2021年6月21日付、読売新聞和歌山県版の記事に取材コメントが掲載されました。
インターネット記事にもなっています。
奇岩・巨岩が和歌山に集中、1400万年前の巨大噴火で出現した「超巨大カルデラ」に深く関連 : 科学・IT : ニュース
和歌山の岩石について、地質的な方向と、人文学的な方向でアプローチした好記事です。
巨岩というテーマについての依頼でしたので、巨大なる岩石を包括した岩石信仰の見地からコメントしました。
紙面においてもかなりの紙幅を割いていただきありがたい限りですが、取材では約1時間話していますので、紙面で収録できなかった部分をこの記事で肉付けいたします。
まず、紙面では「『古事記』などの古文書には、道をふさぐ巨大な岩を神に祈ることで動かそうとしたり、割ろうとしたりする記述があるという」と記されていますが、取材時はソースをはっきり出していなかったので、具体的な記述を紹介していきましょう。
※以下、倉野憲司校注『古事記』(岩波書店、1963年)より
火をもちて猪に似たる大石を焼きて、轉ばし落としき。ここに追ひ下すを取る時、すなはちその石に焼き著かえて死にき。(上つ巻)
石長比売を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石(いは)の如くに、常はに堅はに動かずまさむ。(上つ巻)
山に入りたまへば、また尾生る人に遇ひたまひき。この人巖(いはお)を押し分けて出で来たりき。ここに「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は國つ神、名は石押分(いはおしわく)の子と謂ふ。」(中つ巻)
岩を押し分けて出てきたという行為を持って神名がつく事例。
それはつまり、岩が巨大なるもの、動かないものという精神性を込めていたから、それを動かす力が神として当時認められるにふさわしい力の一つだったと言えます。
御杖をもちて大坂の道中の大石を打ちたまへば、その石走り避りき。故、諺に「堅石(かたしは)も酔人を避く。」といふなり。(中つ巻)
動かない存在である大石が、天皇という貴人の酩酊という一種の特殊状態で、杖を用いて大石を打つという特殊行為を重ねて、大石が走り逃げるという逆説的な物語が成立するのでしょう。
そこまで、大石は人々にとって本来動かないものということです。
紙面では「古事記など」という形で省略されましたが、コメント内容は『日本書紀』も含んだものでした。
特に、以下の二か所の記述を念頭に置いての発言です。
※以下、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀』全5巻(岩波書店、1994年)より
其の野に石(いし)有り。長さ六尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸。天皇祈ひて曰はく、「朕、土蜘蛛を滅すこと得むとならば、将に玆の石を蹶ゑむに、柏の葉の如くして挙れ」とのたまふ。因りて蹶みたまふ。則ち柏の如くして大虚に上りぬ。故、其の石を号けて、蹈石(ほみし)と曰ふ。(巻第七)
大磐(おほいは)塞りて、溝を穿すこと得ず。皇后、武内宿禰を召して、剣鏡を捧げて神祇を禱祈りまさしめて、溝を通さむことを求む。則ち当時に、雷電霹靂して、其の磐を蹴み裂きて、水を通さしむ。(巻第九)
「信仰の対象」は、必ずしも、崇拝の対象とはイコールではありません。
この場合は、巨大なるものという人知を超えた超越的な存在であることは信じつつも、それを崇める対象とはせず、人の営みに反逆する存在、克服すべき存在として描いたものと解釈しています。
巨岩・巨石の不動性や堅固性が、忌避性や反逆性にも通ずるという複合的な性格を表すことにもなると考えています。