2021年1月31日日曜日

阿智神社の岩群(岡山県倉敷市)


岡山県倉敷市本町


漢王朝の末裔を自称し、朝鮮に逃れていたとされる阿知使主(あちのおみ)は、17県の郎党を引き連れて来朝し、東漢氏として帰化したと『日本書紀』応神天皇条にある。

阿智神社の社伝によれば、このとき東漢氏の一部が当地に到来し、日本列島の磐座・磐境の祭祀形態に基づきながら、大陸由来の神仙蓬莱思想や陰陽思想を取り入れて配置・構築したという。
その跡とされる岩群が阿智神社境内に現存しており、原始庭園の通称や日本庭園の祖型と呼ぶ人もいる。

羽石(鶴石組)と阿智神社社殿

亀石組。左が亀頭石、右が亀甲石。

天照皇大神をまつる祠の後ろに「磐座」と名付けられた岩石がまつられる。

上写真の「磐座」の近景。玉垣の奥(外と言うべきか)に位置する。

「磐境」と名付けられた岩群。帯状とも蛇行状とも形容される。

本殿北斜面の玉垣外にはこのような大小の岩石が群在している。

現地看板。岩石の配置平面図が掲載されており全体把握の参考に。

写真で見る限りは、これらすべてが人為の設置か自然の営為かを見極めるのは難しいところがあるが、庭園研究者の見立てでは以下の指摘がなされている(重森三玲氏・重森完途氏『日本庭園史大系第31巻』社会思想社 1975年や、河原武敏氏の文責による現地看板など)。

  • 鶴・亀を模した岩石の配置
  • 斜面上に大小の岩石を列状に並べた枯滝
  • 陰陽石の配置


このような特徴を持つ岩群であるが、人工的な設置、そしてさらにそれが真に庭園の源流にあたる設計が意図的になされたものかは十分に検討されたとは言いにくい。斜面上の枯滝などは、枯山水の思想で考えれば古代ではなく中世以降の影響も考えられる。東漢氏がこの地に渡来して手掛けたかも半ば伝承上の話となっており、そこを根拠にすることも慎みたい。


八木敏乗氏は『岡山の祭祀遺跡』(日本文教出版 1990年)において阿智神社を取り上げ、この岩群の形成についてさらに突っ込んだ推測をおこなっている。

いわく、本殿向かって左にある現在「羽石」「鶴石」「亀石」と呼ばれている岩群のあたりは人工的に動かされたもので、それに対して本殿の右にある現在「磐座」「磐境」と呼ばれている岩群と、本殿右後背と左後背に広がる岩石群は原初の状態のままを残した自然石であろうと、岩群によって人為のものと自然のものがあった可能性を示している。

そして、本殿左の鶴亀石の一群についても、その人為設置の理由について、

  • 社殿構築のために丘の頂上を整地した際、頂上にあった岩石を移したもの
  • または、整地掘削の際に起こし出された岩石を、庭園石組の法則に準拠して配置したもの

と二通りの説を併記している。
このように、阿智神社のすべての岩群をすべて同時期同成因による庭園と一括することは避け、自然石の景観、社殿祭祀、社殿以前の岩石信仰の可能性、庭園施設への活用といった複数の文脈が輻輳したうえで現状の景観があることに気をつけたい。

ただいずれにせよ、現在、神社にとっては当地を開拓した祖先が構築した神跡として神聖視されていることは間違いない。

八意思兼神をまつる境内石祠とその背後の注連縄が巻かれた岩塊


2021年1月24日日曜日

長森岩戸の岩石信仰~岩戸岩窟観音・岩戸の滝・岩戸八幡神社・岩戸神社・岩戸弘法弘峰寺~(岐阜県岐阜市)


岐阜県岐阜市長森岩戸


金華山南麓に長森岩戸(旧・岩戸村)と呼ばれる地域が広がる。

ここには岩戸森林公園という広大な公園が造成され、駐車場も整備されているので金華山登山の入口としても人気を博している。

「岩戸」の名は、当地に開闢された「岩戸岩窟観音(厳窟観世音菩薩)」の存在に由来するらしい。

また、『延喜式』神名帳には厚見郡物部神社の名が登場し、物部神社の鎮座地には諸説あるものの、一説に岩戸の地が挙げられる。
現在、その候補地には岩戸の名と関連される岩・石も残っており、本記事ではそれらを一括し「長森岩戸の岩石信仰」と題して紹介する。


岩戸岩窟観音(厳窟観世音菩薩)


当地を支配していた城主・斎藤利永(後の美濃守護代)が、文安2年(1445年)霊夢を見て、この岩窟に聖徳太子作の聖観音菩薩像を安置したという縁起が語られている。

いわゆる戦国時代における金華山の城郭史の中に組み込まれた宗教伝承ではあるが、なぜこの岩窟が選ばれたのかという理由は語られておらず、それ以前の歴史は不明である。

式内物部神社の旧社地はここであるという話があるそうだが、説の出所ははっきりせず、確たる資料に欠ける。

岩戸岩窟観音 入口

石段を数分登ると岩戸観音安置の地に到着。

堂内は秘匿されている。

境内の一露岩


「岩戸の滝」の地蔵石


「岩戸の滝」は、岩戸観音に接しており行場の霊滝としての存在感漂うが、実は明治40年に公園化や集客化の一環で造られた人工の滝である。

この滝を造るために近在から数々の名石が運び込まれ、特に、滝の台石には砥石のように滑らかな石面を持つ一大巨石が用意された。この台石のことを俗に地蔵石と呼んだそうだ。

