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2022年12月30日金曜日

加布良古神社/伊射波神社の岩石信仰(三重県鳥羽市)


三重県鳥羽市安楽島町 加布良古崎

 

中近世は加布良古(かぶらこ)神社・加布良古明神の名で通り、「かぶらこさん」の俗称が現在でも残っている。地名の加布良古崎から由来するものであるが、「かぶらこ」の語源はよくわからない。

明治時代になり、当社は延喜式内社の伊射波神社に比定されたことから、現代では伊射波神社の名称が一般的である。しかし、伊射波神社の論社としては他に志摩市の伊雜宮が有力であるため、本記事では歴史的に確実な加布良古神社の名を優先的に使用している。


穴あき石の奉納

一の鳥居。鳥居の向かい側は一面に海が広がり、浜辺に建つ。

鳥居の傍らに積み重ねられた石群。よくみると穴が開いた石が多い。

拝殿内に奉納された「神通力石」にも穴あき石が多い。


穴あき石の祭祀は全国各地で類例が見られ、病の平癒や女性の願掛けで用いられることが多い。
また、穴をあけるのは石だけでなく土器、貝殻、柄杓ほかの素材でも見られるため、穴を開ける行為そのものに共通した論理がありそうだ。


石の神体説

筑紫申真「五十鈴川―伊勢神宮祭祀集団の民俗学的研究―」『三重史学』3(1960年)には、 加布良古神社の神体が石であることが書かれている。以下、引用しよう。

加布良古明神の神体は石だといわれる。神主が朝早くまだ暗いうちに深い海にもぐり、石をつかんできて、その石を全然見ずにさらしの布に包んで、神としてまつる、という。そして加布良古の浜の石は、しばしば神異を示して他に私に運ばれることを拒んだという伝承に富んでいる。(筑紫、1960年、p.7)

神体が石体で、その石が秘匿されるというのは全国各地の神社でもよく見られるパターンであり、それ自体は特殊なことではない。

興味深いのは、この記述を信じるならば神社の神体石が定期的に交替していた可能性である。

さらに、他に私に運ばれることを拒んだというくだりは神職者以外が浜の石を持ち出すことを禁じたように読めるが、現状をみるかぎり当社には多数の穴あき石が奉納されている。穴あき石が浜の石かどうかという問題もあるが、記述時点と現況で歴史の変化が窺える。


美保留神


拝殿向かって右側に「子宝・安産の神 美保留神」の標示があり、上写真のように白石が敷かれて貝殻の奉献された一角がある。

特異なのは、奉献された先の岩石は、正確には拝殿を取り囲む玉垣(石垣)の端に過ぎないという点だ。たしかに石垣の断面は縦状に深い窪みを有し、外形は子宝安産の象徴化とみなすこともできる。美保留神は日本神話に登場しない神であり、仔細は不明である。

上写真には、美保留神の左奥にもう一体、岩塊が控えているのがわかる。拡大すると下写真となる。

この岩石がまつられていることは石壇と小鳥居の設備から明白だが、社殿内ではなく社殿外の玉垣に接してまつられた意味とは何なのだろうか。

神社由緒書によると、加布良古神社には多くの神々が後世合祀されており、その一柱に神乎多乃御子神社祭神・狭依姫命がいる。

神乎多乃御子神社は加布良古崎にかつてあった島に鎮座していたといい、戦国時代に海中に沈んだときに神体の石体が救出されて当社に合祀されたとある。

たとえば、こういった合祀された神々の石体が上写真の岩石なのかもしれないし、前述したように加布良古神社の定期的に交替される石体の一部なのかもしれない。


領有神



「海上守護神 領有神」の標示がある。場所は、加布良古神社拝殿からさらに参道を奥へ進み、加布良古崎の突端頂上に位置する。

「領有神」は「りょうゆうしん」ではなく「うしはくのかみ/うしはくがみ」と読む。「領く(うしはく)」は古語として存在するが、「領有神」の用例自体がいつまで遡りうるものなのかは突き止めていない。


加布良古崎

加布良古崎

加布良古崎の岬突端にある、ハート形の石。

皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会が2017年にインターネット公開した『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』には、鳥羽市に「美多羅志神社のハート石」の項目もあり、伊勢志摩ではハート形の石に注目するちょっとしたブームがあった。おそらくはその一例に数えられるのが上写真ではないか。


