岡山県岡山市北区京山
江戸時代までは栗岡宮と呼ばれていた場所で、明治時代初頭、当社は『延喜式』神名帳記載の「備前国御野郡 尾針神社」に比定され、以後、尾針(おはり)神社を名乗るようになった。
尾針神社については他に論社もあり、栗岡宮の沿革も不明点が多いが、当地をかつて御津郡上伊福村と称し、伊福郷は尾張氏の流れを汲む伊福部氏の居住地だったと伝わることと、栗岡宮の相殿に尾針神社をまつっていたという記録もある。
そのような現尾針神社の本殿裏に「磐境の遺跡」と銘打たれた岩石群が散在している。
大小の岩石が散在しており、明確な環状配置や人為性は見出す向きもあるだろうが、そもそも岩石の状態が二次的な移動を受けている可能性を考慮していいだろう。
「遺跡」と名付けられているが、いわゆる埋蔵文化財登録はされていないようだ。
周辺一帯は上伊福西遺跡・尾針神社南遺跡として弥生時代~古墳時代の遺物包含地ではあるようだが、それをもってこの岩石群の歴史を弥生・古墳時代に直結させることは批判的に見たいと思う。
また、「磐境」の名も古記録に明記されているものではなく、おそらくここ100年の間に後世的に名付けられたものと類推される。
神社祭祀は時代により変容し、岩石の用途も単一ではない。岩石の横で祭祀が行われていたとしても、その岩石が磐座なのか磐境なのかと「鑑定」することは難しい。
尾針神社西隣の京山を始めとして周辺には古墳群も築造されており、古墳石室石材などの役割だった可能性もじゅうぶん想定される。
岩石や神社が、昔からそこに同じままの聖地として存在し続けるとは限らないことに注意しつつ、本例に関わるさらなる資料の登場を待ちたいところだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿
記事にコメントができます。または、本サイトのお問い合わせフォームからもメッセージを送信できます。