岡山県倉敷市矢部字向山
概要
楯築墳丘墓(楯築遺跡)は、ほとんど古墳時代に差し掛かろうという弥生時代後期後葉の墳墓である。
古墳時代の前方後円墳に連なる突出部をもつ墳墓で、円筒埴輪の原型である特殊器台を擁する「弥生墳丘墓」の代表的な遺跡として知られる。
当サイトが追い続ける岩石信仰の観点からは、墳丘上に長大な立石を複数並べた墳墓としても興味深い。そして、出土品のなかに「弧帯文石」と呼ばれる人工的造形を施した岩石があり、現在墳丘上に建つ楯築神社の神体石となっていることも、全国を見渡して類例のない特異な岩石信仰と言って良い。
このたび、楯築墳丘墓の第1回の発掘調査から関わった宇垣匡雅氏が、最新の研究状況を反映して発掘調査報告書を『楯築墳丘墓』(岡山大学文明動態学研究所・岡山大学考古学研究室 2021年)の題で刊行した。ありがたいことに、岡山大学の下記ページで全文がpdfファイルでリポジトリ化されている。
https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ja/63034
本記事では、本報告書のなかから岩石信仰・祭祀に関わる部分に絞って紹介していきたい。
文献上の初出
「楯築」の地名は、墳丘上に立ち並ぶ立石を「楯」に見立てたことにちなむと通説的に考えられている。
楯築の地名は、最古の記録として元和元年(1615年)の『中国兵乱記』という文献にその名が登場する。
そして、宝暦7年(1757年)の『備中集成志』に、詳しく「楯築」の語源が説明される。いわく、楯築大明神という神(楯築神社の祭神と同義だろう)が岩を盾にしたことが説かれ、墳丘墓の立石群が神の聖跡としてあつかわれたことを示す。
さらに、楯築大明神の「神体」は、異形の人形を彫った石であることも記される。これは、現在も神体石として残る通称「弧帯文石」のことを指すと考えられ、後述するとおり異形の顔が石肌に刻まれたものである。
これらの伝承が、当墳丘墓の弥生時代の岩石信仰と同一とみるべきかは別の話で、慎重にとりあつかったほうが良いことは間違いない。
墳丘上の立石群
楯築墳丘墓は西山丘陵(楯築山、王墓山、真宮山からなる自然丘陵)の尾根上にあるため、その尾根の高まりを墳丘の形に整形しつつ盛り土したものと考えられている。
現在、墳丘上には5体の立石が屹立、横転したものも含め存在するが、斜面に落ち込んだことがわかっている立石が1体あるため、おそらく墳丘築造時には6体の立石が立ち並んでいたと推定されている。
また、発掘調査によって墳丘上には、河川などの浸食で丸く磨かれた円礫を多量敷きつめた痕跡が検出されている。したがって、ただ立石があるだけでなく地表面も石敷きが広がっていた光景だったことがわかる。
立石の配置は、意図が読み取りにくい一種の複雑さまたはランダムさがあり、報告書上でも「立石の配置が何を意味するのかは調査時から多くの調査参加者が考えてきたが、解釈はむずかしいといわざるをえない」と吐露している。
いわゆるストーンサークルのような円環状とは評価しにくい。地山整形の墳丘墓でもあるため地山露出の自然石があることも、その解釈を難しくしている。ただ、立石自体は墳丘上の北東半にだけ配置されているという特徴を指摘できるらしい。
この意味を考える時に、発掘調査で重視された存在が、墳丘上で検出された「建物」跡(報告書上で建物1と記載の遺構)である。
埋葬施設とは別で墳丘上に柱をもって構築された建物であり、考え方によっては立石群はこの建物1を囲うように配された可能性も指摘できうるという。なお、報告書筆者の宇垣氏はこの建物1を「社殿」と考えており、これは当時墳墓上に神殿を設けたかという一大問題に発展する解釈だろう。
宇垣氏は、墳丘上に木柱を単体で立てた跡も見られることから、立石とは別に木柱もあったことを考慮して、木の柱と石の柱である立石が同様の機能を有した可能性にも触れている。
これは、立石遺構がのちに、古墳時代の奈良県桜井茶臼山古墳において墳丘上の埋葬施設をを方形に囲む「丸太垣」に変化したとみなすことから、石材と木材が置換可能であったと考える立場なのだろう。
なお、立石は墳丘完成後に立てられたわけではなく、遺構の検出位置の分析結果から、一部の立石は墳丘を構築する途中段階で設けられたことが判明している。
墳丘斜面の立石・列石群
楯築墳丘墓で注目されやすいのは墳丘上の立石群にならざるをえないが、実は墳丘の斜面部分にも立石や列石が存在する。そして、それは発掘調査時の発見だけでなく、現在も一部の立石が斜面に存している。
列石は墳丘を取り囲み、斜面をテラス上に段を形成している。そして列石の間には円礫を敷く。墳丘部の位置によって、列石は二重、または三重にも形成されていることがわかった。