アクセス(駐車場)

神社の公式駐車場(写真左奥)

自動車で訪れる場合、神社の駐車場の位置がはっきり現地で示されていないため、参考までに書いておく。

公式駐車場は上写真である。かめや旅館を横に通り過ぎるとすぐに三叉路にぶつかり、まっすぐは車止めがされており進めず、右は海水浴場へ行きつく。左へ進むとすぐ上写真の建物が見え、狭いが左に「駐車場」の案内があり広場が広がっている。

手前の鶴林山傳法院の駐車場にも、一部のスペースだけ神社駐車場として利用できるが(私は現地の方に聞いてここを利用した)、車を停める駐車スペースの番号は一部のみなので訪問時必ず確認してほしい。


2022年12月25日日曜日

岩石に彫刻することで得られるものは

竜ヶ城一千梵字仏蹟(鹿児島県)

先日、「鹿児島磨崖仏巡礼」vol.5のイベント「岩石信仰と磨崖仏」で講演をおこないました。

当日の様子は、主催者の一人でいらっしゃる窪壮一朗さんがブログに詳しく書かれているのでぜひご覧ください。

「鹿児島磨崖仏巡礼vol.5 -岩石信仰と磨崖仏」、吉川宗明さんを招いて盛大に開催!


鹿児島の摩崖仏、石造物に接して

本イベントのメインテーマは、摩崖仏の謎の解明にあります。

私は自然石信仰を主に取り扱ってきたため磨崖仏は門外漢で来たところがあり、鹿児島というフィールドを通して磨崖仏、そして石造物文化の見聞を広げる大きな機会となりました。

旧薩摩藩領内で盛んに造られた「田の神様(タノカンサア)」(隼人歴史民俗資料館所蔵資料)

馬の守り神としての「牧の神」(石碑下部に馬の彫刻がみえる)

近代の戦役記念碑・戦没者慰霊塔。不整形な自然石の形が多い。

墓石の一つ。墓域における統一感はなく、近世においても自由な石造物文化が認められる。

これらの石造物に通貫する価値観を挙げるなら、それは

「岩石に何かを彫りこまずにはいられない/刻みこまずにはいられない」

という点です。


とはいえ、上写真に挙げた自然石型の記念碑や自然岩の磨崖仏のように、岩石の性質を完全になきものとしてしまうのではなく、岩石の視覚的な外形・輪郭はそのまま活かされたかのような趣も感じ取れます。


タノカンサアの石像に限っては、顔面が白く塗られることもよくあるそうです。この点では、岩肌より顔の化粧が優先されたことがわかります。

では岩石である意味はないのかというと、タノカンサアの中には地区の家々で持ち回りでまつる移動型の石像もあったそうです。

窪さんが疑問に挙げたこととして印象に残ったのが、像を持ち歩く前提ならもっと軽い素材のものでもいいのに、どうしてそんな重い岩石で作ったのかという問いです。

便利より不便を選んだ理由に、岩石でないとならない精神的な要因があったのかどうか。


私はその場で即答できず、そして今も答えを用意できませんが、岩石を選び、彫刻する時には次の「瞬間」と「立場」で心理の種類が変わったのではないかと思うのです。


瞬間

  • 彫りたい対象を模索し、彷徨うとき
  • 岩石の存在を人づてに聞くとき
  • 岩石の存在に偶然出会うとき
  • 母岩から必要な岩石を切り出すとき、拾うとき
  • 岩石に彫刻の手を入れようとするとき
  • 加工しているとき
  • 加工した中から新たな石面を見たとき
  • 岩石を加工する中で破片が飛び出るとき
  • 季節、天候、時間帯、乾湿、陰影により、異なる岩石の様態に接したとき
  • 最終的な完成品に接したとき


立場

  • 最初にその岩石に出会った人
  • その岩石に彫刻を施さず、そのままにするという選択をした人
  • 最初にその岩石を彫刻したいと思った人
  • その彫刻者の影響下で共感できた人々(支持者、従者、子孫、同集団内の人々など)
  • その彫刻者の影響下で、共感できないものの従った人々
  • 彫刻後に、その彫刻された岩石に接した人(継承する人、再活用する人、対抗する人)