この台石は、元はすぐ南の岐阜市雪見町に架かる石橋を転用・移設したものであることが明らかになっている。

岩戸の滝。滝の底面に滑らかに光るのが俗称地蔵石。


岩戸八幡神社と岩戸神社


名前が似通っているが、長森岩戸には岩戸八幡神社と岩戸神社という別々の二社が、近い場所に鎮座し合っている。

このうち岩戸八幡神社については、明治34年に海津市高須町にあった日下丸という集落の氏神・八幡神社を当地に遷座したものということがわかっている。
経緯は、日下丸集落が揖斐川の氾濫対策の改修で地区ごと水没、移転の憂き目にあったものという。岩戸村とはやや離れた距離にあるどのような縁によるものかわからないが、両村合意の上で、岩戸村の新たな鎮守として迎え入れられたものだという。

この話を踏まえれば当社は近代以降の歴史ということになるはずだが、当地も式内物部神社の旧社地だったという一説がある。
つまり、元来物部神社があったと伝えられる故地に、新たに八幡神を勧請したという流れで、土地の選定にそのような地元の口承が働いていたのかもしれない。

岩戸八幡神社

岩戸八幡神社境内の担石

現境内には担石(力石の意か)が残されているほか、当社の裏山が古道の一つであったなどの歴史的な傍証もあるそうだが、個人的には当社のすぐ北に鎮まる「岩戸神社」という別社の存在が興味深い。

こちらの岩戸神社は、どうやら物部神社候補地に挙がることが少なかったようだが、地理的には岩戸八幡神社の鎮座地と尾根を一つ隔てただけであり、口碑の曖昧性を考えれば誤差の範囲にも入る。

当、岩戸神社の起源も調べ切れていないが、当社のポイントは社殿下に露出する岩盤の存在である。
「岩戸」の由来となるような構造をしているかといわれると全貌を確認できないので何とも言えないが、岩盤の上にコンクリートの基礎と石段を打ち付け、そこに懸造の社殿と回廊を建てている。とにかく岩盤上に社を築きたかったという心理は伝わってくるが、ではその岩盤が物部神社問題と直結できるかというと安直なので差し控えておく。

岩戸神社

岩戸神社社殿

社殿下の岩盤

岩盤の近影。写真左に古い石段のようなものが見える。


岩戸弘法弘峰寺の岩石祭祀事例


岩戸弘法弘峰寺(こうぶじ。以下、弘峰寺)は岩戸公園に隣接し、岩戸岩窟観音と二社の岩戸神社の間に立地する。

その位置と名称から否応なく注目せざるをえないが、当寺は戦後昭和年間に新しく発願・建立された祈祷寺である。
落慶時には、高野山から鎌倉時代製作の不動明王像を迎え入れた堅実なる真言宗派の寺院であるが、最近はインスタ映えする数々の御朱印が人気を博し、パワースポットや新たな観光地として成長拡大路線の最中のようである。

さて、なぜ当地に霊場を発願するに至ったのか、それは創建者たる最初の住職の方に聞かないといけないだろうが、立地的環境として境内には多数の露岩群が散在していることを挙げたい。

弘峰寺全景。裏山に岩崖が見える。

寺の一部

本堂背後の岩肌

これら、岩石を利用した聖地の筆頭が本堂を構成する岩窟であり、弘峰寺は「日本最大級の岩窟本堂」と銘打っている。

私の探訪時は、本堂正面は閉じられお寺の方にもお会いできなかかったため中に入るのは遠慮したが、弘峰寺公式ホームページには岩窟本堂の写真が掲載されているので参考にされたい。

岩戸弘法弘峰寺

荘厳さ際立つ威容であるが、岩戸地区の他の歴史資料と絡めて取り上げるのではなく、現代の生きている信仰霊場として別次元で位置づけるべき存在である。

岩窟本堂は見逃したが、境内の背後裏山に参道がまだ続いていたので、山道を駆け上ったところ、山肌には大規模な岩盤や巨岩が屹立し、そこには懸造の小堂が設えられていた。
まだ建築は真新しく、奉納された幕には令和元年の寄進年が記されていた。

弘峰寺裏の参道

登りきったところ。金華山一帯が岩盤の宝庫である。

岩上の堂


境内は人工的に整備されているが、山肌の傾斜やその規模から、露岩のほとんどは当寺建立前から露出していたままと考えるのが適当である。弘峰寺の土地選定理由にはこの岩石環境があったのではないか。つまり、弘峰寺は現代の岩石信仰の事例としてじゅうぶん資料化できるのである。

いわゆる近世以前の歴史資料と一線は画するが、現代のすべての営みが歴史学の対象になるとも言える。
長森岩戸の岩石祭祀の事例には、文献記録が不足しているところが多いが、それは単に調査が足らないだけか、本当に記録自体が欠損してしまっているのか。後者だとしたら、現代おこなわれている信仰のかたちを記録化しておくことも歴史学であり、長森岩戸の未来の歴史研究に資するはずである。


2021年1月17日日曜日

櫛石窓神社裏山の霊岩(兵庫県丹波篠山市)


兵庫県丹波篠山市福井

かつてこの辺りは大芋荘と称され、櫛石窓(くしいわまど)神社は大芋荘を含めた四十八ヶ村の総社として信仰された。
「丹波の国大芋の大宮」の通称もあるといい、延喜式内社として古来からの岩石信仰を伝える地である。

