三重県鳥羽市安楽島町 加布良古崎
中近世は加布良古(かぶらこ)神社・加布良古明神の名で通り、「かぶらこさん」の俗称が現在でも残っている。地名の加布良古崎から由来するものであるが、「かぶらこ」の語源はよくわからない。
明治時代になり、当社は延喜式内社の伊射波神社に比定されたことから、現代では伊射波神社の名称が一般的である。しかし、伊射波神社の論社としては他に志摩市の伊雜宮が有力であるため、本記事では歴史的に確実な加布良古神社の名を優先的に使用している。
穴あき石の奉納
一の鳥居。鳥居の向かい側は一面に海が広がり、浜辺に建つ。 |
鳥居の傍らに積み重ねられた石群。よくみると穴が開いた石が多い。 |
拝殿内に奉納された「神通力石」にも穴あき石が多い。 |
石の神体説
筑紫申真「五十鈴川―伊勢神宮祭祀集団の民俗学的研究―」『三重史学』3(1960年)には、 加布良古神社の神体が石であることが書かれている。以下、引用しよう。
加布良古明神の神体は石だといわれる。神主が朝早くまだ暗いうちに深い海にもぐり、石をつかんできて、その石を全然見ずにさらしの布に包んで、神としてまつる、という。そして加布良古の浜の石は、しばしば神異を示して他に私に運ばれることを拒んだという伝承に富んでいる。(筑紫、1960年、p.7)
神体が石体で、その石が秘匿されるというのは全国各地の神社でもよく見られるパターンであり、それ自体は特殊なことではない。
興味深いのは、この記述を信じるならば神社の神体石が定期的に交替していた可能性である。
さらに、他に私に運ばれることを拒んだというくだりは神職者以外が浜の石を持ち出すことを禁じたように読めるが、現状をみるかぎり当社には多数の穴あき石が奉納されている。穴あき石が浜の石かどうかという問題もあるが、記述時点と現況で歴史の変化が窺える。
美保留神
拝殿向かって右側に「子宝・安産の神 美保留神」の標示があり、上写真のように白石が敷かれて貝殻の奉献された一角がある。
特異なのは、奉献された先の岩石は、正確には拝殿を取り囲む玉垣(石垣)の端に過ぎないという点だ。たしかに石垣の断面は縦状に深い窪みを有し、外形は子宝安産の象徴化とみなすこともできる。美保留神は日本神話に登場しない神であり、仔細は不明である。
上写真には、美保留神の左奥にもう一体、岩塊が控えているのがわかる。拡大すると下写真となる。
この岩石がまつられていることは石壇と小鳥居の設備から明白だが、社殿内ではなく社殿外の玉垣に接してまつられた意味とは何なのだろうか。
神社由緒書によると、加布良古神社には多くの神々が後世合祀されており、その一柱に神乎多乃御子神社祭神・狭依姫命がいる。
神乎多乃御子神社は加布良古崎にかつてあった島に鎮座していたといい、戦国時代に海中に沈んだときに神体の石体が救出されて当社に合祀されたとある。
たとえば、こういった合祀された神々の石体が上写真の岩石なのかもしれないし、前述したように加布良古神社の定期的に交替される石体の一部なのかもしれない。
領有神
「海上守護神 領有神」の標示がある。場所は、加布良古神社拝殿からさらに参道を奥へ進み、加布良古崎の突端頂上に位置する。
「領有神」は「りょうゆうしん」ではなく「うしはくのかみ/うしはくがみ」と読む。「領く(うしはく)」は古語として存在するが、「領有神」の用例自体がいつまで遡りうるものなのかは突き止めていない。
加布良古崎
加布良古崎 |
加布良古崎の岬突端にある、ハート形の石。 |
皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会が2017年にインターネット公開した『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』には、鳥羽市に「美多羅志神社のハート石」の項目もあり、伊勢志摩ではハート形の石に注目するちょっとしたブームがあった。おそらくはその一例に数えられるのが上写真ではないか。
アクセス(駐車場)
神社の公式駐車場(写真左奥) |
自動車で訪れる場合、神社の駐車場の位置がはっきり現地で示されていないため、参考までに書いておく。
公式駐車場は上写真である。かめや旅館を横に通り過ぎるとすぐに三叉路にぶつかり、まっすぐは車止めがされており進めず、右は海水浴場へ行きつく。左へ進むとすぐ上写真の建物が見え、狭いが左に「駐車場」の案内があり広場が広がっている。
手前の鶴林山傳法院の駐車場にも、一部のスペースだけ神社駐車場として利用できるが(私は現地の方に聞いてここを利用した)、車を停める駐車スペースの番号は一部のみなので訪問時必ず確認してほしい。
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