吉備地域には、楯築墳丘墓以前に築かれた複数の墳丘墓遺跡があり、そこにはすでに一重の列石を擁するものも確認されている。
ただし、斜面に立石まで立てたのは先行する事例が見当たらないという。楯築墳丘墓はある程度系譜の中に位置付けられながらも、従来よりも極めて大型化された列石・立石遺構の墳丘墓だったと評価できるだろう。
宇垣氏は、これら二重、三重の列石と大型化した立石の意味を「遮蔽、死者の世界の明示」「列石から中が侵すべからざる範囲であった」という表現で解釈を施している。
楯築神社弧帯文石/白頂馬龍神石
墳丘上に建つ楯築神社には、先述のとおり「弧帯文石」と呼ばれる特異な岩石がまつられていた。
その名のとおり「弧」を描くような文様がほぼ石の全面に施されているが、一部、下書き線刻のみの部分もある。しかし、報告書によると線刻の成り立ちを詳しく検討した結果、これは施文が未完成であることを承知のうえで完成としているらしい。その抽象的なデザインも含めて解釈は難しい。
(弧帯文は特殊器台など、ほかの遺物でも採用される文様であり弧帯文石固有のデザインではない)
それに加えて、弧帯文石の特徴として顔の彫刻がある。顔の輪郭を浮き彫りで表現し、目と鼻が明らかに存在するが、後世にさらにそれを目立たせるために刻まれた線が重なり、原形がわからない部分もある。また、口の表現については線刻か剥離か判断しにくい。さらに、入れ墨と解釈される線も指摘されている。
弧帯文石は考古学の学術用語としての命名であり、歴史的文献のなかで忠実に呼称するなら、最古の呼称は『楯築神社縁起』という年代不明の文献に記された「白頂馬龍神石」となる事実も尊重したい。
江戸時代にはおそらく存在が再認識された岩石で、神体石として信仰されるようになった。ただ、19世紀中頃成立の『備中誌』の編者は、楯築神社における神体はこの弧帯文石ではなく墳丘上の立石だっただろうという主張もしており、江戸時代においてもいろいろな見方があっただろうことが想像される。
弧帯文石は、後述するがもう1個、類似の弧帯文石が墳丘地表下から出土している。したがって、神社神体石となっていたこの弧帯文石も楯築墳丘墓築造時に作られた岩石であったことは疑いないとされている。
しかし、報告書ではこの弧帯文石がもともと墳丘墓のどの位置に置かれていた存在かを突き止めるのは困難と結論付けている。
なぜなら、埋葬施設から墳丘頂面にかけて後世に掘り出した跡などの攪乱跡は検出されなかったからである。墳丘が一切後世に掘られていないと仮定するなら、弧帯文石は墳丘構築終了後に置かれた存在となるが不明である。
ちなみに、弧帯文石がまつられていた楯築神社の石室祠は、大正5年に構築されたものであることがわかっている。
もう一つの弧帯文石
楯築墳丘墓の埋葬施設は木槨・木棺で構築されているが、ちょうど被葬者の頭部と推測される棺の上の、円礫を敷き詰めた場所からもう一つの弧帯文石が出土した。
紅柱石質蝋石と呼ばれる石の種類で、元来は明るめの白色の石だったとされるが、見つかった弧帯文石には炭の小片が付着しており、火熱を受けているため石はもろくなっており、多数の破片となった状態で見つかった。
打撃で割ったのではなく、この場で焼かれ、結果的に破片状に割れたという祭祀行為が推測されている。
(報告書では、同種の岩石に木材で炊いた炎を当て続けた実験を行い、6時間後に岩石に縦横の亀裂が入って剥離し始めたと報告されている)
さて、弧帯文石が現状として2種類存在する理由は難解である。
どのような違いないし共通性があったのかは報告書でも検討されているが、その論点の一つは顔の線刻の有無にある。
この顔に似た線刻が、弥生時代後期後葉から末葉にかけて複数の遺跡で出土しているという。
ここからが想像の域だが、同系統の顔が広い地域に共通して見られる点と、体部を表現せず顔だけ表現した点から、宇垣氏は人面を模した顔ではなく、集団が共通して崇めた神の顔だと評価している。そして、神の顔を刻んだ楯築神社弧帯文石は「神の依代」だったという結論を記している。
そして楯築神社の神体となった弧帯文石と比べて、埋葬施設内から出土した弧帯文石は一回り小ぶりで、顔の線刻が見られないという違いがある。
報告書ではこの「可搬性」に着目し、葬送儀礼の中である程度柔軟に必要なときに使用され、最終的に破砕されたことを考え、「神社弧帯文石に準じる存在」で「一時的な依代」だったという説を提示する。
この点に関しては他の解釈もできそうで、賛否の分かれるところではないかと思う。私の所感を以下にまとめておく。
- 同じ顔なら神の顔、というところに論理の飛躍がある。逆に、文化的に共通する人々の顔として、複数の遺跡で同じような顔で彫刻されうるのではないかと考えることもできる。