同じ人間でも、同じものに接してまったく同一の感情になるわけではないのが人間の複雑なところです。

同一人物の中でさえ、自然の岩石に出会い、石造物ができるまでの一つ一つの瞬間のなかで、岩石に見出した感情は刻一刻と変化したでしょう。しかもそれは、先天的な"ピュア"な内発的感情によるものと、後天的な知識・立場・背景によるものの両面があったでしょう。

さらに、完成した石造物に対して、彫刻した当事者と同じ感情を周囲の人々が感じたとは限りません。

イベント事に対して、熱心に取り組む人もいれば、集団に属すから嫌々参加する人もいるように、人の心理にグラデーションがあったとみるのが自然です。

そして、上の瞬間・立場のいずれにおいても、岩石に何らの心理的反応も生じなかった人もいたとまで折り込みたいです。これらすべてを取り扱うのが、岩石に対する人の心理です。


彫刻家の発言より

とはいえ、細別化しすぎると正直何から手を付けたらいいか手に負えないという現状があるので、まずは岩石を彫刻したいと考えた当事者から始めてみましょう。

ヒントとなるのは、石の彫刻家の発言です。時代も地域も異なるということに注意をしないとなりませんが、このブログで紹介してきた例を数例再掲します。

磨崖仏はその岩を彫り尽くすことが目的なのではなく、あくまでその岩の聖性を抽出するために、仏等の様々なしるしが刻まれると考えられる。(青野文昭氏)

青野文昭氏の「表現のみち・おく」が石を哲学している

石工の人々にためしに聞いて御覧なさい。必ず異口同音に答へるでせう。石は生きて居ります・・・・・・と。(尾崎放哉氏)

尾崎放哉「石」 ~『日本の名随筆 石』を読む その3~

アトリエに置いてある大理石が、汗をかいていた。(舟越保武氏)

石の彫刻家・舟越保武氏が岩石に対して感じた思い

私は自分の内奥の想いとか、私のえた知識を、石に何らかの表現をしなければならない、いいかえれば、石に信仰告白をしなければならなくなっていた。(C・G・ユング。徳井いつこ氏訳)

石に語らせる~徳井いつこ『ミステリーストーン』を読む その4~

岩石は生きている、という一文は、石を生業としない大多数の現代人(私を含む)には何のことやら、というところもあります。

文章どおりに受け止めてよいのか、というところに問題の根深さがありそうですが、「岩石が生きている」という発想は、岩石が主体で人が客体と言えます。

一方で、岩石に何かの表現をしたいという一文は、人を主体とした欲望であり、岩石は客体と言えます。


「岩石は生きている」と「岩石に何かの表現をしたい」の二つが、対立的ではなくむしろ止揚したところに、彫刻者の心があるように今は理解したいです。

磨崖仏や信仰に関わる石造物は、岩石が生きるという認知がすでに超越的であり、聖性の要因となりえます。いや、記念碑やモニュメントにおいてさえも、人が主体で岩石が客体という色が濃くなりながらも、岩石に込められたかつての聖性の残滓が岩石という素材を選ばせたのかもしれません。


岩石の聖性とは何か?

私が2022年までに言語化できたのは、『古事記』『日本書紀』『風土記』の奈良時代文献から抽出した「境界性」「忌避性」「生死性」「堅固性」「移動性」「永遠性」「非実用性」の7つの精神性です。詳細は論文として書きました。

論文紹介「『古事記』『日本書紀』『風土記』は岩石をどう記したか―奈良時代以前の岩石信仰と祭祀遺跡研究に資するために」(2022年)

この7つの精神性ですべての岩石を通観できるとは到底思っていません。


たとえば會津八一氏は、「石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばない」(會津八一「一片の石」~『日本の名随筆 石』を読む その10~)と、岩石の永遠性への反例を紹介しています。やはり時代、場所、立場、瞬間が変われば岩石の心理は変わるのです。

まずは現段階の参考としていただければ、というところです。


特定の岩石を強調、見える化するということ

そうそう、講演の中で日本列島最古級の磨崖仏「狛坂寺跡磨崖仏」(滋賀県)に触れました。

そこで、日本列島における初期磨崖仏の石窟タイプと露岩タイプの特徴の違いを紹介したのですが、かなり端折ってしまいました、

私が依拠した、藤岡英礼氏の論文「狛坂寺跡磨崖仏と山寺」『季刊考古学』第156号(2021年)より該当部分を引用して補足説明に代えます。

「大規模な露岩の摩崖仏は、石窟の摩崖仏よりもわずかに早く伝来したが」「露岩タイプの摩崖仏は、境内周縁に位置することで聖域を外部に示すモニュメント(指標)となり、場の中心を志向する石窟や中心堂舎とは異なる役割を持ったと考えられる。」(藤岡氏、2021年、p.25-26)

