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2022年9月19日月曜日

桜町の山の神と疱瘡さん(三重県四日市市)


三重県四日市市桜町字乾谷

 

桜町の乾谷(いんだに)公会所の敷地内に、オムスビ形の立石が注連縄を巻かれてまつられている。これを「山の神」と呼ぶ。

桜町の山の神

背面より

現地看板

もともとは、公会所から北西の山中にある大谷池(弁天池とも)の北でまつられていた山の神である。それが戦後に池の南へ移され、さらに1986年の公会所建設時に現在の場所に再度移転したという流浪の歴史をもつ。

このあたりの経緯については、すでに桜郷土史研究会が「弁天様と山の神」(http://www.sakuracom.jp/~kyoudoshi/2-benten/benten.html)と題した調査結果を残しているので、詳細はそちらに譲る。

(研究会は2018年に休会したとのことでホームページの情報も含め今後が心配ではある)


山の神の立石の周りを見ると、十個余りの岩石が方形に配され、さらにその周囲三方が木製の柵で仕切られている。

現地看板によると、これは古事に倣った「神籬磐境」の祭祀形態だと『桜町地誌』(1884年)が記すという。


当地の山の神の特徴として挙げられている「神籬磐境」とは何だろうか?


まず、「古事」について考えてみる。

神籬・磐境はそれぞれ『日本書紀』に登場する古語なので、それをもって古事なのかもしれない。しかし、実は神籬・磐境の働きについては現在もまだ確定していない。

ただ、本居宣長が『古事記伝』で神籬を神聖な木の祭場で、磐境を岩石で区切った境と解釈した。

それが江戸後期の国学者や神職者に広く受け入れられ、山の神の祭祀時や明治時代の『桜町地誌』にそのまま採用された可能性がある。


しかし、最新の歴史学研究では、神籬は木でないといった批判(笹生衛氏『神と死者の考古学』吉川弘文館、2016年)もあり、この古典的解釈を再考する段階に来ている。

つまり、ここに再現されている「古事」は、あくまでも江戸後期以降の人々が想像した「原始的な祭祀」のイメージだったことに注意に払う必要があるだろう。


なお、岩石信仰の観点からもう一つ捕捉すると、この乾谷公会所の北にそびえる山中(字・砂子谷)に「疱瘡さん」と呼ばれる自然石があったという。

コロナ禍のため現地での聞き取り調査は自粛したが、すでに15年前の桜郷土史研究会の綿密な調査でも疱瘡さんの居場所は「行方不明」の結論だったとのこと。

昭和の末頃までは岩石の存在を確認できていたらしいが、本当にもう誰も知る人はいないのだろうか?

今もどこかにひっそりと佇んでいるのかもしれないという期待を込めて、ご覧の皆様のご教示を待つほかない。


「疱瘡さん」があったとされる砂子谷の山中(巡見街道沿い)

山中の多くはグレイスヒルズカントリー倶楽部の敷地内となっている。

【参考】南麓に鎮座する金比羅宮

社殿を建てた石垣が特徴的で、自然の巨石を石垣に組みこんでいる。


2022年9月18日日曜日

東海道の夫婦石/妻夫石/妋石(三重県四日市市)


三重県四日市市羽津町


志氐(しで)神社は、境内に北勢地域最大の前方後円墳を有する延喜式内社として知られる。

志氐神社境内古墳

古墳説明板

志氐神社の一の鳥居は東海道に面しており、鳥居の傍らに東海道を挟んで二体の石がある。

訪問年によって、看板があったりなかったりするので注意。

一の鳥居。写真右奥の塀の前に石がある。

2017年撮影

2003年撮影。この時は標柱があった。

上写真の石から、東海道を挟んだ向かい側(東側)にも石がある。
現地には「妋石」と書かれた看板が立つ。

2013年撮影

2017年撮影。新たに看板が立った。

現地看板の説明

この2体の石に関する最古の記録は、元禄3年(1690年)に刊行された「東海道分間絵図」で、絵図中に「道中にめうと石とて両方に有」と注記されている。

ここでは「めうと石」と読まれており、現地看板の表記とは異なる。


なお、これより後に文化3年(1806年)に完成した『五海道其外分間見取延絵図』では、志氐神社の一の鳥居付近に二体の石が描かれ、道の西側を「妻夫石 雄」、道の東側を「妻夫石 雌」と注記している。


