その3


2020年10月19日月曜日

大洗磯前神社(茨城県東茨城郡大洗町)


茨城県東茨城郡大洗町磯浜町


大洗海岸に出現した「怪石」

大洗海岸

斉衡3年(856年)12月戊戌日(29日)の夜、海上に光の柱が立っているのが目撃された。

翌朝、その海のほとりに2体の「怪石」があった。
高さは両方とも1尺(約30cm)ほどで、人間ではなく神の造形だった。

さらに翌日になると、その周囲に20個あまりの小石が、まるで2体の「怪石」に付き従うかのように集まっていた。
これらの小石は彩色おびただしく、見た目は沙門(僧)のようだったが、耳と目だけはなかった。

この時、ある人に神が憑依し、「我々は大奈母知命(オオナモチノミコト)と少比古奈命(スクナヒコナノミコト)である。昔この国を造って東の海へ去っていたが、再びこの国の民を救うために帰ってきた」と語った。

これを受け、国司は朝廷に上奏し、翌天安元年(857年)8月に大洗磯前神社が創建された。


以上は、『日本文徳天皇実録』(879年完成)に記された大洗磯前神社の創建由来となっている。

時期がはっきりしており、神の現れた経緯も具体的である。文字どおりの実録としてはありえず、誰彼による作為性はあるものの原型となる出来事はあったのだろう。

当時の「神の現れ方」や「ある事物が神としてまつられる流れ」を考える上において、非常に貴重な資料の一つと思われる。

大洗磯前神社より大洗海岸を望む


怪石が果たした役割


この「怪石」を岩石信仰の観点から考えると、どのような存在として位置づけることができるだろうか。

神の姿形として語られることから、石神の事例と一見考えられる。

しかし、怪石自身はあまり動的な行動をしていない。記録中ではまるで置き物のような扱いとなっていることに注意したい。
声を発するのも、怪石自身ではなく、人を介して発している。実際の事象として岩石が音声を発するわけはないが、物語上の作りとしては岩石が話していてもいいはずなのに、それをしない。


物語上、石自身に意思も垣間見られない。意思を発しているのは、石の背景に控えるオオナモチノミコトとスクナヒコナノミコトである。

まるで、普段は人間にとって「不可視」な神が、肉体は岩石を使い、言語は人間の口を借りることで「可視化」させているかのようだ。

人間の側から論理立てれば、怪石は、神をイメージさせやすくするために用意した視覚的な肉体であり、視点を集中させるための対象物である。


これを「神そのもの」と言えるかというと、少し違う気がする。
むしろ、怪石は神と人がコミュニケーションするために登場した「媒体」であり、その役割は「一時的に人間達に見せる体」だったと位置づけられる。


しかし、石神的な性格も消せないのが本事例の特徴的なところである。反証要素を列挙しよう。

  • 物語において、光の柱を放ったのは誰なのか。2神が降臨した時の光と考えるのが自然だが、怪石自身が発光して光の柱を出したという可能性も否定できない。
  • 怪石は自ら動いて現れたのか、それとも形而上の2神が用意してそこに出現させたのか、どちらともとれる。
  • 怪石の翌日に現れた小石の位置付けについて。これも2神が用意したとも解釈できるが、一方で怪石自身が行動してはべらせたと解釈できたり、怪石が分裂・増殖してつくったという「成長・増大する石」伝承の見方で解釈することもできる。


受け取り方によっては石神的要素も見え隠れする。
そのような両機能の境界線に立つ事例と言えるだろう。

すなわち、1つの類型機能だけで性格付けすることを避けないといけない。
一見矛盾しあう複数の要素は、内包し得るのだということを示唆しているだろう。


現在の怪石の所在


現在、この怪石たちがどこにあるのか、よくわからない。
神社創建後、本殿の中に移されたのだろうか。しかし、記録の中に石の行方が書かれているわけではない。

大洗磯前神社


もし本殿に移されたのなら石神的といえるが、そうではなくそのまま放置されていたり、撤収処理されたのならば、怪石は神そのものというより、やはり祭祀の時に使った道具(媒体)としての側面が強くなる。


ちなみに、怪石の周りに出現した20個余りの「小石」は、怪石の神聖性をより高めるために付き従った「陪従者的存在」として捉えることができる。

本体の神聖性を高めるために、別の岩石が置かれるというのは珍しく聞こえるが、『出雲国風土記』にも、石神の側に小さな石神が百余りあるという記述があり、このような岩石同士の力関係の差を利用した発想を、当時の記録から読み取ることができる。


神磯


大洗磯前神社沿いの海岸に岩礁があり、これを神磯と呼んでいる。
祭神降臨の地と語られており、ここが件の怪石が現れた場所とされたのだろう。





今も神磯は、元旦に日の出奉拝祭祀が執り行われている。
祭祀空間としての岩礁であり、その空間テリトリーを視覚的に示す岩石と言って良い。空間的な広がりを持つ、自然の磐境といった位置づけである。


