埼玉県比企郡吉見町田甲
吉見丘陵の北端を玉鉾山、またはポンポン山と呼ぶ。標高38mの小丘だ。
山頂の地面を足で強く踏むとポンポン音が鳴ることから、ポンポン山の通称がついたらしい。
山頂に延喜式内社の高負彦根神社が鎮座。和銅3年(710年)の創建と伝えられ、宝亀3年(772年)の太政官符にも「高負比古乃神」と記載があることから、奈良時代に遡る古社と言って良いだろう。
神社神道で語られる神体山の発想で言えば、山は神聖不可侵で山麓から神山を仰ぐ(だから社も山麓にある)という古典的な学説があるが、当社は山の麓ではなく山の上に鎮座し、この例外となる。
玉鉾山が「山」というほどの高さではないことや、元来は麓にあった社が後世に遷座した可能性を否定するものではないが、通説的な信仰観で単一的に括れない神社のかたちも想定してしかるべきだろう。
高負彦根神社の社殿背後はすぐ山頂で、上写真のような岩盤の露頭が群在している。山頂の東側はそのまま岩盤が岩崖となって岩山の体をなす。
この岩体を玉鉾石と呼び、玉鉾山もここから生じるものだろう。
玉鉾石と近似した存在として、当社には「湊石」と呼ばれるものが記録されている。
社頭掲示によると、「高負彦根神社の三鉾…湊石(御身体)・大柊・菊水(湧水)」という記述がある。
1830年(文政13年)成立の『新編武蔵風土記稿』に「社前ニ湊石ト云アリ」と記されるものと同一物と思われるが、社前(社の向きである西側を指すのか、山の東側か不明だが)にそれらしきものは特定できなかった。
三鉾は、神宿る場所という意味合いと推測される。
わざわざ「御身体」と記された湊石は、同じく「鉾」の字を冠し、同じく社前である東の山頂に広がる玉鉾石とは別の存在なのだろうか。あるいは、山頂に広がる露岩群のどれか特定の一つを指すのだろうか。
『新編武蔵風土記稿』では、玉鉾山と湊石は別々に記されており、別物のようにも見えるが、このあたりは説明不足もあり不明である。
玉鉾石に隣接して、宝暦6年(1756年)の刻字をもつ石仏が安置されているほか、東の岩崖の裾部には、崖を取り囲むように石灯籠や石仏が設置されているのを見ると、社域としての山、そして岩石の聖域視はじゅうぶん設えられているものだった。
現在はポンポン足踏み遊びやロッククライミングに利用されて、岩石の利用は複合的になりつつある。
岩盤の傍らに安置された石仏 |
東の麓から見た玉鉾山。ちょうどロッククライミング中の方がいた。 |
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