愛知県新城市須長 雁峯山中腹
側面に回ると亀裂で分かたれている。 |
背面に回ってもまた別の亀裂が入る。 |
側面と背面の亀裂が丁字に走った構造が、石座石の特徴となる。 |
石座石の周囲にも大小の自然石が群在する。 |
尾根上に列状に露頭が続く(尾根続きの露出なので当然ではある) |
藤本浩一氏が「ユツイワムラ」と評した岩群(後述) |
石座石の斜面上方にも岩群は続く。 |
学史より
石座神社旧社地に存する石座石と言えば、「いわくら(磐座/石座)」の代表的な事例として斯学では広く知られており、遠山正雄、大場磐雄、藤本浩一の各氏の記述を引く。
旧社地は、本社から十余町、相当急勾配の渓流に沿うた小高い二段歩許の茅原の平地で、中央に花崗岩の高さ一丈余、幅一丈半もあらう処の自然石が小なる二個と並び立ち、この周囲を広く巡らすに小形の自然石を並列してあります。
遠山正雄 「『いはくら』について」 第10回 第4巻第1号(1936年) ※旧字体は新字体に適宜改めた。
石座岩に到達す、大なる花崗岩の盤石にして、風化のため三個にわれたり、大体の大いさ高四米、巾五米、奥行五・五米あり。なほ附近に大小の花崗岩類頗る多く、この附近一の岩石地帯をなせり
大場磐雄『楽石雑筆』巻三十五(1952年)、茂木雅博(書写・解説)『記録―考古学史 楽石雑筆(補)』博古研究会 2016年
主体の岩は、高さ三メートル、周囲は十二メートルくらいの山形岩であるが、廻ってみると、二つの岩が寄り合ったようで、下の方では分かれて洞のように見える部分がある。周囲にはやや小さくはあるが、一~ニメートルの岩が十余り、ユツイワムラをなしている。これが石座神社の旧社地で、天保時代には末社とされていたが、社がないまま神の扱いを受けていたことが、『式内社考』によって証明されている。
藤本浩一『磐座紀行』向陽書房、1982年
複数の石座石・ちご石の問題
石座神社は現在、雁峯山(神峯山/雁峰山/神穂山)の南麓に鎮座するが、信仰の淵源を山頂付近の石座石(額岩)と位置付けており、中腹の石座石(稚子石)を旧社地や奥の院と称してきた。
山頂と山腹の両者を同じ石座石と呼ぶのは、石座神社がそれぞれまつる石という一般名詞としての意味合いだろう。
中腹の石座石は稚子石と呼ぶのは石座神社の社頭掲示であるが、一方で、中根洋治氏『愛知発巨石信仰』(愛知磐座研究会、2002年)によれば雁峯山の山頂から西の尾根に「児岩」と呼ばれる高さ4mほどの円錐状の岩石があるらしく、「ちご」に当たる岩石も複数見られる様子だ。
これらは、石座神社摂社の児御前社の信仰に関わるものと思われる。
社頭で配布されている「石座神社の神々たち」(著者不明、平成30年発行?)によると、児御前社は石鞍若御子天神(いわくらわかみこてんじん)を祭神とし、石座石の神格化であると位置づける。
さらに、「児御前社は、牛倉の中島じつ江さん宅東のこんもりした山(みこ山)に、鎌倉時代初め頃まで政所(まんどころ)が置かれており、そこの社であったともいわれている」と、地元ならではの独自情報を付記している。
いずれにしても、山の各所に特筆すべき自然石が点在することで、それらがそれぞれに神聖視されて神話のなかで児の関係性で語られるようになったと思われる。
アクセスルート
雁峯山中腹の石座石(稚子石)は、新城ラリーがおこなわれる雁峰林道沿いに入口があり、林道入口から石座石までは徒歩5分もかからない。
徒歩登山の場合は須永登山口から登山道があるほか、雁峰林道にたどりつくにはいくつかルートがある。
今回私は車で長篠設楽原PAルートを選択した。インターネットに詳述されていないためここに記しておく。
- 長篠設楽原PA (下り)へ下道からアクセスできる「ぷらっとパーク」を目指す。
- ぷらっとパークに入る直前に、新東名高速道路の高架前に交差点がある。ぷらっとパークは右折するが、高架下をくぐりぬける道を直進する。
- 「林道富永線」に入る。普通車可。対向車とのすれ違いは難しいが、離合地点は各所にある。
- 林道富永線を道なりに進むと、雁峰林道に合流する。雁峰林道はラリーが行われる場所ではあるが、落石や路面崩壊などで閉鎖されることもあり、また、ラリー開催時には立入禁止となるため事前に開催日などを確認されたい。
- 長篠設楽原PAから雁峰林道の石座石入口まで、車で約10分。
雁峰林道沿いの石座石入口。 |
石座石手前の沢(一部枯れ沢)にある岩場。 この沢をみそぎ場と中根洋治氏は前掲書で記す。 |
行き別れ観音址。今は観音は現地になく台石がその歴史を伝える。 台石は後世に記憶を伝える装置として機能する。 |
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