櫛石窓神社

社殿背後の宮山(禁足地)

社殿の背後に、宮山と呼ばれる高さ約30mの小丘があり、神山として神聖視されている。

この宮山の頂上に、祭神の櫛石窓命・豊石窓命が降臨したと伝わる「霊岩(みたまいわ)」があるらしいが、宮山は禁足地のため山内に入ることはできない。

かつては麓から山頂に露出する巨岩群が確認できたそうだが、後に植林が行なわれ、現在は社叢繁茂して麓から確認することができない。


大場磐雄博士は昭和26年に当社を訪れ、社殿内陣の神像三体を拝観したのち、下のとおり宮山を登拝している。

御山(宮山という)の頂に到れば神格の基ずくところ、巨巌壘々と盤居せり、即ち頂上を周りて八個程の巨石ほぼ円形に露出し、南側には二個の立石屹立せり、石は硅石なりという。白く風化して霊格あるが如し、ここにてまづ霊岩を模寫し、それより御山の全体をカメラに入る
茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年

そのとき撮影したと思われる写真3点が國學院大學の大場磐雄博士写真資料データベースにて公開されている。

・宮山(目録番号ob3154)
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_fop&data_id=3572

・霊岩1(目録番号ob3155)
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_fop&data_id=3573

・霊岩2(目録番号ob3156)
http://k-amc.kokugakuin.ac.jp/DM/detail.do?class_name=col_fop&data_id=3574


なお、インターネット上では神山頂上に立ち入って巨岩群の写真を掲載しているページが散見されるが、冒頭に書いたとおり現在神山の中は禁足地である。

大場博士の頃は、登れる空気感だったか神社の調査許可を得たかはっきりしないが、少なくとも現在においては、境内掲示に神山への立入禁止は明記されている。あれこれ理由をつけたとしても、無許可侵入を正当化することはできない。
我欲に負けることなく、信仰している人の権利と立場を最優先してほしい。

社頭掲示


2021年1月10日日曜日

丸山の烏帽子岩/伊奈波神社旧跡伝承地(岐阜県岐阜市)


岐阜県岐阜市 金華山山中


金華山(稲葉山)に丸山という一支峰があり、峰上に「烏帽子岩」と呼ばれる岩塊が現存している。





その名のとおり、烏帽子に擬せられるような縦長の三角形状の輪郭をした立岩である。

この烏帽子岩は、伊奈波神社祭神(五十瓊敷入彦命のことか)の烏帽子をかぶせた岩、または烏帽子そのものとされているようで、かつては金華山下を流れる長良川の川底に沈んでいたのを引き上げたものだという。
詳しくは以下のページに民話が紹介されているのでご覧いただきたい。

丸山の烏帽子岩 - 長良川温泉 ホテルパーク

烏帽子は本来石製ではないので、烏帽子の形をした岩でありながら、岩に神が烏帽子をかぶせたのだろうと見た人と、神の烏帽子だから本来非実用である石製の烏帽子が成立し、烏帽子岩を神の烏帽子そのものと見た人に分かれたのではないか。

物語上では、この岩は川底のものを現在地に持ち運んでまつったものと語られているが、烏帽子岩は屹立した立岩ではありながら、その根元は地山の岩盤と根続きになっており、元からここに存在した露岩だろうと推測される。

烏帽子岩の隣には「伊奈波神社旧跡」の石標が建ち、丸山は現在金華山山麓に鎮座する伊奈波神社の旧社地だったといわれる。丸山周辺の山中からは中世の建物遺構も出土しているが、それが伊奈波神社に関わるものであったか仏教施設としての遺構かは何とも言えず、伝承地としての域は出ないそうである。

現在残る礎石等の諸施設は、江戸時代に建てられた丸山神社の社殿跡であり、伊奈波神社の社殿遺構はその下層に埋もれているか、丸山神社建設時に切り合って地層改変された可能性もある。

丸山に残る丸山神社址

現地看板


2021年1月8日金曜日

敢国神社の黒岩/大石明神(三重県伊賀市)


三重県伊賀市一之宮字大岩


伊賀国一宮の敢国神社境外摂社として、「黒岩」をまつる大石社が鎮座していたが、採石で破壊され現存していない。黒岩の周辺一帯を調査したところ、古墳時代の祭祀遺物が見つかり、大岩遺跡としてその名を残す。

大場磐雄「伊賀国南宮山麓の上代祭祀遺跡」(『神社精神文化』第3輯、1939年)に本遺跡の詳細が報告されているので、本論文を参照しながら紹介していこう(『神道考古学論攷』葦牙書房、1943年所収版を参照した)。

現・大石社(敢国神社境内)

黒岩の場所について


敢国神社から西南約3~4町の小字大岩にあったという。

地理的には、南宮山(通説的に敢国神社の神奈備山に擬されることが多い)の西麓傾斜面の末端にある岩だったと報告されている。

黒岩の場所から山道を隔てた所に小さな池があり、池のほとりに立つと南宮山と遥かに伊賀盆地を拝める「眺望捨て難き」場所だという。


黒岩の文献記録


『三国地誌』には、大石明神祠の名前で登場する。
丘陵上の大石を俗に黒巖と称したと記される。

『敢国拾遺』には、黒岩の名前で登場する。
接する池の名を西池と呼び、その西池の上に黒岩があると記す。
そして、黒岩には弥勒の像が刻まれていたと貴重な情報が残っている。


