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2021年8月29日日曜日

赤岩尾神社の赤岩(お俵石・屏風岩)と岩洞風穴(三重県名張市)


三重県名張市滝之原


滝之原の集落から南へ4km、名張川が切り開いた山間部の切り立った山腹斜面上に赤岩尾神社が鎮座する。

赤岩尾神社は、明治時代の神社合祀令によって同地区の国津神社の摂社として合祀されたが、現在も立派な道標や社殿など諸設備を有し、例祭も執り行なわれている。

合祀令で途絶えることのなかった信仰の強さを示すが、それは現地に残る自然岩の景観から聖地となった場所で、いまだに人々を惹きつける聖性が残っているからだろう。


赤岩尾神社は山中の辺鄙な立地で本来参拝も大変だったことだろうと思われるが、現在は駐車場が整備されており、そこに車を止めれば入口から徒歩5~10分で拝殿に到着する。

赤岩尾神社の直下の名張川には比奈知ダムが造成されている。

赤岩尾神社駐車場に「赤岩神社」の碑が立つ。

神社入口にまつられる「山の神」

赤岩尾神社

拝殿の背後に、一大岩壁「赤岩」がそびえる。

上部は「お俵石」、下部は「屏風岩」を体現する柱状節理の造形を見せる。凝灰岩といわれ、赤みを帯びる岩肌から赤岩の名が生まれたのだろう。





この場所から30m先に歩いた境内に風穴が存在する。

『なばりの物語』の聞き取りでは「夏は冷たく、冬は温かい風が吹く」との話だったが、現地看板には「年中同じ温度の風が吹く」とあった。

岩洞/風穴

風穴に手を入れてみたが、私が訪れたのは2月で風が強めの日だったこともあり、風が吹いているのか吸い込んでいるのかは感じ取れなかった。


Web上にはすでに貴重な情報がある。

まず、名張高校郷土研究部が1980年に発表した『なばりの昔話』をサイト化した「なばりの昔話 国津・比奈知編 赤岩さんと千方将軍」(2009年2月21日閲覧)には、明治~昭和初期生まれの方の話として下記が紹介されている。


  • 赤岩尾神社の通称は「赤岩はん」。
  • 赤岩尾神社にまつられている岩の名は「赤岩」。赤茶けているから。
  • この岩山を赤岩尾と呼ぶ。
  • 赤岩は、屏風のような「屏風岩」と、米俵を積んだかのような「お俵石」から構成される。
  • 小岩尾という所に風穴があり、夏は冷たく、冬は温かい風が吹く。
  • 藤原千方(この辺りの地域で四鬼を操り朝廷と対抗した伝説上の武将)が武運長久を願った神社で、朝廷の追っ手が来た時は風穴に身を潜めたという。
  • 近くに穴尾山、高座山があり、穴尾山には恵比寿岩・大黒岩という岩石、高座山には藤原千方の馬の蹄跡が残る「千方の飛石」があるという。
  • 山の麓には子安地蔵があり、藤原千方のように強い人になって長生きするという信仰がある。


次に、伊賀藤堂藩の藤堂元甫らが主導して1763年(宝暦13年)に完成した『三國地誌』にも赤岩尾神社に関する記述が登場する。

『三國地誌』の原文と現代語訳を載せている巫俊さんのサイト「『三國地誌』現代語訳wiki」「巻之八十 伊賀国 名張郡 山川」(2009年2月21日閲覧)を参照すると下記のとおりである。


  • 高座山に、藤原千方の飛石がある。
  • 高座山に、嬰児が長命になる小売地蔵がある。
  • 赤岩尾山の山頂に岩窟があり、夷石、大黒石の名がある。
  • 赤岩尾山にある岩洞と屏風岩は奇岩である。


