福岡県北九州市八幡西区山寺町
境内に「古代祭場跡」と銘打たれた場所があり、柵の中に二基の石積みが存在する。
奥側の石積みは方形で、手前側の石積みは円形という違いがある。
また、敷石の中心には神籬を想定したであろう常磐木が立てられている。
付設された看板によると、昭和30年代に國學院大學教授の角南隆氏が訪れた云々と書いてある。
一宮神社はかつて王子神社と呼ばれ、神武天皇が東征の折に当地で一年過ごしたという「竺紫の岡田宮」(『古事記』による)ではないかとみなされている。
そのため、比較的近代の顕彰や運動の影響が見られる場所であり、元来の歴史が見えにくくなっている側面がある。
石積みには「神籬・磐境」という位置づけがなされているが、以下のように疑問点がいくつか挙げられ、その疑問に対しての是非をしようにも、資料的な確認をとれていない。
- 考古学的な遺跡(埋蔵文化財)には指定されていないこと。
- 角南隆氏は考古学の専門家ではないこと。
- いわゆる考古学的発掘が伴った記録が見当たらないこと。
- 昭和60年代に「復元」がされているようで、原状とは変わっている可能性が高いこと。
- 神武天皇による祭場の旧跡というのは、多分に神話的で事実とは言い難いこと。
- 神武天皇云々の由来は、戦前の神武天皇聖跡比定運動による可能性があること。
- 当社自体が『古事記』におけるいわゆる「竺紫の岡田宮」の伝承地として確定ではなく、比定地の一つであること。
- 神籬・磐境という認定方法が、『日本書紀』の神籬磐境の記述に拠った古典的な神道学の影響下であることを拭えず、石積みの性格として恣意的であること。
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