2020年12月1日火曜日

榛名神社・榛名山の岩石信仰(群馬県高崎市)


群馬県高崎市榛名山町字巌山

榛名神社の概要


両毛三山の一つとして知られる榛名山は、山頂には榛名湖や榛名富士を擁し、頂上よりやや下った山腹に榛名神社が鎮座する。

延喜式にその名が記される古社で、現在の主祭神は火産霊神と埴山毘売神の二柱であるが、これは明治の神仏分離以降に決められたもので、江戸時代は神仏習合のなか別の八神をまつり、元来は奇稲田姫命をまつったなど諸説ある。
社伝では饒速日命とその子・可美真手命が榛名山中に神籬を設け天神地祇を祀ったのが起源だという。

用明天皇の頃には神社がまつられたと伝えられるが、山中境内に夥しく群集する巨岩群は奇岩怪石としてつとに有名であり、古代から中世の早い頃には山岳仏教・修験道の霊場として整備され、長く神仏習合の聖地として続いてきた。

実際、榛名神社境内の山腹斜面部からは、9世紀~12世紀の土器群や錫杖の発見、堂の礎石を思わせる石材、自然斜面を整形したと思われる平坦面など、山岳仏教の施設跡と推測される榛名神社巌山遺跡が見つかっている。
このことから、9世紀には山岳仏教の影響下にあったと考えられている(清水喜臣 「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」1990年)。

現在、境内および周辺の岩々の1つ1つに、修験霊場らしき命名による岩名がつけられているほか、榛名神社の本殿は巨岩に半分取り込まれているかのようにくっついており、神社祭祀においても岩石の要素を外すことはできないらしい。

榛名山祭祀に、岩石というキーワードが切っても切れないという観点から、ここでは榛名神社入口から榛名山頂上にかけての順で、岩石信仰・岩石祭祀の場や奇岩怪石を紹介していこう。

現地地図より


鞍掛岩


榛名神社の二の鳥居をくぐると、みそぎ橋と呼ばれる橋がかかる。これを渡って右手を見ると、榛名川の対岸に鞍掛岩が見える。


写真では分かりにくいが、岩が庇のようになっていて、左下に石灯籠が献ぜられている。これが鞍掛岩で、元々は洞穴状になっていたものが崩れ落ちて、現在のようになったものだと考えられている。

鞍掛岩にまつわる伝承などは特に伝わらないようだが、『榛名神社史跡めぐり』によれば、「くらかけ」とは「いわくら」が欠け落ちたことから由来する名称ではないか、という説を紹介している。
全国の「くらかけ岩」の名称を考える時の参考に資する。


犬神石


三の鳥居をくぐると、左手に「御庁宣の碑」が建ち、右手に2~3の石碑が並んでいる。
この左手の石碑の1つに「古谷トマト」と刻された石碑があるが、この台石に使われているのが犬神石である。

三の鳥居越しに石碑群を写した写真

犬神石の表面には窪みがあり、窪みに水が溜まっている水を目に付けると眼病が治るといわれている。


行者渓


岩壁が張り出してきてオーバーハング状になったところに「神橋」がかかる。


神橋の左手を見ると、渓谷沿いの両岸に岩山が対峙する。


ここは通称「行者渓」と呼ばれ、役行者が修行を行なった伝説地に位置付けられている。一種の仙境と言って良い景観だ。


行者渓の右手の岩の下端には、扉が取り付けられており、東面堂という堂跡といわれている。

東面堂跡

そして、行者渓の左手にある巨岩の奥方には、朝日岳(雷天岳)・夕日岳(風天岳)と呼ばれる岩山がそびえたつ。朝日岳の中腹あたりには「宝珠窟」なる洞窟があるという。


瓶子滝・瓶子岩


行者渓を後に進むと、手水所が設けられている。この手水所から榛名川の対岸を望むと、巨大な岩壁が広がり、その中央に小さな滝が流れる。
これを瓶子滝(みすずのたき)と呼ぶが、これは後世に人工的に作られた滝である。

滝の両側に構える、ひょうたんを横倒しにしたような岩が瓶子岩で、これは自然の造形という。


鉾岩


瓶子滝を背にしてふりかえれば、やっと榛名神社本殿ほか、国祖殿、額殿、神楽殿、札所などが集まる社殿鎮座地に到着する。

手前に門があり、これを双龍門と呼ぶ。その背後に塔のように屹立しているのが鉾岩(ヌボコ岩・ローソク岩とも)で、双龍門と併せて榛名神社のシンボル的存在である。


弥陀窟


双龍門をくぐると、鉾岩の横にはそのまま岩山と言ってもいいような岩壁が広がっている。

鉾岩(写真左)と弥陀窟(写真右)

この岩壁の上方には3ヶ所ほどに窪みが存在し、この窪みには阿弥陀三尊がまつられているとも、弘法大師の彫った阿弥陀如来像が納められていたともいわれており、ここを「弥陀窟」と称している。

弥陀窟の3つの窪み(写真中央上)