上のうち、赤岩尾山の「岩洞」が『なばりの物語』に登場する風穴を指し、「屏風岩」が赤岩を指すのだと思われる。

赤岩尾神社境内に広がる岩の群れ。赤岩尾山全体がこのような地形的特徴をもつ山なのだろう。

赤岩のほかにも柱状節理の露岩が散見される。


2021年8月23日月曜日

岩神神社(奈良県吉野郡吉野町)


奈良県吉野郡吉野町矢治





吉野地域を代表すると言ってよい、巨岩信仰の神社。

祭神は諸説あるようだが、本来は人格神としての信仰ではないということを表すのかもしれない。


現在は「岩穂押開神」で通っていることが多いようだが、これは『古事記』でいう石押分、『日本書紀』でいう磐排別から来たものとされている。

山に入りたまへば、また尾生る人に遇ひたまひき。この人巖(いはお)を押し分けて出で来たりき。ここに「汝は誰ぞ。」と問ひたまへば、「僕は國つ神、名は石押分(いはおしわく)の子と謂ふ。」(『古事記』中つ巻)
倉野憲司校注『古事記』(岩波書店、1963年)より

尾有りて磐石(いは)を披けて出れり。天皇問ひて曰はく、「汝は何人ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是磐排別(いはおしわく)が子なり」とまうす。(『日本書紀』巻第三)
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀』全5巻(岩波書店、1994年)より

吉野の岩神神社がモデルでこの物語が創られたとは即断できず、逆に記紀神話の影響で後世に伝承地が勃興した可能性も想定しなければならない。


記紀記述上の特徴も触れておこう。


物語で登場したのは、イハオシワクではなく、イハオシワクの「子」である。

厳密に読むと、イハオシワクおよびその子は「巖」「磐石」そのものではなく、岩石は押し開かれる対象となっている。

『記紀』における「天の磐座(石位)」も、常に「引き開く」「押しはなつ」「離れる」対象として描かれている。

この点を考えると、イハオシワクが動かした岩石は多分に磐座的と言え、かつ、中から出てくるという点では、内部空間をもつ岩屋のような描かれかたでもあると言える。

まとめると、岩石=神と呼ばれる関係ではなく、むしろその岩石を動かしたという行為に神格があり、岩石は装置的・サブ的なのである。


吉野の岩神神社がこの物語の岩石を指すかは、繰り返しとなるがわからない。

現地看板によると、「岩神」の名は少なくとも元禄4年(1691年)まで遡れるとのことだが、その頃には岩石=神としての信仰であり、岩石は装置でもサブでもない主役として君臨している。

岩神神社 境内全景

岩神神社の対面に流れる吉野川


2021年8月15日日曜日

日原鍾乳洞(東京都西多摩郡奥多摩町)


東京都西多摩郡奥多摩町日原


日原鍾乳洞は奥多摩の観光地として関東では知られた存在であるが、かつては「一石山の御窟」「一石山の御岩屋」と呼ばれ、江戸時代には多くの修験者らが足を踏み入れた行場だったといわれる。

日原鍾乳洞入口

現在も鍾乳洞の内部には「弘法大師学問所」「さいの河原」など、それらしき名前が付けられたポイントが点在しているが、観光地化の影響を少なからず受けているため詳細はわからない。

洞内の「弘法大師学問所」

鍾乳洞の隣に一石山神社が鎮座する。

かつては一石山大権現の名を称し、その沿革を見るに山岳仏教に端を発する霊場だったと推測されるが、日原鍾乳洞は一石山神社の神体だったと社頭掲示に記される。


その一石山神社の背後に、籠岩という断崖絶壁の岩山がある。

籠岩

岩山の下部

日原集落と日原鍾乳洞の間には「オガム所」と呼ばれる場所があり、ここで北西にそびえる天祖山、北東にある籠岩、南西にある稲村岩を遥拝したという。

天祖山には立岩権現が宿るといい、立岩権現が秩父へ神幸する間、人はオガム所より奥には入っていけないといわれていたという。

(なお、天祖山のさらに西方の山奥に「光り石」という岩石があり、辺りが暗くなると発光したというが、昭和に入ってダイナマイトで壊されてしまったらしい。)


