竜ヶ城一千梵字仏蹟(鹿児島県) |
先日、「鹿児島磨崖仏巡礼」vol.5のイベント「岩石信仰と磨崖仏」で講演をおこないました。
当日の様子は、主催者の一人でいらっしゃる窪壮一朗さんがブログに詳しく書かれているのでぜひご覧ください。
「鹿児島磨崖仏巡礼vol.5 -岩石信仰と磨崖仏」、吉川宗明さんを招いて盛大に開催!
鹿児島の摩崖仏、石造物に接して
本イベントのメインテーマは、摩崖仏の謎の解明にあります。
私は自然石信仰を主に取り扱ってきたため磨崖仏は門外漢で来たところがあり、鹿児島というフィールドを通して磨崖仏、そして石造物文化の見聞を広げる大きな機会となりました。
旧薩摩藩領内で盛んに造られた「田の神様(タノカンサア)」(隼人歴史民俗資料館所蔵資料) |
馬の守り神としての「牧の神」(石碑下部に馬の彫刻がみえる) |
近代の戦役記念碑・戦没者慰霊塔。不整形な自然石の形が多い。 |
墓石の一つ。墓域における統一感はなく、近世においても自由な石造物文化が認められる。 |
これらの石造物に通貫する価値観を挙げるなら、それは
「岩石に何かを彫りこまずにはいられない/刻みこまずにはいられない」
という点です。
とはいえ、上写真に挙げた自然石型の記念碑や自然岩の磨崖仏のように、岩石の性質を完全になきものとしてしまうのではなく、岩石の視覚的な外形・輪郭はそのまま活かされたかのような趣も感じ取れます。
タノカンサアの石像に限っては、顔面が白く塗られることもよくあるそうです。この点では、岩肌より顔の化粧が優先されたことがわかります。
では岩石である意味はないのかというと、タノカンサアの中には地区の家々で持ち回りでまつる移動型の石像もあったそうです。
窪さんが疑問に挙げたこととして印象に残ったのが、像を持ち歩く前提ならもっと軽い素材のものでもいいのに、どうしてそんな重い岩石で作ったのかという問いです。
便利より不便を選んだ理由に、岩石でないとならない精神的な要因があったのかどうか。
私はその場で即答できず、そして今も答えを用意できませんが、岩石を選び、彫刻する時には次の「瞬間」と「立場」で心理の種類が変わったのではないかと思うのです。
瞬間
- 彫りたい対象を模索し、彷徨うとき
- 岩石の存在を人づてに聞くとき
- 岩石の存在に偶然出会うとき
- 母岩から必要な岩石を切り出すとき、拾うとき
- 岩石に彫刻の手を入れようとするとき
- 加工しているとき
- 加工した中から新たな石面を見たとき
- 岩石を加工する中で破片が飛び出るとき
- 季節、天候、時間帯、乾湿、陰影により、異なる岩石の様態に接したとき
- 最終的な完成品に接したとき
立場
- 最初にその岩石に出会った人
- その岩石に彫刻を施さず、そのままにするという選択をした人
- 最初にその岩石を彫刻したいと思った人
- その彫刻者の影響下で共感できた人々(支持者、従者、子孫、同集団内の人々など)
- その彫刻者の影響下で、共感できないものの従った人々
- 彫刻後に、その彫刻された岩石に接した人(継承する人、再活用する人、対抗する人)
同じ人間でも、同じものに接してまったく同一の感情になるわけではないのが人間の複雑なところです。
同一人物の中でさえ、自然の岩石に出会い、石造物ができるまでの一つ一つの瞬間のなかで、岩石に見出した感情は刻一刻と変化したでしょう。しかもそれは、先天的な"ピュア"な内発的感情によるものと、後天的な知識・立場・背景によるものの両面があったでしょう。
さらに、完成した石造物に対して、彫刻した当事者と同じ感情を周囲の人々が感じたとは限りません。
イベント事に対して、熱心に取り組む人もいれば、集団に属すから嫌々参加する人もいるように、人の心理にグラデーションがあったとみるのが自然です。
そして、上の瞬間・立場のいずれにおいても、岩石に何らの心理的反応も生じなかった人もいたとまで折り込みたいです。これらすべてを取り扱うのが、岩石に対する人の心理です。
彫刻家の発言より
とはいえ、細別化しすぎると正直何から手を付けたらいいか手に負えないという現状があるので、まずは岩石を彫刻したいと考えた当事者から始めてみましょう。
ヒントとなるのは、石の彫刻家の発言です。時代も地域も異なるということに注意をしないとなりませんが、このブログで紹介してきた例を数例再掲します。
磨崖仏はその岩を彫り尽くすことが目的なのではなく、あくまでその岩の聖性を抽出するために、仏等の様々なしるしが刻まれると考えられる。(青野文昭氏)
石工の人々にためしに聞いて御覧なさい。必ず異口同音に答へるでせう。石は生きて居ります・・・・・・と。(尾崎放哉氏)
アトリエに置いてある大理石が、汗をかいていた。(舟越保武氏)
私は自分の内奥の想いとか、私のえた知識を、石に何らかの表現をしなければならない、いいかえれば、石に信仰告白をしなければならなくなっていた。(C・G・ユング。徳井いつこ氏訳)
岩石は生きている、という一文は、石を生業としない大多数の現代人(私を含む)には何のことやら、というところもあります。
文章どおりに受け止めてよいのか、というところに問題の根深さがありそうですが、「岩石が生きている」という発想は、岩石が主体で人が客体と言えます。
一方で、岩石に何かの表現をしたいという一文は、人を主体とした欲望であり、岩石は客体と言えます。
「岩石は生きている」と「岩石に何かの表現をしたい」の二つが、対立的ではなくむしろ止揚したところに、彫刻者の心があるように今は理解したいです。
磨崖仏や信仰に関わる石造物は、岩石が生きるという認知がすでに超越的であり、聖性の要因となりえます。いや、記念碑やモニュメントにおいてさえも、人が主体で岩石が客体という色が濃くなりながらも、岩石に込められたかつての聖性の残滓が岩石という素材を選ばせたのかもしれません。
岩石の聖性とは何か?