黒岩の現況


大石社が遷座した後、岩石採掘工事が行われ、その時に黒岩は破壊され「往時の状態を見ることの出来ない」と書かれている。

大場博士はこの黒岩の旧地を踏査報告している。
南宮山の裾が西に延びてそれが終ろうとする傾斜変換点の松林の中だったそうで、黒岩はないものの、現地には周囲に片麻岩の露頭とそこから剥落したと思われる白砂が確認できたという。


大岩遺跡の調査結果


黒岩消滅後、近くを通る道路の拡幅工事が行われ、その際黒岩付近において古墳時代の祭祀関連と目される遺物が見つかったという。

正式な発掘調査を伴う発見ではなかったようなので図面は起こされていないが、大場博士は出土品の収蔵先へ行きそれを実見・記録している。

土器は高坏3点・盌3点・坩2点で、いずれも手づくねの小型土器ということから、非実用の祭祀土器と推定されている。

また、滑石製の臼玉が2点見つかっている。これらは発見者の証言によれば坩の中に入った状態で見つかったという。


私の疑問点としては、黒岩の付近から見つかったというが、その位置関係が客観的な図面で記録されていないので、その近さ、遠さの評価のしようがなく、これらの遺物が黒岩に関わる祭祀の遺物だったのか判断しにくい。

以上の点から、敢国神社の黒岩は古墳時代の祭祀遺跡の事例に数えられることが多いが、調査年代が古く発見状況も地元の方の採集によるものであることから、いわゆる第一級の考古資料として扱うには幾分のためらいがある。
古墳時代の岩石祭祀を論ずるには、基本的に他例の資料が豊富かつ正確な記録が残されている遺跡を第一に取り上げるのが適当で、本例はその類例またはよすがを感じさせるものとして、補足的に利用するのが望ましいだろう。

敢国神社にまつられる「桃太郎岩」。約550年前に南宮山頂から持ち運んできた岩石という。当地での信仰は後世的な影響が強いものと類推される。

追記 黒岩跡地と思われる場所に残る露岩の報告


おそらく下記の写真が、黒岩のよすがを偲ぶ露岩の一部ではないかと思われる。
再度機会を見つけて実見したい。


2021年1月5日火曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(5)


石化現象(望夫石・動物石・植物石)


「望夫石の問題」と題された見出しがあるが、折口が何に問題意識を置いて論じようとしたのかはわからない。

前後の見出しの文脈から想像するに、鎮懐石の成女戒と人の石化現象に関連する内容だったのだろうか。

望夫石は、夫の帰りを待つ妻が石化したという伝承をもつ一群である。

望夫石の位置づけと評価については、金京欄氏の博士論文「夫のために石となる女たち―望夫石説話を中心に―」(2005年)に詳しい。


これは人が石化する流れであるが、一方で、石が人になるケースもすでに折口は触れている。
きわめてこの両者が相互にトランスな関係であることを証したいのではないか。


動物が石になる話について、「漂著石神論計画」ではかなり紙幅を割いている。

仏教の影響下において、過去生、未来生の概念を説明する手段として、岩石が動物の石化したものであると説かれること。

とりわけ犬と猪の石化(犬石)について事例紹介が続いた後に、これらが「常世の所属たらしめる為の洗礼には、石の形を経過せしめる」とまとめる。


他界(常世)の軸として、一つは空間軸(海の彼方)で、一つは時間軸(死後)があるということである。

動物が石になる、または石が動物になるという次元の行き来を「洗礼」という、これまでの論を踏まえた通過儀礼としての石の機能に帰結している。

一般に、石化現象は時間軸を超えた不変性で取り上げられるが、折口は石を「変わらない、動かない」という物質的なイメージに固執せず、「石は空間または時間の移動のために必要なもの」と位置付けている。

「漂著石神論計画」は石の研究史上ではすでに古典であるが、古典にしてその後しっかり研究が継承されていないという点において今なお新しい。


その他 補遺


■「岡となる。大丘――石」

類例を以下に列挙する。

神風の 伊勢の海の 大石(おほいし)にや(略)謡の意は、大きなる石を以て其の国見丘に喩ふ。(日本書紀)

舟二百隻を以て、石上山(いそのかみのやま)の石(いし)を積みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人の謗りて曰はく、「狂心の渠。(略)石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」(日本書紀)

沈石(いかり)落ちし處は、即ち沈石丘と號け(播磨国風土記)

石を以て丘に喩える、石の山丘を作るなど、すでに奈良時代において石の大なるものが丘である心性が描かれている。


■「蚕の化成した、日女道丘」

播磨国風土記における沈石丘と同じ物語で、蚕子が落ちて日女道丘になったとある。

石と山との関係は、前段の「石の山丘」で極めてイコールに近い関係性であることが窺われる。


■「印南郡益気里斗形山あつて、石橋がある」

播磨国風土記の事例より引用。

石を以ちて斗と乎氣とを作れり。故、斗形山といふ。石の橋あり。傳へていへらく、上古の時、此の橋天に至り、八十人衆、上り下り往來ひき。故、八十橋といふ。(播磨国風土記)

上記のとおり、石が天地の懸け橋になっている。架け橋とは、言い換えれば、媒介である。
他界とこの世をつなぐ「石は空間または時間の移動のために必要なもの」の一例であり、折口が「動物以外の第二義式化成」と記すのは、人間、動植物に続いて、命のない無機物(斗・乎氣・橋)を二次的な派生と評価づけたものであろう。


