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2021年1月2日土曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(2)


石の大きさと、石の出現と


「石つぶて」~「大石」の見出しについては、それ自体が石の大小に関わらず石神論が成り立つことを示している。

それはそのまま、巨石信仰というカテゴライズへの痛切な批判に使うこともできなくないが、巨石に熱中するという現在の現象は一つの石愛研究になりうるし、研究史で追う限りでは現在と過去の研究者の温度差を感じ、なぜ小さい石への眼差しが継承されなかったのかという問題に思いをいたすのである。

折口の問題意識は石の大小にはなく、いわゆる「大石」「生石」が同じ「おひし」の音をもち、その起源について生石のほうに一票入れているようである。

「一夜、忽然出現」「石を以てする神出現の証――地蔵」「石出現の夜の行事」のくだりはそうした折口の論理を補強するところであり、石が現れる出現石伝承や石が大きくなる成長石伝承は、石が漂着神の装置的な側面だけでなく、神が出で入るものだからこそ、その装置も物からモノ化して石自体に霊性が分与・伝存したという見方なのだろうと推察する。石の分霊観もその文脈で語ることができる。


「石の旅行性」「石の人による旅行」もモノ化の証左だろう。

旅行性は神や霊の移動にもなぞらえられ、石が人のようにふるまうことの一つである。
なぜ石が人のようにふるまうか、これは後年、石上堅が『石の伝説』(雪華社、1963年)で次のとおり評価づけている。

「まるで石が人間のように動いているように語られることで、どんな人にでもすぐ理解ができるように話作りがされているということを石上は指摘する。石自体が身近に存在する素材の一つであり、そのような身近な石をなでたり抱いたりすることで願いが叶うと信じること、あるいは小石を生んだり音声を発したりする石を信仰の対象とすることは、小難しい宗教知識を持たない庶民の間でもすぐ受容されたというのである」(拙著『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』遊タイム出版、2011年)

石上堅の論に従えば、中近世に登場した遊行者・座頭・巫女などの宗教喧伝者出現以前の岩石の伝説というものは、現在伝わっている内容とはまた色を異にするものだったのかもしれないと想像される。

やはり、現在残る民俗例だけを見ることの危険性と、言語化された資料の扱いの危険性が歴史的な文脈からも指摘できるのである。


石の洗礼―成年戒と印地打ち―


「石の洗礼」は、石の旅行性の見出し群の中に挿入されるくだりで、その後世の関連性を読み取るのは難しいが、成年戒と印地打ちの二つのキーワードから想像を広げてみる。

「成年戒」は、その言葉のとおり成人になるためにしないといけない通過儀礼のことを指す。

「印地打ち」は、正月や端午の節句に子どもや若者が石を投げ合う「石合戦」の行事を指す。

首藤美香子氏「『こどもの日』の社会史試論」(『白梅学園大学・短期大学紀要』49、2013年)では、印地打ちについて次のとおり説明している。

「節句に石合戦をすることの意味をめぐっては諸説あり、『水辺における成人戒』『殺伐なる年占法』『地を印して境を競うた』などとされるが、たとえば、礫にあたるのは霊性を受け邪気を祓い清めることであり、礫を投げる行為は破邪の行為であるからこそ、石投げにより男児が息災を約束されたのではないかという解釈も出されている」

礫のことを印地というので、折口漂著石神論計画の「石つぶて」と通じ合う。

このように、石の洗礼は成年通過儀礼の事例をとおして語られているが、これだけでもいくつかの論点を挙げることが可能だ。

  • 石の万能性…石を力の象徴として語ることも、石占として用いることも、境を決める石として用いることもできる。汎化してしまう石をどのように論じるべきか。
  • 水と石の関係…水辺で石合戦をして、河原の石の中で儀式が行われることの価値。山と海をつなぐ場所が川辺でもあり、他界の神の依りつく地点(石の旅行性)としての位置づけも可能。
  • 可動的な石の処遇…印地打ちで用いられる石礫は、いわゆる不可動的な岩ではなく、道具としての小石である。そして、その礫は投げられ、使われたあとに儀礼道具としての機能を終える。生産地点でもあり、使用跡でもあるという印地打ちの石の特異性。


漂著石神論計画の11~20まで進んだので、続きはまた別記事で行いたい。


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