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2020年12月15日火曜日

多度大社と多度山の岩石信仰(三重県桑名市)


三重県桑名市多度町

多度山には、「五箇の神石」あるいは「五箇神石」「五石」などと総称される5体の神石が存在する。
これは、影向石・御供石・籠石・御櫃石・冠石の五石を指す。

拙著、吉川宗明『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』(遊タイム出版、2011年)のなかに 「多度山の五箇神石(三重県桑名市) 錯綜する神石の所在と経塚祭祀」の一節を設けて説明しているので、詳しくはそちらを参考にされたい。

ここでは、掲載しきれなかった写真および、その後に入手した情報などを補記しておきたい。


影向石(かげむくいし/かげむきいし)


多度大社境内にある。

最新情報としてここで取り上げておきたいのが、影向石の周辺環境の変化についてである。

2020年1月に参拝した際、影向石の前に「国幣大社御昇格百年 大社号奉称二十年 記念事業」の奉賛者一覧を記す看板が新設されているのを目撃した。

新設された看板

後ろを覗くと…

これが影向石。看板だけでなく草も繁茂してわかりにくい。

2011年時点の影向石。まだ参道沿いで繁茂もなくわかりやすかった。

影向石は看板の裏に隠れ、より一層認識されにくくなり、記憶の風化に拍車がかかる状況となった。ここしか看板を設置する場所がなかったのかと疑問に思わざるを得ない。

神社関係者ならここに影向石があると当然知っていたと思うが、これまで五箇神石の横に名前を書いた標識は建てられたことがない。神聖なものを意図的に大っぴらにするものではないという価値観なのかもしれない。その理もあるだろうが、秘密主義で記憶風化につながる行為は、神話・伝説の継承者が不足することが明らかなこれからの社会を見据えると、岩石と岩石の歴史にとって消失の危険が増すように思う。


御供石(おそなえいし)と御櫃石(おかろといし)


多度大社の本宮拝殿の前に、参拝路をまるで塞ぐかの如く存在する岩塊が御供石である。
かつて戦国期に社殿が一時焼亡した時、代わりに供物を置いた岩石と伝わる。

御供石

御供石

正月参拝時。横を多くの人が通り過ぎていくが…

石の周囲には注連が張られ、参拝時には確実に目に入る存在ではあるが、この石に名前がついており、その由来を知る参拝者がいかほどかというと、きわめて僅少と思われる。


そして拝殿の裏、本殿の手前に御櫃石(おかろといし)もあるが、外から確認することはできない。

私は、仲介していただける方がいたので神職の方同席の上で、お祓いしていただき実見することができたが、写真は遠慮した。
記憶がおぼろげだが、本殿向かって右脇に、社殿となかば取り込まれるような状態で露出する岩盤だった。

多度大社本宮。拝殿と本殿の間に御櫃石がある。


籠石(こもりいし/かごいし/こうごいし)


明和7年(1770年)、斜面の上から転がってきて、わずかな樫の木に支えられて止まったことが「稀代の不思議」であったと伝えられる石。

多度大社本宮拝殿の横の崖に突き出る岩塊が籠石

籠石近景。石の下部は補強されているようだ。

石とともに、30面の平安時代の鏡が見つかった。その場所については、斜面の上からという説と、もともと今の籠石がある辺りにあったものと考える二説に分かれている。

大場磐雄氏の調査メモ『楽石雑筆』によると、これら鏡類の出土場所は「壺ノ陳場」であるという書き置きの存在を記し、「壺ノ陳場とは本社裏の亀尾山付近をいうか。又近くに八壺谷等いう所あれば、或はそれ等と関係あるか。蓋し壺というは経塚にして外甕又は経筒の壺いでしに名ずけたるかとも考えらる」と推測している(森貞次郎解説・大場磐雄著『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』(大場磐雄著作集第6巻 雄山閣出版 1977年)

この壺ノ陳場であるが、江戸時代17世紀末~18世紀中頃に成立した『多度大神本縁略記』によれば「瓶陣場」という場所が瓶尾山の峰から少し下ったところにあるといい、そこから元文3年(1738年)に鏡18面が出土したと記されている。
この「瓶陣場」が「壺ノ陳場」のことではないか。


冠石(かんむりいし)


ものの本ではおおむね「冠石」と総称されるが、唯一、『多度大神本縁略記』にのみ「上冠石」と「下冠石」の二つに分かれていることが示されている。

堀田吉雄氏「三重県の石の民俗」(『近畿地方の石の民俗』明玄書房 1987年)によれば、冠石は「一目連さまの冠だという石がある。冠の形に似ているから、そのように呼ばれたのであろう」という。