■「よみの国へ行く巌窟」

出雲国風土記に代表される黄泉の穴であろう。

窟の内に穴あり。人、入ることを得ず。深き浅きを知らざるなり。夢に此の礒の窟の邊に至れば必ず死ぬ。故、俗人、古より今に至るまで、黄泉の坂・黄泉の穴と號く。(出雲国風土記)

主役は窟であり穴であるが、これまでの議論を元にすれば、岩石が「石は空間または時間の移動のために必要なもの」であり、時間軸としての死後の世界との越境・移動装置の事例だろう。越境・移動も空間的・時間的に成長することととらえられる。


折口が残した論点まとめ


・なぜ能登国に「像石」神社が固まっているのか

・なぜ越前国に「磐座」神社が固まっているのか

・神像石の立地は、歴史的変遷の違いを反映したものか

・神像石の形状に関する傾向

・よりつく神の本拠地は海か山か、往還か、当初から体系的なものか

・非言語領域である信仰を一言で説明しようとする「まとめ行為」の危険性

・なぜ小さい石への眼差しは継承されにくいのか

・巨石に熱中するという現在の現象の研究

・中近世の宗教喧伝者出現以前の岩石の伝説が、現在残る内容とは異なっていた可能性

・あらゆる用途に汎化できてしまう石をどのように論ずるか

・水と石の関係、海と山をつなぐ川の立地の位置づけ

・可動的な石の処遇。特に、生産地点でもあり使用跡でもある資料について

・「石の保管者」によって、本当に石が育つ場合と育たない場合に分かれるのか

・物質的世界観においても、モノ世界観下においても、なぜ石が選ばれたのかという問題

・玉と石の関係、玉と水の関係

・玉は変化しないものの象徴か、変化する石の心性とは相容れない存在か

・鎮懐石を、鎮魂の信仰だけでなく、成長石や移動する石の視点でとらえなおす是非

・神、または神の入れ物のいずれでもなかった道具や痕跡としての石が、後世に神としてふるまうようになる問題

・人や動植物が石化する流れと、石が人や動植物になる流れの関係

・石の移動性における、時間軸と空間軸の関係


折口が気づかせてくれたこれらのテーマを次の段階へ進めるために、誰の目にも公開された状態での資料の整理が求められるだろう。


2021年1月4日月曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(4)


「やぼさ/やぶさ」と「より神」


ここでしばらく「やぼさ」の話が続く。

「やぼさ」は寡聞にして知らなかったので調べてみた。「やぶさ」で知られる民俗信仰の一つらしい。

ヤブサは八房八大竜王の八房で、天台系山伏によって伝導された神で、家や同族の神から地域神として祀られるにしたがい、祟る性格を弱め、豊作や病気除けの神ともなったという説もある。ヤブサを戦の神で八幡太郎を祀ったものともいい、元来御霊で祟る神を宗教者が祀り上げ、鎮守となった藪神も多い。藪とは制御されざる裏側の領域だが、物事が転換され、新たに物が生み出される豊かな領域でもある。したがって、藪神は得体の知れない見えざるものを形にあらわした神といえる。(飯島吉晴「藪神」桜井徳太郎編『民間信仰辞典』東京堂出版、1980年)

中国、四国、九州西部に分布する神で、藪神(やぶかみ)として一括されるような存在だが、藪だけの性格ではなく、他の信仰との集合性はかなり高いようである。

だから折口が対馬・壱岐の例で「やぶさ」を語ろうとしたのだろうし、それを「より処」「より神」の文脈で取り上げたのだろう。

藪の性質が「得体の知れない見えざるものを形にあらわした」信仰にあるという点においても、より神としては絶好の対象物だったと思われる。

「鬼塚」「建て物」「巫女の憑り神」「盲僧の役神」「陰陽師」が例示されているのを見ると、このあたりは石との関連というよりも「依る、寄る」ことを中心に検討した部分だと言えよう。


鎮懐石を「変化する存在」として見る


鎮懐石は、神功皇后が陣痛を鎮めた霊石である。

記、紀、そして各国の風土記、万葉集に登場するという点でも、奈良時代当時すでに名高い物語体系だったことは想像に難くない。

折口は鎮懐石について「鎮懐は、鎮魂の一方面であること」と述べており、同感である。
また、鎮懐石について信仰の視点から触れられるとき、ほとんどの場合鎮めの霊性で説明されることに異はないだろう。

折口はそこに「石数増殖」「石成長」の論点を加えようとしているところが興味深い。

たしかに、記紀では個数が記載されておらず、単体の石だった可能性もある鎮懐石が、筑紫国風土記、筑前国風土記、万葉集では鎮懐石が2個と明記され、さらに後世に下る『太宰管内志』収録の鎮懐石伝説では鎮懐石が3個に割れたことになる。

つまり、後代に下るほど、鎮懐石の個数が増殖ないしは分裂していくのである。

さらに、鎮懐石を遺存する場所は現在各地に残り、子負の原、壱岐の鎮懐石はその一部である。

これを成長石の観点から述べることはたしかに可能である。
従来、後代に伝説が散らばって乱立するという批判的な評価にとどめず、石自体に分裂性や増殖性が許されるという知見を与えてくれる。

そして、折口がしばしば重視する「移動」の視点である。

地域を越えて複数に鎮懐石が散在することを「鎮懐石が他処より来る事」と評価することで、これも後世の付会で片づけず、鎮懐石がどこかからどこかへ移動するという霊石の移動性の論理に組み込むことができるのである。

