2021年6月29日火曜日

巨岩・巨石の「動かない」という精神性について

 


2021年6月21日付、読売新聞和歌山県版の記事に取材コメントが掲載されました。

インターネット記事にもなっています。

奇岩・巨岩が和歌山に集中、1400万年前の巨大噴火で出現した「超巨大カルデラ」に深く関連 : 科学・IT : ニュース

和歌山の岩石について、地質的な方向と、人文学的な方向でアプローチした好記事です。

巨岩というテーマについての依頼でしたので、巨大なる岩石を包括した岩石信仰の見地からコメントしました。

紙面においてもかなりの紙幅を割いていただきありがたい限りですが、取材では約1時間話していますので、紙面で収録できなかった部分をこの記事で肉付けいたします。


まず、紙面では「『古事記』などの古文書には、道をふさぐ巨大な岩を神に祈ることで動かそうとしたり、割ろうとしたりする記述があるという」と記されていますが、取材時はソースをはっきり出していなかったので、具体的な記述を紹介していきましょう。

※以下、倉野憲司校注『古事記』(岩波書店、1963年)より

火をもちて猪に似たる大石を焼きて、轉ばし落としき。ここに追ひ下すを取る時、すなはちその石に焼き著かえて死にき。(上つ巻)
大きな石を焼いて神殺しをした記述ですが、石に「大」の表現を冠するあたり、ここに巨大な岩石に期待されている力というものが読み取れます。

この力とは、シンプルに、物理的な重さ、重量感というものです。火が加わることで神殺しの記述は完成しますが、巨石や巨岩の重さという物理的な力はそのまま神をも殺す武器になりました。
石長比売を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石(いは)の如くに、常はに堅はに動かずまさむ。(上つ巻)
石が、常なるもの、堅きもの、動かないものとして形容された象徴的な一文だと思います。

紙面の見出しには「形や大きさ 動かぬ魅力」の字が大きく踊りますが、岩石全般の話ではなく、巨石・巨岩という「巨大なるもの」に求められた精神的な力が「動かぬ」というところにあったのでしょう。

動かぬ巨岩が動くとき、それは神殺しの結果になるというところにもつながります。

山に入りたまへば、また尾生る人に遇ひたまひき。この人巖(いはお)を押し分けて出で来たりき。ここに「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は國つ神、名は石押分(いはおしわく)の子と謂ふ。」(中つ巻)

岩を押し分けて出てきたという行為を持って神名がつく事例。

それはつまり、岩が巨大なるもの、動かないものという精神性を込めていたから、それを動かす力が神として当時認められるにふさわしい力の一つだったと言えます。

御杖をもちて大坂の道中の大石を打ちたまへば、その石走り避りき。故、諺に「堅石(かたしは)も酔人を避く。」といふなり。(中つ巻)

動かない存在である大石が、天皇という貴人の酩酊という一種の特殊状態で、杖を用いて大石を打つという特殊行為を重ねて、大石が走り逃げるという逆説的な物語が成立するのでしょう。

そこまで、大石は人々にとって本来動かないものということです。


紙面では「古事記など」という形で省略されましたが、コメント内容は『日本書紀』も含んだものでした。

特に、以下の二か所の記述を念頭に置いての発言です。

※以下、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀』全5巻(岩波書店、1994年)より

其の野に石(いし)有り。長さ六尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸。天皇祈ひて曰はく、「朕、土蜘蛛を滅すこと得むとならば、将に玆の石を蹶ゑむに、柏の葉の如くして挙れ」とのたまふ。因りて蹶みたまふ。則ち柏の如くして大虚に上りぬ。故、其の石を号けて、蹈石(ほみし)と曰ふ。(巻第七)

『古事記』の「堅石も酔人を避く」の話と通ずる精神性を感じる事例です。

天皇が祭祀儀礼を通して、動くはずのない大石を木の葉のごとく浮かび上がらせた。
それを、

「人間の力ではどうにもならず、時がたっても変化しない岩そのものが『超越的な存在』とみなされ、次第に信仰の対象になっていったのでは」

と語ったのですが、それを「信仰の対象」と評するのは正確ではなかったかもしれません。
というのも、

大磐(おほいは)塞りて、溝を穿すこと得ず。皇后、武内宿禰を召して、剣鏡を捧げて神祇を禱祈りまさしめて、溝を通さむことを求む。則ち当時に、雷電霹靂して、其の磐を蹴み裂きて、水を通さしむ。(巻第九)

