奈良県御所市元町
御所市平野部の中に盛り上がった丘を石光山(せっこうざん)と呼ぶ。
標高124mで、現在は住宅地の中にわずかな森を残す姿となっている。
石光山 |
しかしこの山中には、かつて所狭しと約100基の古墳(円墳・方墳・前方後円墳)が築造されており、石光山古墳群として古墳時代の考古学ではよく知られた存在である。
戦後の経済成長期の中、山の西半分が宅地開発によって削平され、その際に52基の古墳が破壊されることになり、発掘調査が行われた。その結果、5世紀末から7世紀の良好な葬送・追葬状態を保つ遺構・遺物が見つかった。
石光山古墳群で現存する円墳(一部) |
個人的な話となり恐縮だが、私が大学の卒業論文で資料として用いた主たる遺跡がこの石光山古墳群(木簡直葬の良好な資料として貴重)でもあり、その点でも思い出深い場所となっているので当古墳群の貴重性について少し触れたい。
木棺直葬墓はいわゆる竪穴系の埋葬施設であるが、横穴式石室が普及してからも木棺直葬墓の築造は費えることなく、横穴式石室と並存した。
しかし横穴式石室が普及したことで、木棺直葬墓での葬送儀礼は、横穴式石室の影響を受けて変容したとされる。この見方に基づき、木棺直葬墓と横穴式石室の副葬空間はそれぞれ同質的な関係にあるという。
これを受けて私は、本当に竪穴系埋葬施設の木棺直葬墓が横穴式石室の構造と同質と言えるのか、という疑問を抱いた。
木棺直葬墓には木棺直葬墓なりの葬送儀礼があったのではないか?
木棺直葬墓から多く出土する土器の様相を検討することでそのことを明らかにし、従来の研究で言われてきた「同質性」ではなく「差異性」を提示しようと卒論のテーマとして取り上げたのである。
興味のある方は卒論でまとめた各種データがあるので個別にお問い合わせください。
さて、この記事で触れたいのは古墳群だけではなく、石光山の山名の由来となった「石」の存在である。
石は石でも、古墳石材ではなく古墳の隣にある自然石についてである。
石光山の西半分は宅地開発で消滅したが、東半分は現在も残っていて、山の東端には古墳群に囲まれて、現在も長さ3~4mほどの巨石群が集まっている。
石光山古墳群の報告書(1976年)によるとわずかに言及があり、この岩に触ると火が出るといわれると地元で信じられ、小祠をまつるのだという。石から火を発して光るというところから山名がついたのだと推測される。
なお、この巨石群が古墳群とどのような関係にあるのかは報告書でも一切触れられていない。
卒論で石光山古墳群を取り上げてから約4年後、現地を訪れる機会があり山に踏み入れたところ目に飛び込んできたのが下の景観だった。
山の東側から取りつき登る。 |
巨石の群れと、その右奥に見える祠 |
石仏も安置され、まつりの場所であることがわかる。 |
巨石群の中にまつられる石祠 |
岩肌の断面が気になる。 |
裏側 |
岩陰状空間をなす岩石群も存在。 |
巨石群の上方から撮影。 |
祠の手前にこのような3体の岩石があり、内部の地表が半地下にくぼむ。 |
石室状に見えるが、報告書に当たる限り古墳として指定されていない存在。 |
これらの巨石群については、拙著『岩石を信仰していた日本人』(2011年)の中で若干の説明と私の考えを述べた。
それから10年を経るが、基本的な情報と疑問点は今も同じまま進展していない。
自然石と古墳という2つが同居することの意味は、古墳時代の形而上観念をどう位置づけるかという一大問題として、いつかメスを入れなければならないだろう。
参考文献
- 亀田博・河上邦彦・白石太一郎・千賀久(編著)『葛城・石光山古墳群』(奈良県史跡名勝天然記念物調査報告第31冊) 奈良県立橿原考古学研究所 1976年
- 吉川宗明「石光山(奈良県御所市) 古墳に取り囲まれた巨岩群」『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』 遊タイム出版 2011年
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