この論理は、他界から移動し、依りつく神の構図と同じである。

鎮懐石は元来呪具であり、しかも、数世紀後にはそれは神功皇后の聖跡として転化していた。聖なる存在の保管した石というところに、石の成長性が芽生えたのかもしれない。

その聖なる痕跡が、移動する霊を可視化したかの如く別の場所へ移動して、複数に散布するのである。聖跡が、人格化した神と同義になったということである。

これを踏まえれば、依りつく神の神体石だけでなく、もともと祭祀の道具や装置として用意された岩石も、人間と同じように成長し、移動する「変化する存在」たりえたことが説明づけられるのである。


漂著石神論計画の34~44まで進んだので、続きはまた別記事で行いたい。


2021年1月3日日曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(3)


石の育て主


「人にとられると同時に、大きくなる。育て主を待つ。之が極ると、急に大きくなる。」

折口がまとめた「石の育て主」の具体的事例の再検討が必要である。

石を保管する人によって、石が大きくなったりならなくなったりするということを「石を育てる」という表現で説明するわけだが、大きくなる育て主として「翁」と「少女、後、夫婦」が挙げられている。

それと一方で、小さいままの「石の保管者」もいるらしい。
これら両例の収集と、折口のこの指摘が例外のない正確な指摘であるか再調査が必要に思うが、網羅的な研究にまだたどりついていない。


有勢な育み人は、少彦名と天日矛の二例だけメモされており、この二例の追跡は可能である。

少彦名と石の関係は古事記の「常世に坐す 石立たす 少名御神」でよく知られており、それが「つき物」としての石であることは論を俟たないが、この石の有勢な育み人は誰かというと明示されていないのと、この石は育ったのかというとよくわからない。

天日矛の石とは、古事記の天日矛伝承に登場する赤玉だろう。
賎しい女が生んだ玉が、賎しい男の手を経由して天日矛の手に渡ると、美女に変じて天日矛の妻となった。

今回の折口の文脈で考えると、石の保管者によって石が人に変じ、それが貴賤や美醜のコントラストで描かれていることが重要なテーマとなってくるが、この伝承は神話学の分野においては日光感精型・卵生型といった類型で取り上げられることがある。

堂野前彰子氏「神話としての『一夜孕み』」(『古代学研究所紀要』特別号、2009年)は本伝承の諸研究をふりかえり、女人が石を孕む現象はしばしば神の意思を示すものであり、神婚のモチーフとも言えることから、その結果生まれた石は神体石にもなりうる霊石となったと論じている。

だから少彦名の石と同列に「つき物」「より石」としてまとめることもできるが、石が人になるわけではないという物質的世界観はもちろん、おそらく石と人がボーダーレスで同次元にいる「モノ」同士であったモノ世界観下だったとしても、なぜ石が選ばれたのかという問題は結局追究できていない。


「玉」論


24~33の見出しは、玉の話が続く。

玉が登場する歌には、魂関係の玉と、より来る玉に分かれる。

玉は石か、貝かという問い。

装身具以外の玉の存在。

海祇の玉(海神の玉)、玉が大きくなること、玉が代々受け継がれ、玉が増殖していくこと。

玉は魂であり、玉を授受することは魂を預け、動かす行為となること。

このあたりは諸々の玉の研究があるのでいまさら言えることはない。
椙山林継氏は「玉と魂―石製品の祭り―」(『日本の信仰遺跡』奈良国立文化財研究所、1998年)の中で、考古学における玉類や石製品の使われかたを検討した結果、玉を含めた石の古墳時代は「石によって作られた永久性、変化のない世界」であり、「別な世界、死後の世界での道具、それは神の世界に共通する道具である」と論じた。

玉が、一度そこに封じ込めたものを変化しないまま後世へ世襲し、人の生死に関わる道具となりえたことを補強する情報と言えるだろう。


玉の異種として「玉がしは」(玉柏/玉堅磐)が登場する。
「玉がしは」は下の記事に詳しい。

遠州公の愛した茶入「玉柏」

歌のモチーフである「玉がしは」は海岸の藻に埋もれた岩であり、ここであらためて水と石の関係が浮上する。
「玉がしは」は自然の岩であり、その岩の表現に「玉」を冠するところに、玉と石の親和性あるいはボーダーレスの関係が出てくるわけで、そこに折口が付け足した「玉を盃に入れること」という一文と「玉よる磯」というキーワードが際立ってくる。


漂著石神論計画の21~33まで進んだので、続きはまた別記事で行いたい。


2021年1月2日土曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(2)


石の大きさと、石の出現と


「石つぶて」~「大石」の見出しについては、それ自体が石の大小に関わらず石神論が成り立つことを示している。

それはそのまま、巨石信仰というカテゴライズへの痛切な批判に使うこともできなくないが、巨石に熱中するという現在の現象は一つの石愛研究になりうるし、研究史で追う限りでは現在と過去の研究者の温度差を感じ、なぜ小さい石への眼差しが継承されなかったのかという問題に思いをいたすのである。

折口の問題意識は石の大小にはなく、いわゆる「大石」「生石」が同じ「おひし」の音をもち、その起源について生石のほうに一票入れているようである。

「一夜、忽然出現」「石を以てする神出現の証――地蔵」「石出現の夜の行事」のくだりはそうした折口の論理を補強するところであり、石が現れる出現石伝承や石が大きくなる成長石伝承は、石が漂着神の装置的な側面だけでなく、神が出で入るものだからこそ、その装置も物からモノ化して石自体に霊性が分与・伝存したという見方なのだろうと推察する。石の分霊観もその文脈で語ることができる。