この天祖山と並列して籠岩も遥拝対象であったのなら、単なる岩山ではなく神聖視の領域にある岩石祭祀事例と位置づけられる。

また、日原鍾乳洞の後方には梵天岩という岩峰が屹立している。

梵天岩

元々は同じような形の岩が6つ突き出ており「六本岩」の名があったが、現在残るのは梵天岩1本のみだという。

このような奇岩怪石の一つ一つを行場と位置づけ、神体たる洞内で行を修めることで神人合一と考えたのかもしれない。


出典

「奥多摩駅←→鍾乳洞 路線バス 日原街道 地元学マップ」(鍾乳洞受付で入手)


2021年8月8日日曜日

京都「四岩倉」伝説について

平安京の四方に、桓武天皇が一切経を埋納した「北岩倉・東岩倉・西岩倉・南岩倉」が存在するという。

たとえば、竹村俊則氏『昭和京都名所図会』全7巻(駸々堂出版1980年‐1989年)によると、この四岩倉伝説は「口碑」とのみ記して具体的な典拠を示さないが次のように触れている。一つ一つ紹介していこう。


北岩倉 —石座神社と山住神社—

口碑によれば、桓武天皇は平安遷都の際、京都の四方の山に大乗経を納め、王城の鎮護とされたが、これを岩倉と称した。ここはその北の岩倉にあたるところから地名になったとつたえ、一に岩蔵・石蔵または石座とも記す。おそらく古代の磐座信仰にもとずいて発生したものであろう。その形跡は古代祭祀の遺跡を神体化した山住神社として、現存している。(竹村『3 洛北』,p.178,1982)

京都府左京区に岩倉という地名が残る。

岩倉の西河原町に山住(やまずみ)神社、そして上蔵(あぐら)町に石座(いわくら)神社が鎮座する。両社はやや複雑な変遷史があるので、石座神社の由緒略記に基づいて以下に簡潔に紹介する。


石座神社は、当初は西河原町の山住神社を指していた。しかし天禄2年(971年)、円融上皇の廟として大雲寺が山住神社のやや北方に創建された際、そこに石座明神の鎮守を移すことにした。そして長徳3年(997年)、八所明神と名付けられた鎮守社が上蔵町に勧請され、岩倉の鎮守は八所明神に移った。明治時代に、この八所明神を石座神社と呼ぶようになり、西河原町の従来からの石座神社は山住神社と呼ばれ、石座神社の御旅所となって現在に至るという。


つまり岩倉の地名の元となった元来の石座神社は現・山住神社ということであり、なるほど山住神社には、高さ4m×幅4mほどの岩塊をまつる。社殿はないが、岩塊の手前には高さ1mほどの小ぶりの立石があり、簡易の木柵・屋根で守られている。

山住神社(北岩倉 石座神社旧地)




さらに、山住神社は山の裾に位置するが、背後の山(標高170m程度。比高70m程度)を神山として神聖視するといい、岩石信仰と山岳信仰を有する自然物信仰の地としての特徴を有する。

山住神社と裏山

『日本三大実録』の元慶4年(880年)10月13日条には、石座神社に従五位下の神階が授けられたという記述があり、これが当・石座神社を指すとされる。

延喜式内社ではないが国史見在社としてその歴史をたどることができ、それはそのまま京都における岩倉の歴史の最上限と言い換えることもできるだろう。


東岩倉

大日山(東岩倉山)は日向大神宮の背後の山をいい、粟田山の支峰である。海抜二八八メートル。(略)伝えるところによれば、むかしこの山中に僧行基が開創したという東岩倉寺があって、江戸時代の頃には石造大日如来像を安置した大日堂があったことから、山名となった。また、平安遷都に際し、王城の鎮護として大乗経を京都の四方の山に蔵められたが、これを岩倉(石蔵)と称した。ここはその東の岩倉にあたるといわれるが、経塚の址については今そのところを明らかにしない。(竹村『2 洛東-下』,p.44,1981)