かつては弥陀窟から鎖を垂らして登攀していたともいわれるが、現在は立ち入ることができない。


御姿岩


弥陀窟の岩壁と向かい合って、榛名神社の社殿が鎮座する。
現在残る社殿は江戸時代後期の建築であるが、本殿の半分が背後にそびえる岩に取り込まれたかのごとき外観を呈している。




この岩が御姿岩(みすがたいわ)であり、その名称の由来となったか、岩はまるで頭部と胴部に分かれるかのような独特な形状をなした立岩で、他に類を見ない。高さ約80mといい、榛名神社の神符はこの御姿岩を模した図柄を採用している。

ちょうど首元に当たるくびれ部分には竹製の梵天(御幣)が斜めに挿さっており、この祭祀形態も興味深い。

毎年、4月30日から5月1日の未明にかけて、夜の間に神職のみ参加する御岳祭(非公開)が催行され、この時に御姿岩のくびれ部分に梵天を指すのだという。

なお、御姿岩には「おはぜ岩」の通称も残っており、おはぜは男茎の意である。


秘所「御内陣」に関する二つの記録


さらに、御姿岩の下部には洞窟状の空間が広がっている。
この空間を「御内陣」と呼び、祭神をまつる場というが、神職者さえも見ることのできない「秘中の秘」とされており、60年ごと、丙午の年に一度だけ扉が開けられるともいう。

しかし、考古学者の大場磐雄博士は昭和9年(1934年)の榛名神社調査時、当時の社司と社掌の案内で本殿内に入り、御内陣の様子について博士は調査メモ『楽石雑筆』に記録を残している。以下引用する。

本殿内に入る。ここは巨巌中の洞窟に内陣あり、今一ニ三の扉あり、洞窟は自然のものにて頗る広し、今最も奥に土壇ありて上に七個の壺あり、一個は破れたり、素焼無文、手捏製に大小ありと、これ御霊代なりという。壺は色黒褐色にて中に土入れたり、その図は別に送りくれる事とす。維新前迄はこの洞窟前の仏像あり。中央に将軍地蔵、右に不動、左に多聞、更にその前の中央に大天狗、左右に小天狗ありき、これを総称して満行大権現といえりと、蓋し本社は巨巌崇拝に起りしならむ。

御内陣の洞窟が自然形成と思われること、七個の壺がありこれを御霊代としていること、土器の無文様や内部の土など、大変興味深い情報が散りばめられている。


このあたりの御内陣の様子については、他にも佐々木英夫氏が「日本の祭りの原初的形態について 榛名神社の神事の事例研究を中心として」というインターネット上の論文の中で詳細を記しており、そちらのほうがより情報が豊富だった。
残念なことに2020年現在この論文は閲覧できなくなっているため、ネット上の記録保存の一環で、その一部をここで触れておきたい。

佐々木氏は、明治3年、新居守村という神道家が明治政府の命令により「神仏分離取締」として榛名神社に調査に来た際、御内陣の様子を克明に記録した報告書の存在を明らかにし、それとあわせて、榛名神社の前宮司や町史編纂室の清水善臣氏など、関係者からの聞き取りも紹介している。その記述を抄録すると下記のとおりだ。

  • 洞窟内は天井から水滴が滴り落ちていた。
  • 洞窟内部には壺が八個ある。そのうち六個は完形だったが、二個はヒビが入って崩れていた。
  • 洞窟の上方には穴が開いており、そこから風が吹いていたという。これは、御岳祭の時に御姿岩のくびれ部に梵天を挿す時の穴ではないかという。


大場博士の記録との最大の違いは、御内陣の壺の数だろう。昭和9年の大場博士は7個(うち1個破損)と記し、明治3年の新居守村は8個(うち2個破損)と記す。
時系列および破損していたことを考慮すれば、大場博士が訪れるまでに壺1個が撤収された可能性、ないしは、破損した2個を1個と見間違えた可能性などが指摘できる。

御内陣と、御姿岩に挿された梵天が空間的につながっているという話も注目点である。
佐々木氏は「御岳祭の際に竹に付着した神霊は、その穴を通って本殿まで降りて行くことが実感できたということである」と評価しているが、これは、梵天がいわゆる神が憑依するための目印たる依代だったということになる。


御姿岩の性格とは


そうするならば、御姿岩という岩石自体の役割や機能は何なのだろうか。

梵天という目印を目指して神が祭祀の時にやってきて、風の通り道を通じて御内陣内部に神が宿るから、御内陣は秘中の秘となって、そこに置かれた土器群が御霊代とみなされた。

ならば、御姿岩は神そのものではなく、神が憑依する祭祀対象とも言い難く、御内陣を物理的に形成する岩石の神殿のようである。

御内陣という神宿る空間=クラ(凹部)を宿した岩石という意味で、磐座という字を当てるより磐蔵・岩倉という「蔵庫」的な性格の「いわくら」として位置づけることもできなくない。

また、禁足地の結界という意味では一種の磐境のような働きをしているとみなすことができる。


一方で、御姿岩の頭部・胴部からなる人格神たる外形や、御姿岩の別称である「おはぜ岩」から類推される男性神的信仰と、下部に擁する御内陣の洞窟は女性神的性格も兼ねているとも言える。
すなわち、御姿岩の岩石としての形状そのものに、単なる「装置」以上の人格神的な性格が備わっていることは否定できず、この側面から御姿岩を見れば神ではない、祭祀対象ではないと言い切れない要素もある。