「石の旅行性」「石の人による旅行」もモノ化の証左だろう。

旅行性は神や霊の移動にもなぞらえられ、石が人のようにふるまうことの一つである。
なぜ石が人のようにふるまうか、これは後年、石上堅が『石の伝説』(雪華社、1963年)で次のとおり評価づけている。

「まるで石が人間のように動いているように語られることで、どんな人にでもすぐ理解ができるように話作りがされているということを石上は指摘する。石自体が身近に存在する素材の一つであり、そのような身近な石をなでたり抱いたりすることで願いが叶うと信じること、あるいは小石を生んだり音声を発したりする石を信仰の対象とすることは、小難しい宗教知識を持たない庶民の間でもすぐ受容されたというのである」(拙著『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』遊タイム出版、2011年)

石上堅の論に従えば、中近世に登場した遊行者・座頭・巫女などの宗教喧伝者出現以前の岩石の伝説というものは、現在伝わっている内容とはまた色を異にするものだったのかもしれないと想像される。

やはり、現在残る民俗例だけを見ることの危険性と、言語化された資料の扱いの危険性が歴史的な文脈からも指摘できるのである。


石の洗礼―成年戒と印地打ち―


「石の洗礼」は、石の旅行性の見出し群の中に挿入されるくだりで、その後世の関連性を読み取るのは難しいが、成年戒と印地打ちの二つのキーワードから想像を広げてみる。

「成年戒」は、その言葉のとおり成人になるためにしないといけない通過儀礼のことを指す。

「印地打ち」は、正月や端午の節句に子どもや若者が石を投げ合う「石合戦」の行事を指す。

首藤美香子氏「『こどもの日』の社会史試論」(『白梅学園大学・短期大学紀要』49、2013年)では、印地打ちについて次のとおり説明している。

「節句に石合戦をすることの意味をめぐっては諸説あり、『水辺における成人戒』『殺伐なる年占法』『地を印して境を競うた』などとされるが、たとえば、礫にあたるのは霊性を受け邪気を祓い清めることであり、礫を投げる行為は破邪の行為であるからこそ、石投げにより男児が息災を約束されたのではないかという解釈も出されている」

礫のことを印地というので、折口漂著石神論計画の「石つぶて」と通じ合う。

このように、石の洗礼は成年通過儀礼の事例をとおして語られているが、これだけでもいくつかの論点を挙げることが可能だ。

  • 石の万能性…石を力の象徴として語ることも、石占として用いることも、境を決める石として用いることもできる。汎化してしまう石をどのように論じるべきか。
  • 水と石の関係…水辺で石合戦をして、河原の石の中で儀式が行われることの価値。山と海をつなぐ場所が川辺でもあり、他界の神の依りつく地点(石の旅行性)としての位置づけも可能。
  • 可動的な石の処遇…印地打ちで用いられる石礫は、いわゆる不可動的な岩ではなく、道具としての小石である。そして、その礫は投げられ、使われたあとに儀礼道具としての機能を終える。生産地点でもあり、使用跡でもあるという印地打ちの石の特異性。


漂著石神論計画の11~20まで進んだので、続きはまた別記事で行いたい。


2021年1月1日金曜日

折口信夫の「漂著石神論計画」を今一度とらえ直し、次の段階へ(1)


はじめに(漂著石神論計画の概要)


折口信夫の「漂著石神論計画」という論考がある。
(『民俗学』第1巻第1号、1929年発表 ※漂著は漂着)

「論考」と紹介したが、論文のイメージで読むと面食らう作品かもしれない。

著作権保護期間が過ぎ、全文が青空文庫やAmazon Kindleなどにも公開されているので、未見の方は以下リンクをご覧いただきたい。

「折口信夫 漂著石神論計画」(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/46960_26571.html


「計画」というタイトルのとおり、折口の頭の中のアイデアがそのままキーワードだけ見出し化されている。

本人の中での構想が色々あっただろうことは窺われるが、その後、この計画の後身にあたる論文というのは特に出なかった。

読者からすると断片的なメモのまま今に至っているわけだが、小池淳一氏は「折口民俗学の可能性:『古代研究』前後を中心として」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第34集、1991年)において次のとおり研究史的な位置付けをおこなっている。

「形式が整っていようとも、抽象化に成功しなかったものは論文ではない。ここで抽象化という言葉では必ずしも正鵠を得ていないかもしれない。仮にそう呼んでおく。これに成功したものは、たとえ『小栗判官論の計画』や『漂着石神論計画』のような箇条書きでも論文として、認められるのだ。『古代研究』の成立とは、そうした折ロの民俗学の成立と限界とを示したものに他ならない。これを民俗学と呼ぶことは、現在では躊躇しなければならないだろう。」

折口の融通無礙かつ深遠な知識に対して何かをものすることは極めて難しいが、触らぬものに祟りなしの気持ちで放置するのはもっと悪い。

折口を超克するというよりも、折口の残した論点を改めて読んでみることで、今後の研究の方向性のヒントが散らばっていないか、という気持ちのほうが強い。私なりの「漂著石神論計画」のとらえ直しを試みてみたい。