目の前を塞ぐ巨岩を、祭祀儀礼によって打ち砕く。

このように、不動なる巨岩は時には信仰対象ではなく、邪魔なもの、忌み嫌われるものとしての一側面を持っても登場します。

「信仰の対象」は、必ずしも、崇拝の対象とはイコールではありません。

この場合は、巨大なるものという人知を超えた超越的な存在であることは信じつつも、それを崇める対象とはせず、人の営みに反逆する存在、克服すべき存在として描いたものと解釈しています。

巨岩・巨石の不動性や堅固性が、忌避性や反逆性にも通ずるという複合的な性格を表すことにもなると考えています。


2021年6月21日月曜日

産田神社の「ひもろぎ/神籬」(三重県熊野市)


三重県熊野市有馬町


産田神社は、伊弉冉尊が軻遇突智尊を産んだとされる場所で、その由来から通称、花の窟の奥の院とも称された。

境内からは弥生土器、土師器、手づくね土器、水田用の木杭などが出土して、産田神社祭祀遺跡として市指定史跡に登録されている。




そのような産田神社にはもう一つ、遺跡とみて良いかどうか注目すべき施設が存する。

本殿の左右両脇に、岩石を複数並べた矩形の敷石があり、社頭看板ではこれを「ひもろぎ(神籬)」と記している。

社殿向かって左側の「ひもろぎ」

社殿向かって右側の「ひもろぎ」(写真ブレ失礼)

もう少し具体的に見てみよう。

5個の人頭大の岩石を直線に並べ、その周囲を一層小ぶりで厚さ薄めの岩石で方形に囲んでいる。前者と後者は、厳密に書けば祭祀施設としての役割は異にするものと見て良い。

正面向かって左側の「ひもろぎ」は保存状態良好の一方、右側の「ひもろぎ」は樹木の生長によってか状態が崩れ気味の様子。

いわゆる「神籬磐境」のイメージとしては、施設の中枢を担う常磐木として相応しいが…。


さて、これは「ひもろぎ」で確定してよいだろうか。


大場磐雄氏は昭和37年に産田神社を訪れ、「本殿(神明造)の左右に石畳ありて、右方には榊を植えたり、石畳は長方形にて長一・八米、巾一米位、古来神秘なる磐境と傳う。」(茂木雅博書写解説・大場磐雄著『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会、2016年)とメモを残している。

ここに「ひもろぎ」の言葉は登場せず、「磐境」という名称で記されている。

さらに大場氏は翌昭和38年にも同地を調査し、その時の野帳には「産田神社磐座」と表記している。


磐境→磐座と、1年で名前が変わるとは考えにくい。

本来公開すべき性質でなかった個人メモでもあることを勘案すると、おそらく大場氏の中では磐境と磐座はほぼ同じような意味合いで自身が用いたものではないかと思われる。

それはそのまま、当時この施設に対して名称が一定していなかった可能性も匂わせる。

少なくとも地元の口碑収集にも積極的だった大場氏が「ひもろぎ」の名を聞き漏らしていたとは考えにくいところがある。

当時、「ひもろぎ」とさえ呼ばれていなかったのではないかという可能性を記しておく。


また、境内出土の弥生時代遺跡との関連性について。

弥生時代の土器類は境内地から出土したというだけで、「ひもろぎ」が弥生時代から存在したかまでは証明できていない(少なくとも現在の状態ではなかっただろう)。

聖地は連続するという話もあるが、聖地がいつでも聖地だったという前提には帰納的な根拠が必要であり、同じ場所で時代・時期・時間によって求められていた性格が異なっていた可能性を消去してからでないと断定は難しい。

本遺跡からは手づくね土器が見つかっているが、手づくねであることを以て祭祀遺跡と認定できるかどうかも批判的に検討する時期がいつか来るのではないか。


2021年6月13日日曜日

仙宮神社の巨岩群と倭姫命腰掛岩(三重県度会郡南伊勢町)


 三重県度会郡南伊勢町河内

仙宮神社の巨岩群

『天照皇大神御降臨記』という文献に、元伊勢鎮座地として志摩国多古志宮の名があり、これが仙宮神社という。
いわゆる元伊勢伝承の代表作と言える『倭姫命世記』そのものには載らない元伊勢伝承地と言えよう。
このように天照大神の元伊勢の性格を持ちながら、現在の主祭神は猿田彦命をまつる。

