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2021年6月21日月曜日

産田神社の「ひもろぎ/神籬」(三重県熊野市)


三重県熊野市有馬町


産田神社は、伊弉冉尊が軻遇突智尊を産んだとされる場所で、その由来から通称、花の窟の奥の院とも称された。

境内からは弥生土器、土師器、手づくね土器、水田用の木杭などが出土して、産田神社祭祀遺跡として市指定史跡に登録されている。




そのような産田神社にはもう一つ、遺跡とみて良いかどうか注目すべき施設が存する。

本殿の左右両脇に、岩石を複数並べた矩形の敷石があり、社頭看板ではこれを「ひもろぎ(神籬)」と記している。

社殿向かって左側の「ひもろぎ」

社殿向かって右側の「ひもろぎ」(写真ブレ失礼)

もう少し具体的に見てみよう。

5個の人頭大の岩石を直線に並べ、その周囲を一層小ぶりで厚さ薄めの岩石で方形に囲んでいる。前者と後者は、厳密に書けば祭祀施設としての役割は異にするものと見て良い。

正面向かって左側の「ひもろぎ」は保存状態良好の一方、右側の「ひもろぎ」は樹木の生長によってか状態が崩れ気味の様子。

いわゆる「神籬磐境」のイメージとしては、施設の中枢を担う常磐木として相応しいが…。


さて、これは「ひもろぎ」で確定してよいだろうか。


大場磐雄氏は昭和37年に産田神社を訪れ、「本殿(神明造)の左右に石畳ありて、右方には榊を植えたり、石畳は長方形にて長一・八米、巾一米位、古来神秘なる磐境と傳う。」(茂木雅博書写解説・大場磐雄著『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会、2016年)とメモを残している。

ここに「ひもろぎ」の言葉は登場せず、「磐境」という名称で記されている。

さらに大場氏は翌昭和38年にも同地を調査し、その時の野帳には「産田神社磐座」と表記している。


磐境→磐座と、1年で名前が変わるとは考えにくい。

本来公開すべき性質でなかった個人メモでもあることを勘案すると、おそらく大場氏の中では磐境と磐座はほぼ同じような意味合いで自身が用いたものではないかと思われる。

それはそのまま、当時この施設に対して名称が一定していなかった可能性も匂わせる。

少なくとも地元の口碑収集にも積極的だった大場氏が「ひもろぎ」の名を聞き漏らしていたとは考えにくいところがある。

当時、「ひもろぎ」とさえ呼ばれていなかったのではないかという可能性を記しておく。


また、境内出土の弥生時代遺跡との関連性について。

弥生時代の土器類は境内地から出土したというだけで、「ひもろぎ」が弥生時代から存在したかまでは証明できていない(少なくとも現在の状態ではなかっただろう)。

聖地は連続するという話もあるが、聖地がいつでも聖地だったという前提には帰納的な根拠が必要であり、同じ場所で時代・時期・時間によって求められていた性格が異なっていた可能性を消去してからでないと断定は難しい。

本遺跡からは手づくね土器が見つかっているが、手づくねであることを以て祭祀遺跡と認定できるかどうかも批判的に検討する時期がいつか来るのではないか。


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