「神像石」「像石」論


漂著石の第一として、折口は「諸国海岸に、古代より神像石の存在した事実」「神像石の種類」「神像石の様態」について言及している。

神像石はカムカタイシで、有名なのは『延喜式』神名帳に記載された「能登国能登郡 宿那彦神像石神社」「能登国羽咋郡 大穴持像石神社」の二社の存在だろう。
「神像石」と「像石」の細かな違いはあるが、一般には同義語として一括される(大場磐雄氏「日本上代の巨石崇拝」『歴史公論』第6巻第8号、1937年)。

なぜ能登国に「像石」神社が固まっているのかも解決されていないテーマの一つだが(類似したテーマに、同神名帳の越前国に磐座神社が四社記載されている問題もある)、宿那彦神像石神社と大穴持像石神社の二社の共通点は海辺に鎮座していたと想定されることである。

大穴持像石神社の像石とされる「地震石」(石川県羽咋市)

折口が「諸国海岸に、古代より神像石の存在した事実」と記したのはこの辺りの事例を念頭に置いてであろう。

神像石の分類が面白い。

「a.定期或は、臨時に出現するもの」と「b.常在するもの」の二種類に大きく分けて、a類型は立地の傾向を明記していないが、b類型は「海岸」「海岸から稍隔つた地」「海中の島又は、岩礁」のイ・ロ・ハに細別している。

イ・ロ・ハの立地の違いについて折口は「イ・ロ・ハは、海岸に出現する形が、最、普通であり、正確なものである。此が、浜を遠ざかる程、村の生活が、山手に移つた事を示す。ロ・ハは、遥拝信仰発達の一過程であるが、其多くは、神幸の儀式を行ふ前の、足だまりとなる地点であつた。」と、立地がそれぞれ歴史的年代を反映するものと推測している。

折口は、基本は海との関わりで神像石を考えていた様子が窺われる。自身が大事にしていた海からの漂着神――ヨリガミ信仰の文脈で神像石を位置づけようとしていた。

だから、神像石は「依るべき対象」であり、神の本体は海の彼方に求められるという神観である。

神像石の様態を「a.唯の石であるもの」「b.神の姿を、想見せしめる程度のもの」の二形態に分けているのも、折口が神像石の形状について、いわゆる仏像に対する神像という言葉の響きから想像される「神を模した形の写実的な石像」ではなく、けっして神の写実的な象徴を石に求める必然性はなかったことをあらわしている。

この折口の論においては、海に対する山の他界観は一切想定されていない。
現実としては、神宿る場所は陸地であり、しばしば山に接した立地や山中と言っても良い場所に祀り場が形成される場合がある。

海から来る神が山へ至り往還するという観念も指摘されるが、海が元で山が後なのかという先後関係の疑問が残るのと同様に、この二つの世界が最初から体系づけられて成立した世界観なのか、元は別々の体系が後世続けられたものなのかなど、神の本拠地が海か山かという問題はまだ解決されていないところが多い。


石神の種類にくるめられるもの


神像石は、その漢字の響きから石神の一種としてくるめられている。

そしてそこを出発点として、漂著石神論計画では「夷御前の腰掛け石の唄」から腰掛石も石神の一つ、腰掛石がしばしば神幸の場であることから影向石の一例として紐つけられていくことや、「五郎投げ石・力持ち石」の見出しから力石も石神に収斂されていく。

石の神というより、私が使っている岩石信仰の用語に近い感覚で石神の語が扱われていると考えたほうが良いが、折口はそれら石神をさらに漂着神の文脈で統合化していった。


実際のところは、折口の使うこれらの石神と、いわゆる大場磐雄氏以降現在にいたる石神とは、その概念に細かな差異があることに注意したい。

大場氏は代表的論文「磐座・磐境等の考古学的考察」(『考古学雑誌』32-8、1942年)の中で、石神のほかに磐座・磐境の古語の存在を併記し、これら三つの語義が同一ではなく、神と岩石の関わり方では異なる意味を持つから異なる語としてあることを指摘した。

岩石信仰の種類と見分けかた~石神・磐座・磐境・奇岩・巨石の世界~

念のため申し添えておくと、大場氏は石神と磐座が実際の事例では混合しており、どちらか一方に切り分けることができないものが多いことも付記していたので、実際の事例は明確に石神・磐座・磐境の3種類に分かれるわけではないが、これと語義あるいは言葉の背景にあった神観念が3種類に分かれない、ということを示すわけではない。

現在私たちが見ている事例の背後には文字と言葉があり、文字と言葉の背後には言語化できない心的世界があるからだ。

目の前の岩石を見て、それに神を観じたという一言をもっても、それは神そのものが石なのか、石の中に神を見たのか、石の中に神は見ていないけれど神に近いものを感じ、神の関係物としてふさわしいとみなし、別の他界が本拠地である神を寄らせるものとして石を扱ったのか。
これらすべて神を観じたという一言で説明でき、神の象徴物という言葉でも表現でき、石の信仰という一言でまとめることもできる。

私から言わせると、こういった一言で何かを説明した「まとめ行為」こそ、人々の心的世界を単純化してしまう「誤解」の始まりかと思う。

私は収斂化していく方ではなく、むしろ埴輪の工人一人一人の癖のごとく個人に行き着くような「石神論」の段階へ進んでいきたいし、そのような岩石信仰の研究が今後なされていってほしいと願っている。


およそ漂著石神論計画の1~10まで触れながらここまで進んだ。
先はまだまだということで、続きはまた別記事で取り上げたい。