もちろん、祭神降臨の旧跡という意味では、この神磯は聖跡としての要素も忘れてはいけない。

怪石が神磯の上に出現したと思考実験した場合、岩石の上に別の岩石が乗った構造ともなる。これはどのように理解するべきか。

わかりやすい理解は、いわゆる磐座の上に磐座を乗せたというものだろうか。
怪石を磐座と呼んでいいかは、前述の議論を踏まえれば石神要素も相待った存在であり粗っぽい評価だが、物語の構成上、怪石は置き物的存在であり一時的な神の体としての性質もなくはない。それを通俗的に磐座と呼んでいるものと、広い意味での機能は一緒と見ることもできる。

怪石は、座所ではなく憑依物としての体であるため「座」という漢字を当てることは適切ではない。あえていうなら、神磯が座としての岩石であり、そこに体としての怪石がやってきたという構図である。

これ以上の資料が揃わないと何とも言えないが、岩石を語る時に1つの機能には収まらないというのが、難しくややこしいところだろう。


参考文献


2020年10月18日日曜日

橿森神社と多賀神社(岐阜県岐阜市)



橿森神社(岐阜市若宮町)


橿森神社は岐阜城金華山から続く山塊の端に立地するが、社殿背後の山端に、駒爪岩(駒の爪岩とも)の標示とともに岩が露出している。




社頭の掲示が2種類ある。

古い方の手書きの説明には「大昔神人が駒にのってこの地にくだり、この岩に爪あとを残した」と記されている。

新しい方の御影石に刻字された説明には「神が天馬にまたがり休息した時、天馬が残したという爪痕が残る岩」とある。

この「神人」ないしは「神」が、橿森神社祭神である市隼雄命を指すのかどうかは明示されていない。
市隼雄命はいわゆる皇族にあたるため、それが神人としてまつられるのは首肯できるが、天から降臨するような神とはまた毛肌が異なる。
橿森神社には境内社や小祠も多いため、複数の信仰が融合して今があるような気がしてならない。





多賀神社(岐阜市多賀町)


橿森神社のすぐ北にあるが、町も変わり多賀町の神として独立してまつられている。

多賀の名は、祭神が伊邪那岐神・伊邪那美神の両神であることから近江多賀の神を勧請したものと類推されるが、町の辻に鎮座し、土地の神として地元の方の間で定着している様子が窺われる。

社祠の背後に立石状の岩石が見られる。





特に注連などはなされていないが、玉垣内にあり祠背後という位置関係から、少なくとも現在では神聖視の対象となっているだろう。

現状、境内は整地されており、立石は据え置かれているような配置を見せる。
ただし、この岩石が本来この場所と根続きのものであったか、他所から持ち運ばれたorこの場所に落ちてきたものだったかは不明である。

夫婦神だからだろうか、社は二つの祠に分かれているのに対し、立石は一つであり、片方の祠の後ろにだけ岩石を擁している。


2020年10月4日日曜日

石船神社(茨城県東茨城郡城里町)


茨城県東茨城郡城里町大字岩船

延喜式内社。「いしふね」と読む。
「石船」は地名および神社名となっているが、境内を流れる岩船川に船形の岩石があること、祭神が鳥石楠船命(天鳥船命)であることなど、複数の由来が想定される。

岩船川

石船神社はこの岩船川沿いに鎮まるため、無数の岩の群れが認められるが、現地で次の3つを確認することができた。


兜石

兜石

石船神社の特徴として、拝殿の裏には本殿がない。

その代わりとして、兜石と呼ばれる岩塊が、拝殿裏に囲まれた玉垣の中に控えている。
悪神が来た時に、兜石を見せて脅かすため玉垣の中に隠したという理由が付帯されている。

岩石自体に、悪神を脅かさせる霊威があるということが読み取ることができる。
また、祭祀対象が坐す本殿に位置すること、半ば秘匿されていることなどを考えあわせると、岩石そのものに畏れを抱く石神としての性格が認められる。

祭神の鳥石楠船命が、この岩石を指すかというとそこはやや不明瞭な部分がある。
本殿なき当社において、祭神がどこに鎮まっているのかという問題は再検討されても良いだろう。

兜石の下部(玉垣の隙間から撮影)

石船神社拝殿奥。玉垣内に兜石が控える。


船形の岩石

上方より撮影。注連が巡られ神聖視は間違いない。

石の上面。真ん中の窪みに水が溜まる。

岩船川のほとりにある船形の岩石。石船の由来に相当する石なのか、調べても今一つはっきりしない。

岩石の名称もはっきりしないが、件の岩石に該当するなら「石船」なのだろう。
疑問点としては、神社の中心的な位置づけは後述する兜石なので、社名を背負う岩石として現在の位置が必ずしも中心的とは言い難いものがある。
もちろん現状の印象を記すのみであり、時期によって神社の景観や各種構造物の配置が異なっていた可能性もじゅうぶん考慮したいところ。

岩石の頂面には水溜りがある。
日照りの時、この水をすくって祈願すると雨が降るといわれ、雨乞い石としての性質を今に伝えている。


矢の根石


参道に「矢の根石」がある。

源義家が怪物に向かって矢を射たところ、この石に刺さっていたという伝説が残る。

源義家伝説において、義家は神聖視と特別視の狭間に立つ人物と言っても良いだろう。
人によって、尊敬の対象から、神格化の対象もありえたような、中間的存在だったのではないか。

そのような人物の旧跡となる矢の根石も、同様に神聖視と特別視の狭間にある事例と言える。