私が2022年までに言語化できたのは、『古事記』『日本書紀』『風土記』の奈良時代文献から抽出した「境界性」「忌避性」「生死性」「堅固性」「移動性」「永遠性」「非実用性」の7つの精神性です。詳細は論文として書きました。
論文紹介「『古事記』『日本書紀』『風土記』は岩石をどう記したか―奈良時代以前の岩石信仰と祭祀遺跡研究に資するために」(2022年)この7つの精神性ですべての岩石を通観できるとは到底思っていません。
たとえば會津八一氏は、「石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばない」(會津八一「一片の石」~『日本の名随筆 石』を読む その10~)と、岩石の永遠性への反例を紹介しています。やはり時代、場所、立場、瞬間が変われば岩石の心理は変わるのです。
まずは現段階の参考としていただければ、というところです。
特定の岩石を強調、見える化するということ
そうそう、講演の中で日本列島最古級の磨崖仏「狛坂寺跡磨崖仏」(滋賀県)に触れました。
そこで、日本列島における初期磨崖仏の石窟タイプと露岩タイプの特徴の違いを紹介したのですが、かなり端折ってしまいました、
私が依拠した、藤岡英礼氏の論文「狛坂寺跡磨崖仏と山寺」『季刊考古学』第156号(2021年)より該当部分を引用して補足説明に代えます。
「大規模な露岩の摩崖仏は、石窟の摩崖仏よりもわずかに早く伝来したが」「露岩タイプの摩崖仏は、境内周縁に位置することで聖域を外部に示すモニュメント(指標)となり、場の中心を志向する石窟や中心堂舎とは異なる役割を持ったと考えられる。」(藤岡氏、2021年、p.25-26)
露岩がただそこにあるだけでは、聖地であることを示しきれなかった、だから仏を彫ってわかりやすく聖度を高めたということです。
窪さんが提唱された、自然石の聖性をさらに強調・見える化した「荘厳(しょうごん)磨崖仏」の考えかたに通じます。
民話・伝説に登場する岩や石には、「石を撫でる」「石が泣き出す」「石がしゃべる」など、石が人間のように動く話が時折みられます。
これは中近世の遊行者・座頭・巫女たちが全国各地を練り歩き、宗教知識を持たない庶民にわかりやすく伝えるため、地元に存在する岩石を人間の身体技法にたとえて物語化したという説があります(石上堅氏『石の伝説』雪華社、1963年)。
いわば、岩石を「荘厳」する方法には、言葉(民話・伝説・物語)で明確化していくアプローチと、彫刻・加工で明確化していくアプローチがあったということになります。
イベント翌日に、窪さんと川田達也さんから鹿児島の摩崖仏などを案内いただきました。
そのときおっしゃられていたのが、彫りにくい場所や足場の悪い場所に彫刻がみられるということです。
それを一言で言えば、厳しいことにあえて向かっていく彫刻者のパッションということになりますが、この記事の今までの話を踏まえれば、これも"難しい存在を超克していくことで、わかりやすくしていく"という荘厳の一種なのではないでしょうか。
(その彫刻が、必ずしも彫刻者以外にわかりやすいかどうかは置いておき)
自然石そのものには、人の意思が介在しないわけですから、その視覚的性質はすべてにおいて、掴みづらい、不安定な存在だったと言えるでしょう。
その"混沌"をそのまま受け止めて信仰対象とした自然石信仰と、"混沌"の不安定さを解決したく、意味を一意にするために彫刻を施した石造物信仰に反応が分かれたということで、今回の問いをまとめられそうです。
これはヒトが持つ、未知のものを解明したい、謎のものを明らかにしたい、という根源的な知的好奇心がなした業です。その知的好奇心が、岩石の荘厳、岩石の聖化につながっていく可能性を感じました。
岩石に神聖さを感じ、彫刻や祭祀をして一手間をかけたい人の心の動きは、信仰者にとっての謎解き行為なのかもしれませんね。
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