このような、磐境的な側面、蔵庫的な側面、祭祀対象的側面の複合した存在が御姿岩であり、それら各側面の時代的先後関係は不明であるし、同時代においても信仰者によって差異が生じていたかもしれない。

少なくとも、神仏の御姿として御姿岩と呼んだ人々と、性神を見出しておはぜ岩と呼んだ人々には、互いの認識に隔たりがあったのではないか。


修験道の立場からも付記すべき点がある。
御姿岩と弥陀窟は互いに向かい合っていることから、ここを霊場とした行者・修験者たちは、弥陀窟の窪みに座して、向かいの御姿岩を「仏の顕現」として祈りを捧げる行をしていたのではないかという説を、先出の清水喜臣氏が「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」(1990年)において提示している。

顕現という概念自体が、信仰対象の実体を直接あらわすものではなく、いわゆる不可視の次元にある存在の視覚化、象徴化という意味を包含するものであり、これ自体が、御姿岩の視覚的な性格を示していると言って良いだろう。


「形(みかた)、石に坐す」という古典の表現がある。
「みかた」(形・御形・御像)とはすなわち、御姿岩のような、磐境的な性格、蔵庫的な性格、石神的性格が重なった岩石に対して称せられたのではないかと本事例を通して考えさせられた。


榛名神社奥~山頂


榛名神社から山頂に向けて、数々の奇岩怪石が存在する。


上写真の柱状の岩は、江戸時代に描かれたとされている榛名山の絵図の中では、おおよそ「カンノンノタケ」「山王ガタケ」と書かれた岩の辺りに位置する。

写真を撮り忘れたが、この柱状岩からさらに進むと、巨大な岩屋のような様相を呈した、岩々と山肌からなる景観が広がる。先述の地図では「ウバフトコロ」という場所に該当する。

他にも、この絵図には様々な岩の名前が登場する。

境内地の辺りではサバ石・フジイワ・袖フリ岩・ヒジリ岩・ゾキ岩・ゴシン石、神社より下の方ではタイシノイワヤ・ダルマ石・スベリイシ・カウシ岩、周辺にはノゾキ岩・ポンポン岩・ナナヒロ石・ヲツタテ岩など、枚挙に暇がない。

また、朝日岳・夕日岳付近に「シシ岩(獅子岩)」があり、このシシ岩の周辺が9~12世紀の榛名神社巌山遺跡の見つかった地点という。

また、榛名川を上流沿いに登っていけば、大黒岩、九折岩、ミミズ岩、金剛界、胎蔵界と呼ばれるような岩々にも遭遇することができたはずだが、探訪時は道なりに進んだら車道に出てしまい、その車道を登って山頂に行ってしまったため、これらも未見ある。
特に九折岩(つづら岩)はまるでつづらが積み重なったかのような岩峰として有名な奇岩だが、未見のままとなったのが悔やまれる。


このように、榛名神社から榛名山頂の榛名湖まで、およそ登りで約1時間かかる。

山頂には、冒頭で触れたとおり榛名湖と榛名富士(1391m)があり観光地化されている。

榛名湖と榛名富士

この榛名湖の西岸側にそびえる掃部が岳(かもんがおか。1449m)の北尾根に、硯岩と呼ばれる岩がある。一つの峰全体が岩場になっており、榛名湖越しに望むことができる。

硯岩(写真中央の山頂)


参考文献

  • 清水喜臣 「榛名神社の起源についての一考察-巌山遺跡の研究-」 『巌山』(榛名町歴史民俗資料館紀要 第3号) 榛名町歴史民俗資料館 1990年
  • 佐々木英夫 「日本の祭りの原初的形態について 榛名神社の神事の事例研究を中心として」http://homepage2.nifty.com/japanpi/matsuri01.htm(2012年10月30日閲覧。現在リンク切れ)
  • 角田文衛(解説)・大場磐雄(著)『記録―考古学史 楽石雑筆(中)』(大場磐雄著作集第6巻)雄山閣出版 1976年
  • 『榛名神社史跡めぐり』(著者・発行年ともに書誌事項未記載)
  • 榛名神社 『榛名神社略記』(神社由緒書)
  • 現地看板


2 件のコメント:

  1. 大変楽しく拝読いたしました。特に御内陣のくだりは興味深いです。
    この榛名神社には謎が多く、明治期編纂の上野国名跡考や上野国名跡概略には「かつては伊香保神社であった」旨の記述が見られ、また、江戸末期の上野名跡志や上野志では箕郷からの遷座の可能性を示唆しています。御内陣に仏教の神々が奉られているとなると、ますます神社としての態様がぼやけることとなり、一層心が惹かれます。

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    1. ご感想ありがとうございます。
      創始こそ「神社」のカテゴリーにあるものの、かなり早い時期から、神と仏が不可分な関係で長期間あり続けた場所だったということでしょうか。

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