三重県桑名市志知 平郡神社裏山
平群の名は、大和の平郡氏が当地に移り住んだことに由来するという。
後年、ヤマトタケルがこの平群の名から故郷大和に思いを馳せ和歌を残し、足を洗ったという地元の伝説地・足洗池が現在の平郡池として平郡神社隣に残る。
へぐりのほかに、へごりの読み方もあるらしい。
平群池(手前)と平郡山(奥) |
平郡神社は延喜式内社であるが、境内は古墳時代の志知遺跡として知られ、神社の裏には平群山と呼ばれる丘陵が続く。
この平群山は、現地の看板に「背後の平群山は古代神奈備の遺跡」と記されるが、どういうことだろうか。
考古学者の大場磐雄博士は、昭和28年8月28日に平郡神社を訪れ、平群山について以下の所見を自身のメモ『楽石雑筆』巻37に残している。
一説にこの山を古墳なりといひ、葺石ありとす、されど疑はし、余は神体山にして葺石らしきものは祭壇ならんと思ふ、又この山の裾にて先年須恵器坩、同坏、高坏、𤭯等を掘せり、これも古墳説の傍証となれり、されど面白きはその場所より引續ける下方の今社務所の立てる下より土師盌(角形把手付)、土師高坏四(脚部のみ)と一種の埴輪(何者か判断に苦しむ埴輪に似たれど疑はし)出土せり、祭祀遺物らし。茂木雅博(書写・解説)・大場磐雄(著) 『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年
"何者か判断に苦しむ、疑わしき埴輪"とは何だろうか。
三重県埋蔵文化財センター『三重県埋蔵文化財調査報告288 志知南浦遺跡発掘調査報告』(2008年) の中では「異形土器」と表記されたものを指すと思われ、写真も実測図も掲載されていないのでわからないが、祭祀遺跡としての見方を支持している様子である(p.5)。
大場博士のメモの雰囲気では、むしろ当時は古墳説が有力だった様子が覗われる。
そんな趨勢へのカウンターとして大場博士の意見が示されたのかもしれないし、現在、平群山に神奈備山や祭祀遺跡といった概念が当てはめられている源流はここから来ている可能性も想定しておきたい。
大場博士が記した「祭壇」らしき石の群れを確認したいと思い現地を訪ねたが、平群山は現在神聖視されており、登山道も見当たらなかったので山中に足を踏み入れることは遠慮した。
平郡神社の本殿前から山の上方斜面を目視で眺めてみた。
本殿より裏山を撮影。 |
尾根上に登れそうではあるが、自粛。 |
「祭壇」と呼べるようなものは見当たらない(祭壇の外形的定義が定かではないので判断自体が難しい)が、本殿向かって左手の尾根端部には数個の石が顔を出していた。
尾根端 |
尾根端 |
「葺石風」と表現することは、できそうだ。
ところで、神社境内には人頭大の礫石が数か所に分散して群集している。
これは何による営為だろうか。
比較的若木の裾に、角が取れた石と、欠け割れた石の両方が混在している印象だ。
また、拝殿向かって右手の石垣前に、石垣と同化して少々わかりにくいが三角形に尖った立石と、棒状の立石の2体が存在する。
こちらは「奇石」的な扱いで特別視または安置された感がある。
境内入口に置かれた山神 |
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