さて、現地看板の写真には「古書」の存在を触れている。

この「古書」とは、記述内容から考えて天保4年(1833年)に刊行された伊勢国の地誌『勢陽五鈴遺響』を指すと思われる。ここではさらに具体的な来歴が記される。

此神社ノ地ハ本郡三重郡ノ界ニシテ鳥居ノ傍ニ二個ノ標石ヲ置テ二郡ノ界トス方俗此二石ヲ指テ夫婦石ト名ク婦女ノ婚ヲ求ルノ祈願ヲ此ニナス必応アリト俗習也(『勢陽五鈴遺響』)

志氐神社は朝明郡と三重郡の境にあり、二個の石を置いたことで境界を示したのだという。そしてこれを夫婦石と呼び、婦女が婚姻を求める時はこの石に祈願すれば必ず霊験があった旨が紹介されている。


さらに、『志氐神社縁記』という文献には「鳥居側有神石。南北厲盤根固而不知其深。自古稱之曰夫婦石。」と、また別の情報が登場する。

『志氐神社縁記』は、作者も制作年代も不詳であり、明治時代よりは古く、江戸時代をさらに遡るかは不明である。ここでは鳥居の側に神石があり、その根は深さ知れず、古くより夫婦石と呼ばれていると記されている。

以上をまとめると、この石は「めうと石」「夫婦石」「妻夫石」「妋(みよと)石」など表記の揺らぎがあったことがわかる。と同時に、文献によって石の性格や語られ方が異なることにも注意したい。


参考文献

  • 四日市市編・発行『四日市市史 第6巻 史料編絵図(解説)』1992年
  • 安岡親毅著・倉田正邦校訂『三重県郷土資料叢書第25集 勢陽五鈴遺響(1)』三重県郷土資料刊行会 1975年
  • 著者・年代不明『志氐神社縁記』(神道大系編纂会編・西川順土校注『神道大系 神社編14 伊賀・伊勢・志摩国』1979年に所収)


2022年9月4日日曜日

駒宮神社の岩石信仰(宮崎県日南市)


宮崎県日南市平山


「神武天皇少宮址」と称され、神日本磐余彦が幼い頃に居を構えた場所との由縁が伝わる。
神日本磐余彦が龍神から「龍石(たついし)」という馬を授かり、近くに「立石(たていし)」の地名が残るなど、これらは馬の名にちなむものではあるが当社には岩石の聖跡も残る。

御鉾の窟(みほこのいわや)




「神社ノ後方ニ大岩有リ。天皇後ニ宮崎ノ宮ニ向ヒ玉フ時、此ノ岩ノ下ニ御鉾ヲ納メ玉フト伝フ。旧時御神体トシテ奉祀サレシモノト傳フ。」(神社由緒記)

海岸の岩壁が、海食・風食によって窟状の窪みを発して祭祀の場となった点は、その景観も含めて紀伊熊野の花窟などを彷彿させる。

窪みに龍神の姿が見えるというが…(現地看板)

石祠の左奥に浮かび上がるのが「龍神の姿」の部分か。

他の現地看板によれば「近年ご参拝の方々からこれは陰陽石ではないかとのお声が異口同音に多く寄せられ」とのことで、丸石(銭石)が発見されたのは平成30年10月とあった。陰陽石は現代の岩石信仰と言えるが、岩壁への銭石祭祀は熊野の丸石祭祀と共通性がある。

陰陽石と目される部分。丸石の奉納も見られる。

御鉾の窟跡の手前に広がる立石群の整備。情報収集不足につき詳細不明。

草履石・駒形石

社殿がある境内からやや北の平山川沿いにある。

草履石は「神武天皇が少宮に上がる際に足を洗った場所」、駒形石は「龍石の足を洗った場所」という(産経新聞2020年12月2日付記事「ゆかりの地から見る神話の風景 第6部 四皇子誕生と神武天皇②」)。
神社境内の案内板では「天皇のお草履の跡」「龍石の足跡」ともいう。


草履石・駒形石の二つの岩石に分かれる印象を受けるが、現地の玉垣内には1体の岩石しか見受けられない。隣接する石碑にも草履石・駒形石の二名が併記される。同一の岩石を草履石・駒形石と呼んだものか。