このように、東岩倉は現在その所在がはっきりとはしていない部分がある。

東岩倉山の麓にある日向大神宮には「影向石」や「天岩戸」と呼ばれる岩石の聖跡が存在するが、その規模や景観から推測するに近世を遡りうるものかどうかは不明。

日向大神宮の影向石と天の岩戸(京都府京都市)


西岩倉

金蔵寺は小塩山の南中腹にあって(略)桓武天皇は延暦遷都にあたって、京都の四方に経典を埋めて王城の鎮護とされたが、当寺はその西方にあたるので、西岩倉山と号するとつたえる。(略)『今昔物語』巻十七によれば、「京の西山に西岩蔵と云う山寺あり、その山寺に仙久という持経者住みけり」云々(略)桓武天皇が埋納された経塚(石蔵)は現在そのところを明らかにしないが、本堂の地とつたえる。(竹村『6 洛南』,pp.218-219,1985)


西岩倉もその名を残る寺院があるものの、肝心の「岩倉」の現物の所在地とそれがどのようなものであるかは不明点を残す。


南岩倉 諸説(八幡山・明王院・獅子窟寺)


以上、竹村氏の文を引きながら北・東・西の三か所の「岩倉」を紹介してきた。

南岩倉については最も曖昧な存在であるようで諸説入り乱れ、南岩倉候補地とては次の3カ所が挙げられている。

  1. 京都府京都市下京区石不動之町の明王院不動寺(通称・松原不動)
  2. 京都府八幡市の石清水八幡宮が鎮座する八幡山(男山)
  3. 大阪府交野市の獅子窟寺


竹村氏採録の説では「南は八幡の男山」(竹村『3 洛北』,p.178注1,1982)ということで八幡山説を採るため、南岩倉候補地として一般的な明王院不動寺の項(5 洛中,p.382,1984)には四岩倉に絡めた記述は登場しない。


京都府立京都学・歴彩館回答のレファレンスhttps://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000115718(2021年8月8日閲覧)では、元禄2年(1689年)刊行の『京羽二重織留』という文献に南岩倉の候補地がすでに複数あったことを紹介している。


上記リンクに引かれている火坂雅志氏『京都秘密の魔界図』(青春出版社、1992年)は、とりわけ現在流布する京都四岩倉伝説を形作ったのではないかと思われ、南岩倉は明王院不動寺説のみを掲載する。

明王院不動寺はその名のとおり不動明王の石像をまつるが、その岩石が磐座というのは牽強付会にすぎる。

火坂氏は、明王院不動寺のあたりの松林にこんもりとした丘があったという伝えを紹介し(同書p.26)、今は亡きその丘に磐座もあったのだろうと類推し、他の東岩倉や西岩倉にも同様の「今は亡き」磐座があったという前提で話を進めている。


南岩倉の扁額(明王院不動寺)

現地説明板


京都四岩倉伝説の歴史上の問題点まとめ


ここからは、京都四岩倉問題について私見を述べる。
この四岩倉については一般的イメージがつきすぎて独り歩きしている部分があるため、ネット上の一つの異論として文章を残しておきたい。


まず、現状として自然石祭祀としての痕跡がはっきり残るのは北岩倉の山住神社のみであり、ほかの東西南は北岩倉と同規格だという根拠なき前提に引っ張られすぎな感があることを問題提起したい。


なぜなら、「いわくら」は「磐座」の用例だけではなく、中世以降において仏教施設の「石蔵(いしぐら/いしくら/いわくら)」の用例もあることに注意しないといけないからだ。


大阪府箕面市の勝尾寺が設けた「八天石蔵」は、寺の境界に仏像を埋めてその上に積石施設を造ったものであり、鎌倉時代の造営と考えられている。

仏を埋めたか経を埋めたかの違いはあるが、聖域の結界という点で京都四岩倉と類似した役割を見せる。自然石の磐座とはまた別の系統から影響した祭祀が影響している可能性を考慮しなければならないだろう。


