南北を走る千本通と堀川通の間で、東西を走る上立売通沿いに所在する。
当地の名称は数通りある。
まず、由緒板には岩上神社、岩上祠、岩上さんという名称が第一に掲げられ、俗称に「禿童石(かむろいし/かぶろいし)」があったことを記す。
次に、現地の扁額には「岩神」の字があり、さらに京都新聞の記事(1998年)によると門に岩神神社という額がかかっていたらしく、「岩神さん」の名称を題に採用している。
大きく分ければ「いわがみ」の音が根っこにあり、「岩上」と「岩神」の2通りの字を当てる系統に分かれていたことがわかる。
以下、「岩神さん」の名称で記す。
岩神さんの高さは2mほどで、いびつなオムスビ形のような形状をなす。境内は商社の所有地となっており、会社ひいては町の神として崇敬されてきたという。
岩神さんの由来・伝説も複数系統入り乱れている様子だ。
まず、菅原道真由縁の伝説がある。
道真が大宰府に左遷された後、道真の乳母がこの岩を抱いて泣いたという。
やがて、乳母が岩を抱えて泣くたびに落雷などの災害が起こるようになったと伝わる。乳母の負の念が霊となって岩に宿ったと信じられ、岩は「岩神さん」としてまつられるようになった。
ただ、岩に宿った乳母は、道真の左遷を主導した藤原時平の乳母という説もあるようで一定しない。天神さんと岩神さんを同時に参ってはいけないという禁忌も伝わる。
別系統の伝説として、現地看板にも記される岩石の移動伝説がある。
岩はもともと二条堀川(二条城の南)あたりにあったそうで、それが徳川家康が二条城を築く際に岩神通六角へ移され、さらに、中和門院の屋敷の池の畔に移されたという。
そうしたら岩が吠えたり、子供に化けたりする(禿童石の由来)など怪異現象が相次いだので、真言宗の僧が現在地に改めて移して、有乳山岩上寺(岩神寺)の本尊としてまつったという。 乳母の霊が宿るということからの山号で、現在も授乳の神仏としての性格を有する。
その後、岩上寺は二度の大火を受けて衰微し、明治維新の頃には廃寺となったらしい。
岩石が場所を動かすとともに、また、時代が移ろうとともに、岩石の性格も変遷した事例と言える。
元は悲しみ嘆きの念が神霊化したもので、愛する近親者(道真)と離され、岩が動かされると崇る「動かない」ことに、価値観の主位が認められる。その祟りは、当初落雷など激しい荒ぶりだったのが、江戸時代には岩が吠えたり小僧に化ける程度になり(ただ岩上寺廃絶をどう評価するかはある)、最終的には授乳の益神となった。
参考文献
京都新聞1998.11.26付「岩神さん」(岩石と語らう41)
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