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2021年10月19日火曜日

観音寺山の岩石信仰(滋賀県近江八幡市~東近江市)


滋賀県近江八幡市安土町~東近江市五個荘川並町


観音寺山(標高433m)は、北は猪子山から瓜生山と続きその南に至る、繖山(きぬがさやま)山系の最南峰を占める。
(観音寺山自体を繖山と呼ぶことも)


観音寺山は、歴史上では山頂付近に観音正寺が建立され、中世には佐々木氏によって佐々木城が、さらに六角氏によって観音寺城が山頂付近に築かれたことで知られる。

観音正寺

これら山岳仏教、そして城郭といった要素に加え、本記事では自然石信仰の事例を紹介する。

この三者がそれぞれどのように作用・影響しあったのかも含めると、複雑な山地利用を推測させることになり、観音寺山の歴史を考えるうえでの参考となればと思う。


まず、観音正寺から北東100mほど行くと、斜面沿いに「奥の院」が見える。

奥の院入口

石段

堂宇は岩肌に埋め込まれている。

奥の院は、大小の岩石に取り込まれた中に石段をもって築かれ、おそらく岩陰となった空間に切りあうように堂宇を建てている。

堂内に空間はほとんどなく、奥壁には堂裏の岩石が接している。これは、同じ繖山系の岩屋北向観音(猪子山)と同じ構造となっている。

平安時代後期に磨崖仏が刻まれたことがわかっているが、線刻は摩耗が進んでおり判別しにくい。


奥の院の下方には、「権現」と標示のなされた岩陰があり、そこにも小祠がまつられている。

権現

奥の院の仏に対する権現という位置づけと思われるが、奥の院と権現は同じ岩体に属しており、これを一括して奥院・奥宮の聖地と考えて良いだろう。

また、聖徳太子が舞い踊る天女に出会ったという、寺縁に関わる「天楽石」と呼ばれる岩石が奥の院としてあるらしいが、それがどれを指すのかが今一つはっきりしない。今のところは、全体をひっくるめたこの一大露岩群を想定しておく。

権現を擁する岩石群の全体

奥の院の上を登ると、尾根上にいたるところに佐々木城跡の石碑が立つ。

佐々木城の城塞としての自然の石垣として、下に属する奥の院の露岩群が多少なりとも利用されたことは想定しておかないといけない。


奥の院の近くには、ほかに「烏帽子岩」「大石垣」「力石岩」「ねずみ岩」の存在が確認されている。大石垣などは、先述の城郭利用のなかでの半自然・半人工の岩石だったことが窺い知れる。

烏帽子岩。すぐ上に大石垣もある。

力石岩は特定できず。付近にある岩石。

ねずみ岩

ところで、観音寺山における岩石信仰の事例は奥の院だけではない。

吉田勝氏が作成した「観音寺城跡曲輪配置見取略図」(1970年作成)によれば、観音正寺の北方には「三国巌」「硯石」、南西には「女良岩」「研石」、そして観音寺山頂上付近には「飛岩」などの存在が図面上に記されている。

この地図にならって踏査したところ、実際に名前と岩石が明らかに一致したのは、観音正寺北方の「硯石」だけだった(立札があった)。

硯石

「三国巌」「飛岩」があるとされる場所近くにも、それと思しき岩石群が見つかっているので、それぞれ「三国巖」「飛岩」に該当する可能性は高い。

三国巖 候補地

飛岩 候補地

観音正寺南西の「女良岩」「研石」については、あまり踏み跡がはっきりしていない山中にあり、はたして自然石か、城の石垣か判別のつかない岩石群が分布している。「女良岩」「研石」と特定できる状態ではなかった。


踏査してからすでに20年を経過しようとしているので、写真の撮り直しなども含めて再訪したい場所である。


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