そもそも、京都四岩倉伝説の「初出時期」と「初出文献」がいまひとつはっきりしない。web上ではすでにある程度文献調査をまとめられている方がいる。


・「明王院(松原不動)(京都市下京区)」(webサイト「京都寺社案内 京都風光」内)
https://kyotofukoh.jp/report439.html(2021年8月8日閲覧)


・「皇都鎮護埋経(候補)地を巡る(その2[北,東])」(webサイト「徒然なるままに京都」内)
https://turedure-kyoto.blogspot.com/2019/05/2.html(2021年8月8日閲覧)


これら先達の方々の情報を踏まえると、平安京の四方に桓武天皇が一切経を埋納した云々という伝説内容の記述は、『雍州府志』(1682-1686年)、『京羽二重織留』(1689年)までは遡ることができるようだ。どちらもほぼ同時期の文献となる。


しかし、たとえば『雍州府志』の書き口は、すでに京都四岩倉伝説がある程度巷間に流布していたかのようであり、『雍州府志』が伝説のオリジナルではなく、同書がさらに参照したソースがあったことは想像に難くない。

また、南岩倉の場所はすでにわからなくなっており複数の候補地が挙げられているという先述した話も、当時この伝説がある程度の時間経過を経たものであることの傍証と言える。

(元は京都三岩倉だった可能性も?)


もちろんすでに触れたように、平安末期の『今昔物語』に「西石蔵」の名が、そして、延喜元年(901年)完成の『日本三大実録』に「石座神社」の名がすでに登場している。

しかし、この両文献は

  • 桓武天皇が納経云々の話は記していない。
  • 他の三岩倉の存在も記していない。

という点に注意しなければならない。

『今昔物語』例は「西」と冠しているので、他の方位の「石蔵」もあったとみるのは自明なのかもしれない。それでも、江戸初期の四岩倉伝説が、そのまま平安時代にもあったと同一視するのは危険だ。


危険視する理由は、「いわくら」の漢字表記にある。

『今昔物語』例は「石蔵」(または岩蔵)の表記であり、江戸初期文献の「岩倉」表記との違いは、単なる当て字だけでなく他の伝説内容や先述のとおり祭祀施設としての機能の違いを示唆する可能性がある。

『日本三大実録』例は「石座」表記であり、それが山住神社の自然石祭祀としての磐座を指す可能性は、同じく「石座」の字をもつ延喜式内社の愛知県新城市石座神社、滋賀県大津市石坐神社が現在も自然石の信仰を伝えることから首肯可能である。

これはすなわち、石座と石蔵の間に込められた意味や機能の違いを示したのかもしれず、北岩倉と西岩倉は本来別系統の信仰に基づく場所だった可能性がある。


かつて自然石信仰を行った地を後世に納経の地とする事例については、静岡県浜松市渭伊神社境内遺跡(通称・天白磐座遺跡)を筆頭に、三重県桑名市多度経塚、三重県伊賀市猪田経塚、京都府宮津市真名井神社経塚など類例がある。

上記事例においては「石蔵」の名が残っているわけではないが、自然石信仰の聖地が後世に仏教の祭祀施設に変容することの親和性を表している。


このように、四岩倉と一括される各聖地は元は「岩倉」表記ではなく、岩石信仰としての視点から見つめなおすとき、通俗的に流布している「磐座」の一言で統一できる存在とは必ずしも言えず、歴史の重層性の中で批判的検討が重ねられていくことが望まれる。

ひきつづき、京都四岩倉伝説がいつ頃のどの文献まで起源をさかのぼることができるのか、特に、平安時代から江戸時代初期の間を埋める文献をご存知の方はぜひ教えてください。


2021年8月1日日曜日

石光山(奈良県御所市)