- 体を表現しないことがなぜ神の表現と言えるのかも説明が不足気味である。
- 「依代」の用語を無批判的に用いた点を考えると、近年の祭祀考古学における依代批判研究を摂取した検討とはなっておらず、古墳時代依代が批判されている中で、弥生時代末の依代を論ずるには解決しないとならない壁がその前にあるように感じる。
- このあたりの解釈は宇垣氏自身も「叩き台」としてあくまでも想像の域としておられるが、そのためにも研究者の主観のみの記述では頼りなく、ここで極力同時代性のある文献資料や民族例からの援用が必要ではないかと思われた。
楯築墳丘墓の石材の産出地
楯築墳丘墓が造られた西山丘陵は、花崗閃緑岩・花崗岩から構成されている。
楯築墳丘墓に用いられた立石、列石、円礫などの石材は、この山から採れる石種だけではないことが調査で判明した。
たとえば墳丘上の立石6体のうち、5体は花崗閃緑岩で、1体は花崗岩である。
この両種は西山丘陵の地質で説明できるが、報告書によると西山丘陵は基盤岩の上に風化して砂状になったマサ土が分厚く覆っており、このような立石、列石が出土する地形にはないと指摘する。
(ただし、あくまでも現在残る景観を見てとの注釈つきだが)
そこで、板状の岩石が採れる場所に範囲を広げた結果、まず花崗閃緑岩の立石については楯築墳丘墓の南に位置する岩倉神社の巨岩群や、墳丘墓の西に位置する日差山東麓尾根の巨岩群から採取されたのではないかと推測された。
岩倉神社(岡山県倉敷市)
そして、花崗岩の採取地としては楯築墳丘墓の北に位置する砂川上流部の巨岩群に板状の岩石が多く、候補地として挙げられている。
これらの点から、楯築墳丘墓の造墓集団は石材を選択するときに、特定の一か所で採取することを条件にしておらず、板状の岩石を求めることが最優先事項に置かれたのではないかという仮説にいたる。
立石だけでなく列石や円礫についても、調査の結果、複数の採取地から構成され、しかも、石材の種類に偏りはなく用いられているという。
したがって、岩石の使用には一貫した築造計画があり、それは複数の集団がそれぞれの石材の産出地から運搬した理解が適切と宇垣氏はまとめている。
大柱遺構
最後に、岩石祭祀ではないが楯築墳丘墓祭祀の特徴を物語る遺構として、大柱遺構の存在を紹介しておきたい。
この遺構は、墳丘表面に大きな穴を開けて、埋葬施設を格納した穴である墓壙(墓坑)の一部に切り込む形で構築されている。墓壙に埋葬施設を入れてから埋め戻した後、墳丘最上部の盛り土をおこなう前に設置されたとのことである。
穴の深さは地表面から最大1.71mを計り、直径は平均して29㎝ということで、高さは不明ながら長大な木柱が立てられていたものと推測されている。
この大柱遺構は楯築墳丘墓特有の存在というわけではなく、ほかの弥生時代の墳墓にも見られ、宇垣氏によれば約20例の類例を挙げられるという。
(しかし、他の例は北部九州に偏り、九州以東では楯築墳丘墓が唯一の事例らしい)
大柱遺構の性格・機能として、報告書では3つの説が整理されている。
・A説「神の依代」「聖域の標章」
大柱遺構はすべての弥生時代の墳墓に設置されているわけではないため、墳墓祭祀に必ず行われた祭祀ではないことが付記されている。
・B説「測量機器の視準線」
福岡県糸島市の平原遺跡の大柱遺構例から、柱列と大柱の延長線上に峠が位置し、10月20日にその峠から朝日が昇る事象が確認できるという。
・C説「日時計」
上記平原遺跡例において、年間の節目となる日などを木柱の影で把握したという説。
以上3説のうち、宇垣氏は楯築墳丘墓においてはA説を支持している。
その根拠として、楯築墳丘墓の大柱が1本であり視準線としてどこを基準にしたかが不明である点や、列石や立石のほか大量の土器を置き並べた楯築墳丘墓においては大柱に近づいて観測装置に使うことは困難であった点を挙げている。
宇垣氏が弧帯文石を神の依代とみなしているのも傍証となるかもしれない。ただ、一つの墓に対する祭祀で二つの弧帯文石に加え、大柱も依代とするのは多数である。また、建物1が社殿ならそこにも神は宿ることになる。神宿る場所をそこまで一墳墓に必要としたのか、民族例や文献例での類例がないと、研究者の想像という批判には耐えられないだろう。
以上、最新の報告書をもとに楯築墳丘墓の岩石祭祀を中心に紹介したが、本遺跡は墳丘上に6体の立石、1本の大柱、2本の付属木柱、不明建物1棟を擁する、極めて複雑難解な遺跡であることに変わりはない。そこに、抽象性の高い弧帯文石が2個加わる。形而上の何かを論究するには、まだ早計な対象なのかもしれない。
発掘された事実をただ眼前に並べ、ほとんどのことは結論保留にすることを私は選択せざるをえなかった。