元伊勢伝承を外に置くと、実際のところの創建年は不詳となる。

仁治年間(1240~1242年)に官符を賜ったとの社伝があるものの、南伊勢郷土研究の碩学・中世古祥道氏の論文「南伊勢町河内在の『仙宮神社』蔵の資料について」(『三重の古文化』第102号、2017年)によれば、当時の官符に関する記録を批判的検討した結果、仁治年間よりも建治年間(1275~1278年)の可能性が高いことが「老翁の寝言」との但し書きつきで指摘されている(中世古氏は2019年に逝去された)。

神宝には、金銅製水滴(平安時代)、八稜鏡(鎌倉時代)、金銅製経筒(室町時代)が所蔵されているとのこと。
以上を考え合わせれば、平安時代末期~鎌倉時代に神社あるいはその前身としての祭り場が存在した可能性はじゅうぶん首肯される。


仙宮神社は山麓ではなく山中の神社で、地理的には尾根の先端上に立地する。

参道にいたる山中と、本殿の背後に大小の自然石が群集しており、一般的にはこれらは「磐座」と呼ばれる。

仙宮神社は上写真左端の尾根上に位置する。

参道の岩石祭祀事例

参道脇の露岩。こちらは祭祀設備なし。

社殿左脇の岩石祭祀事例

仙宮神社社殿(写真右)と背後の巨岩群

岩群

巨岩は見る角度によって岩崖の異なる表情を見せる。

猿神石と通称される岩肌面

また、私が訪れた2009年の時には見当たらなかった信仰だが、現在は本殿背後の一大巨岩が猿の横顔のように見えるらしいことから、新たに「猿神石(さるしんせき)」という名称が人口に膾炙している。猿の顔→猿田彦に通ずることから、祭神の顔として神聖視につながったようだ。

2015年12月4日付読売新聞記事などで「猿神石」の名が登場し、2016年申年の縁起とも重なりパワースポットとしての知名度が高まった様子が覗われる。

ただ、猿神石の名は古記録に現れるものではなく、神の顔が岩石に現れるという心性についてはあくまでも現代の岩石信仰であることを付言しておきたい。


この岩群が仙宮神社の社殿祭祀より先立つことについては、神社が山麓ではなく山中に所在することや自然の巨岩の群れで人為的に寄せたものではないことから間違いないところと思われるが、その始源をどこまで遡らせることができうるだろうか。


三重県埋蔵文化財センター『三重県埋蔵文化財調査報告345 奥ノ田頭遺跡発掘調査報告』(2014年)に「仙宮神社には安政年間に付近で発見されたという伝承がある子持勾玉が残されている」という一文を見つけることができた。

子持勾玉と言えば古墳時代の代表的な祭祀遺物であるが、果たして「付近」とはどの範囲を指すだろうか。

安政年間には当地で高波が発生し、その時に神社所蔵の古記類は流出したという。

それと同じ安政年間に発見されたという子持勾玉も、高波後に地表下から見つかったものと類推するなら、その発見場所は高波が届かない山中の巨岩裾ではなく、山麓の平野部とみなすのが妥当かもしれない。

南伊勢町では目立った発掘調査がなされていないので、考古学的な推測はまだ難しい状況である。近くから土器などが見つかったという話もあるが、巨岩を対象とした祭祀だったと断定することはまだ避け、南伊勢の河内の地域において古墳時代の祭祀に関わる痕跡があったらしいとまで言及しておくのが望ましいだろう。


なお、仙宮神社南の国道沿いに「倭姫命腰掛岩(倭姫命腰かけ岩)」が現存する。

「垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が天照大神の鎮座地を探し求めて当地を御通過の時、長旅の疲れをいやそうと御休憩された由緒の地であります」(現地看板)とのことで正しく元伊勢伝承地の旧跡であり、仙宮神社を元伊勢伝承地として物語った時期と前後して成立した場所だろう。

腰掛石そのものより石碑のほうが目立つ。

石碑の裏にひっそり佇むのが腰掛石。


2021年6月6日日曜日

石山観音(三重県津市)