奈良県御所市元町


御所市平野部の中に盛り上がった丘を石光山(せっこうざん)と呼ぶ。

標高124mで、現在は住宅地の中にわずかな森を残す姿となっている。

石光山

しかしこの山中には、かつて所狭しと約100基の古墳(円墳・方墳・前方後円墳)が築造されており、石光山古墳群として古墳時代の考古学ではよく知られた存在である。

戦後の経済成長期の中、山の西半分が宅地開発によって削平され、その際に52基の古墳が破壊されることになり、発掘調査が行われた。その結果、5世紀末から7世紀の良好な葬送・追葬状態を保つ遺構・遺物が見つかった。

石光山古墳群で現存する円墳(一部)

個人的な話となり恐縮だが、私が大学の卒業論文で資料として用いた主たる遺跡がこの石光山古墳群(木簡直葬の良好な資料として貴重)でもあり、その点でも思い出深い場所となっているので当古墳群の貴重性について少し触れたい。


木棺直葬墓はいわゆる竪穴系の埋葬施設であるが、横穴式石室が普及してからも木棺直葬墓の築造は費えることなく、横穴式石室と並存した。

しかし横穴式石室が普及したことで、木棺直葬墓での葬送儀礼は、横穴式石室の影響を受けて変容したとされる。この見方に基づき、木棺直葬墓と横穴式石室の副葬空間はそれぞれ同質的な関係にあるという。


これを受けて私は、本当に竪穴系埋葬施設の木棺直葬墓が横穴式石室の構造と同質と言えるのか、という疑問を抱いた。

木棺直葬墓には木棺直葬墓なりの葬送儀礼があったのではないか?

木棺直葬墓から多く出土する土器の様相を検討することでそのことを明らかにし、従来の研究で言われてきた「同質性」ではなく「差異性」を提示しようと卒論のテーマとして取り上げたのである。

興味のある方は卒論でまとめた各種データがあるので個別にお問い合わせください。


さて、この記事で触れたいのは古墳群だけではなく、石光山の山名の由来となった「石」の存在である。

石は石でも、古墳石材ではなく古墳の隣にある自然石についてである。


石光山の西半分は宅地開発で消滅したが、東半分は現在も残っていて、山の東端には古墳群に囲まれて、現在も長さ3~4mほどの巨石群が集まっている。

石光山古墳群の報告書(1976年)によるとわずかに言及があり、この岩に触ると火が出るといわれると地元で信じられ、小祠をまつるのだという。石から火を発して光るというところから山名がついたのだと推測される。

なお、この巨石群が古墳群とどのような関係にあるのかは報告書でも一切触れられていない。


卒論で石光山古墳群を取り上げてから約4年後、現地を訪れる機会があり山に踏み入れたところ目に飛び込んできたのが下の景観だった。

山の東側から取りつき登る。

巨石の群れと、その右奥に見える祠

石仏も安置され、まつりの場所であることがわかる。

巨石群の中にまつられる石祠

岩肌の断面が気になる。

裏側

岩陰状空間をなす岩石群も存在。

巨石群の上方から撮影。

祠の手前にこのような3体の岩石があり、内部の地表が半地下にくぼむ。

石室状に見えるが、報告書に当たる限り古墳として指定されていない存在。



これらの巨石群については、拙著『岩石を信仰していた日本人』(2011年)の中で若干の説明と私の考えを述べた。

それから10年を経るが、基本的な情報と疑問点は今も同じまま進展していない。

自然石と古墳という2つが同居することの意味は、古墳時代の形而上観念をどう位置づけるかという一大問題として、いつかメスを入れなければならないだろう。


参考文献

  • 亀田博・河上邦彦・白石太一郎・千賀久(編著)『葛城・石光山古墳群』(奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第31冊) 奈良県立橿原考古学研究所 1976年
  • 吉川宗明「石光山(奈良県御所市) 古墳に取り囲まれた巨岩群」『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』 遊タイム出版 2011年