奈良県生駒郡平群町越木塚
平群石床神社旧社地に残る「石床」
享保19年(1734年)成立の『大和志』に「平群石床神社 在越木塚村称曰巌上祠傍有巨石名石床」とある(「人間文化研究機構国文学研究資料館データベース 大和志」72頁)。
同じく江戸時代の絵図には「岩神」と記載されているといい(大場磐雄「日本上代の巨石崇拝」『歴史公論』第6巻第8号、1937年)、少なくとも江戸時代には岩神・巖上の字を当てられる存在であったことと、それが延喜式内の「大和国平群郡鎮座 平群石床神社」の石床と同一視されていたとわかる。
上写真のとおり、全体的な形状は複雑な亀裂・群集具合を見せる岩崖のようだが、大場博士は、上記文献において「御石は花崗岩質」で「二塊」の石から構成され、「大なる方は高四間幅八間位、小は高三間幅七間位」と記している。
さらに、「御石の形状がニ石合して中央に孔を有し、恰もヨニの如き観を有するので、何時しか俗信仰が発生し、甚だ畏れ多いことながら、消潟大明神として喧伝され、事実下の病その他性的疾病の願望に効目があるとて、なかなかの繁昌を示してゐる」と続けている。
すなわち、元は「自然の巨巖を神床として鎮座まします」ものが、この二石の形状を以て後年、性信仰に派生したとの推測を施している(畏れ多い~のくだりは、発表年1937年という社会状況を考えて博士が遜ったものであろう)。
実際のところは、性信仰が後発的な信仰だったかどうかは検討の余地があり、当石が岩神・巖上・石床と呼ばれていた頃において性信仰の要素が皆無だったか、はたまた、石の形状に対して性的要素を見出していたかについても批判的に見る必要はあるだろう。
「石床」についてのもう一つの可能性
「石床」という表現について、大場博士は『延喜式』に三社見られることを挙げて、これらがいずれも「神の床」としていわゆる磐座の類語に含めた。
これを基に、今も石床は磐座の事例と片づけられることが多いが、平群石床神社のそれが「床」に見えるかというと岩が重なったように高さのなす岩崖であり、「岩神」の名称も残っているように、磐座一辺倒ではない受け止め方も想定される。
また、「床」という言葉自体が、いわゆる現代の「床」の意味と同じとも限らない。
『播磨国風土記』には、次のような話もある。
「伊師(いし) 即ち是は桉(くら)見の河上なり。川の底、床(いし)の如し。故、伊師といふ」
椅子の字をかつてイシと読んだことから、イシの地名由来について、それは石の如しではなく椅子の如しによるものだと解された一節である。
同音の言葉同士を紐付けた、言ってしまえばこじつけレベルの地名起源説話と理解することもできるが、ここで考えたいのが、当時の人々もしょせんそのレベルで言葉をあそんでいたという点である。
その「あそび」により、本来その言葉・字が持っていた意味を逸脱したり、派生したり、くっつけ合う働きがあったことで、後世、石と床の関係にも影響を与えた可能性がある。
なぜ石と床が結びついたのかは、なんとなく常識的に、神の座する磐座の発想で石の床という類語が発生したのだろうと考えるのが従来的な発想だろう。
しかし、この風土記例を考慮すると、当時すでに、本来異なる意味を持つ別語だったイシ(石)とイシ(椅子)の意味の混同が、それこそだじゃれの感覚で風土記当時には発生しており、それはそのまま、石あるいは石という言葉に対して抱く心性のひとつに「椅子・床」的性質が自ずと親しくなった理由の一つで、その残欠がこの記述ではないかとも解釈できるのである。
それが「桉(くら)見」の河上にあるという「くら」との関連は、さすがに考えすぎだと思うが。
日本書紀において「磐石」で「イハ」と呼んだように、石床も「イシ」+「イシ」の組み合わせとして生まれた熟語で、それがさらに後世にイハトコの読みを与えられたのかもしれないと想像を広げていくと、床に見えず岩神とも呼ばれた「石床」の、もう一つの文脈が浮かび上がってきて面白いのである。
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