三重県津市芸濃町楠原字石山


石山観音の摩崖仏


石山と呼ばれる岩山の岩肌に、鎌倉時代以降、40体以上の磨崖仏が彫られ続けた霊場。

石山は標高160mほどで、麓からは比高50m強でありながら、里からも近いのに山頂は草木のない岩山の奇観が広がる。



岩肌に彫られた磨崖仏は、鎌倉時代を最上限として、江戸時代まで時期をいくつか置きながら造られたと考えられている。

一定の巡路に沿って巡れば、山を一周しながら三十三観音を礼拝するという形式をとるが、観音だけでなく阿弥陀仏・地蔵仏・不動明王像なども造立されており、統一的規格による霊場というよりは一種の混沌観や多様性を宿した場となっている。


石山観音のパンフレット(横井文英氏著)の言を借りれば、

「他のこうした霊場は一具の仏像が同じ工人によって短時日の内に造立される結果、画一的で個性に乏しいものが多い中にあってこの石山観音は長年月に亘って遂次追刻されたらしく、個々の仏像に大小の差や姿態の変化があり各々個性的である点は大きな特色と言えよう」

たしかに、立像・坐像の違いもさながら、巨大な摩崖仏から小さく可愛らしい存在まで様々、表情一つとってもバラエティに富んでいる。

ただ、彫刻のしかたは先達を踏襲したものと思われ、仏像の前半分が岩盤から立体的に浮き上がるようにした「半肉彫り」と呼ばれる彫刻様式を採用している。


坐像タイプ(第一番)


立像タイプ(第二番)


石碑タイプ(第二十九番)


千手観音タイプ(第三十二番)


大規模タイプ(番外:阿弥陀如来立像。像高3m52cm)


馬の背


山頂はモコモコと岩盤が隆起して、これがまるで馬の背中を想起させることから俗に「馬の背」と呼ばれる。




石仏群がまだ造られていなかった時も、この岩山はここに存在していたのだろう。

石山における「馬の背」のインパクトには無視できないものがあり、里にも近いだけに、仏教以前の石山の聖地としてのありかたにも想像を逞しくしてしまう。

けれども、記録を調べてもそういった類の話は見当たらず、客観的な結論としては石仏文化の霊場という評価が唯一下せうるものとなる。


「馬の背」という言葉自体にも、岩石に対する尊敬・神聖視の感情は読み取れない。

「馬の背」は下方から上方まで万遍なく磨崖仏が刻まれていることから、「岩石を畏れ多いものとして手を加えない」という発想はなかった。

むしろ「岩石に手を加えることで、初めて岩石は神聖なものに昇華する」という認識に基づいた行為なのだろう。

さすがに頂上部だけはこれといった彫刻は見当たらないが、磨崖仏を立体的に刻む場合、頂面の造像は物理的に不可能と言え、側面に刻むのが自然の成り行きである。この現象自体に深い意味はないと思われる。


石山観音の今


石山観音の麓には、かつてここを霊場として用いる浄蓮坊があったが、江戸時代初期に浄蓮坊は別の場所に移り石山観音の管理から離れ、今は自治体管理の下、石山観音公園として整備がなされている。

よって、多数の磨崖仏や「馬の背」の景観は今も霊地の趣きながら、それぞれの磨崖仏から「祭祀行為」は失せ、供え物の類は個人的な篤信によるもの以外は基本的に見られない。


また、「馬の背」にはおそらく昭和初期の頃かと見られる落書きの彫刻(人名や恋人同士の相合傘など)が多数刻まれ、この頃から人々の中からは石山観音という場所に対する「神聖視」は失せ、観光名所的な「特別視」に移っている様子が見受けられる。

岩肌に刻まれた無数の人名

人はなぜ岩石に自らの名を刻むのか。集団心理、歴史的遺産。

これは1990年代後半~2000年代前半の所産か。

一応、現在も4月と9月の年2回「石山観音まつり」が催され、その時は現・浄蓮寺による読経や文化協会による俳句・詩吟などの行事で多数の人々が集まる。

しかし、この「まつり」が人々が仏に何かを祈願する本来的な祭祀になっているかというと、それよりも観光要素の強いイベントの感が強い。文化協会がイベントを支えていることから当然とも言える。


それでも石山観音は大切に整備され、霊地の空気はいまだ損なっていない。

今は組織的な祭祀主体はいなくとも、個人的な地元の崇敬者や、ここに来て多数の石仏に出会い、新たに祈りを捧げる地元外の祈願者も潜在的に存在し続ける可能性が高い。

公園として活用する一般の観光客と、馬の背に座りずっと何事かを念じている人を見た時、ここのもう1つの特色を見た気がする。