三重県四日市市桜町字乾谷
桜町の乾谷(いんだに)公会所の敷地内に、オムスビ形の立石が注連縄を巻かれてまつられている。これを「山の神」と呼ぶ。
桜町の山の神 |
背面より |
現地看板 |
もともとは、公会所から北西の山中にある大谷池(弁天池とも)の北でまつられていた山の神である。それが戦後に池の南へ移され、さらに1986年の公会所建設時に現在の場所に再度移転したという流浪の歴史をもつ。
このあたりの経緯については、すでに桜郷土史研究会が「弁天様と山の神」(http://www.sakuracom.jp/~kyoudoshi/2-benten/benten.html)と題した調査結果を残しているので、詳細はそちらに譲る。
(研究会は2018年に休会したとのことでホームページの情報も含め今後が心配ではある)
山の神の立石の周りを見ると、十個余りの岩石が方形に配され、さらにその周囲三方が木製の柵で仕切られている。
現地看板によると、これは古事に倣った「神籬磐境」の祭祀形態だと『桜町地誌』(1884年)が記すという。
当地の山の神の特徴として挙げられている「神籬磐境」とは何だろうか?
まず、「古事」について考えてみる。
神籬・磐境はそれぞれ『日本書紀』に登場する古語なので、それをもって古事なのかもしれない。しかし、実は神籬・磐境の働きについては現在もまだ確定していない。
ただ、本居宣長が『古事記伝』で神籬を神聖な木の祭場で、磐境を岩石で区切った境と解釈した。
それが江戸後期の国学者や神職者に広く受け入れられ、山の神の祭祀時や明治時代の『桜町地誌』にそのまま採用された可能性がある。
しかし、最新の歴史学研究では、神籬は木でないといった批判(笹生衛氏『神と死者の考古学』吉川弘文館、2016年)もあり、この古典的解釈を再考する段階に来ている。
つまり、ここに再現されている「古事」は、あくまでも江戸後期以降の人々が想像した「原始的な祭祀」のイメージだったことに注意に払う必要があるだろう。
なお、岩石信仰の観点からもう一つ捕捉すると、この乾谷公会所の北にそびえる山中(字・砂子谷)に「疱瘡さん」と呼ばれる自然石があったという。
コロナ禍のため現地での聞き取り調査は自粛したが、すでに15年前の桜郷土史研究会の綿密な調査でも疱瘡さんの居場所は「行方不明」の結論だったとのこと。
昭和の末頃までは岩石の存在を確認できていたらしいが、本当にもう誰も知る人はいないのだろうか?
今もどこかにひっそりと佇んでいるのかもしれないという期待を込めて、ご覧の皆様のご教示を待つほかない。
「疱瘡さん」があったとされる砂子谷の山中(巡見街道沿い) |
【参考】南麓に鎮座する金比羅宮 |
社殿を建てた石垣が特徴的で、自然の巨石を石垣に組みこんでいる。 |