この上冠石・下冠石の特定ができていない。
文献調査および現地踏査の結果については前掲拙著で報告したが、それらしき露岩について複数写真を掲載し、後学の参考に代えたい。

なお、冠石にいたる道は特にないので、じゅうぶん注意していただきたい。

上冠石・下冠石が所在するのは一大岩盤の尾根でありある種全てが冠石とも言える。

尾根上にある岩塊の一つ。

冠のような烏帽子、立石状の岩石は数多あり外見では特定不能。

尾根の最先端部にあり、かつ、尾根内で最も大規模な巨岩。私は下冠石と推測。

先ほどの巨岩の上方。亀裂が入る。


多度経塚


上冠石と下冠石が存在するであろう巨岩累々の瓶尾山の尾根のことを「おかめさんのはら」や「亀の尾」と呼び、この尾根に露出する巨岩群は中世、経塚に利用されたと推定されている。

大場磐雄氏は昭和12年、地元の郷土史家である伊東富太郎氏らの案内でこの尾根を踏査しており、以下のように『楽石雑筆』にメモを残している。

「渓流に沿うて進むこと数丁。それより山林中の道なき所をかきわけてよじ登る。付近に巨岩磊々たり。やがて亀の尾に至る。ここは多度山の先端頂上に当り、本社の真上にしてここより物を落さば籠石の辺に落つるべしという。この巨岩累々たる中より昭和四年伊東氏によりて経筒(陶製)破片を発見せられ、今もなおその破片多数散乱せり。今その状況を見るに三個の巨石盤居しこれを中心として石塊群あり。故意に集めしか否か、なお考慮の余地ありとするも、古来ここを神聖なる地点として経塚を造営せしは推定に確かならず。ここにて、二、三枚カメラに入れ、暫らく眺望をほしいままにす。ここより東南に伊勢海、知多半島を見るべく、又南方に朝熊山を呼応す。景勝の地というべし。」(前掲『記録―考古学史 楽石雑筆(下)』1977年)

さて、この時撮影したと思われる写真が國學院大學の「大場磐雄博士写真資料」内で公開されているので、併せて参考にされたい。

「目録番号ob1067 多度山頂磐座」
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_fop&data_id=1474


さらに、大場氏が経塚として報告した「三個の巨石」と、景勝の地として評価した光景は下写真に該当するのではないかと思い掲載する。

経塚を構成していると思しき石塊群

この辺りは自然の景観が織りなす玉砂利か斎庭のごとき清浄感を有する。

露岩群との境

尾根自体がガレ場であり斜面下の落石の可能性も肯ける。

尾根の露岩群を上方から下方斜面に向けて撮影。

一大岩崖。瓶陣場(壺ノ陳場)、はたまた上冠石か。

大場氏も見たであろう眺望か。


美御前社(うつくしごぜんのやしろ)


多度大社の境内摂社。市杵島姫命をまつる。

穴の開いた石が社頭におびただしく奉じられており、多度の五箇神石には数えられていないが、今も続いている岩石祭祀の事例である。

2011年参拝時の奉献状態

2020年参拝時の奉献状態。2011年と比較すると諸々興味深い。

美御前社

社頭看板

これらは現在、耳・鼻・口の病気や女性特有の病にご利益があるということで支持を集めているが、その一つの対照的な記述として、前掲の堀田吉雄氏「三重県の石の民俗」(1987年)から下記引用する。

「美し御前社の格子のところには、穴のあいた小石が常に置いてあったり、糸で吊り下げられている。これは耳の病に苦しむ人、とくに耳の聞こえの悪い人々は、この社に祈願すると効験大であると信じられ、穴あき石を賽物としてささげる風習がある。」

1980年代の当記述では、耳の病に特化した霊験におさえられており、現代広まっている信仰と比べると、奉献方法の違いも含めて、この数十年ですでに変化が見られるようである。

現在説かれている祭祀・信仰が不変の内容か否か、歴史的に研究する時に気をつけたい視点である。


くじゃく石


多度大社の南約1.5kmの地点、桑名市多度町北猪飼に所在。




田んぼの中に石壇が設えられ大切にされている。

傍らに石碑が立っており、名前のみ判明。

多度大社の祭礼に関連のある石とも、誰かが石の上に立って何かを吹いたとも伝聞したが、私の調べが甘くまだはっきりしない。


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