露岩がただそこにあるだけでは、聖地であることを示しきれなかった、だから仏を彫ってわかりやすく聖度を高めたということです。

窪さんが提唱された、自然石の聖性をさらに強調・見える化した「荘厳(しょうごん)磨崖仏」の考えかたに通じます。


民話・伝説に登場する岩や石には、「石を撫でる」「石が泣き出す」「石がしゃべる」など、石が人間のように動く話が時折みられます。

これは中近世の遊行者・座頭・巫女たちが全国各地を練り歩き、宗教知識を持たない庶民にわかりやすく伝えるため、地元に存在する岩石を人間の身体技法にたとえて物語化したという説があります(石上堅氏『石の伝説』雪華社、1963年)。


いわば、岩石を「荘厳」する方法には、言葉(民話・伝説・物語)で明確化していくアプローチと、彫刻・加工で明確化していくアプローチがあったということになります。


イベント翌日に、窪さんと川田達也さんから鹿児島の摩崖仏などを案内いただきました。

そのときおっしゃられていたのが、彫りにくい場所や足場の悪い場所に彫刻がみられるということです。

それを一言で言えば、厳しいことにあえて向かっていく彫刻者のパッションということになりますが、この記事の今までの話を踏まえれば、これも"難しい存在を超克していくことで、わかりやすくしていく"という荘厳の一種なのではないでしょうか。
(その彫刻が、必ずしも彫刻者以外にわかりやすいかどうかは置いておき)


自然石そのものには、人の意思が介在しないわけですから、その視覚的性質はすべてにおいて、掴みづらい、不安定な存在だったと言えるでしょう。

その"混沌"をそのまま受け止めて信仰対象とした自然石信仰と、"混沌"の不安定さを解決したく、意味を一意にするために彫刻を施した石造物信仰に反応が分かれたということで、今回の問いをまとめられそうです。


これはヒトが持つ、未知のものを解明したい、謎のものを明らかにしたい、という根源的な知的好奇心がなした業です。その知的好奇心が、岩石の荘厳、岩石の聖化につながっていく可能性を感じました。

岩石に神聖さを感じ、彫刻や祭祀をして一手間をかけたい人の心の動きは、信仰者にとっての謎解き行為なのかもしれませんね。


2022年12月12日月曜日

破石と御座石(三重県伊勢市)


三重県伊勢市二見町溝口(現・光の街)


二見町内を流れる五十鈴川沿いに、名の知られた二つの岩石が残る。

破石(われいし)




鎌倉時代の紀行文『とはずがたり』に、二見浦の記述で雷が蹴り裂いた石が登場し、これが破石のことを指すとされている。

(皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』https://www.kogakkan-u.ac.jp/campusview/catalog/isesima100monogatari_02/#page=1


令和の「鬼滅の刃」ブームで、全国各地の二つに割れた石が同作品の聖地として半ば町おこし的に取り沙汰されたが、その一事例として挙げることができる。たとえば2021年の下の記事などで取り上げられている。

「鬼滅」の巨岩?忘れ去られた名所を住民たちが「発掘」:朝日新聞デジタル

そのブームにより知名度が上がったために、2022年には心なき者により岩肌にスプレーで落書きされてしまったことも記憶に新しい。

落書きは完全には消えず、岩石の歴史として内包したまま今に存在する。


御座石(ございわ)

五十鈴川の川中に存在。

干潮時は石頂が水面上に現れるというが、探訪時は沈んでいた。

1895年刊行の『神都名勝誌』(神宮司庁編)に「御座石 三津湊より西三町許、川の北岸にあり」と紹介されているのがそれか。

(「新日本古典籍総合データベース」内の神都名勝誌447コマ目に記述あり。https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100191287

倭姫命がこの石の上で暫し休憩したことからその名があるといい、石の形を魚にたとえているのが珍しい。

伊勢神宮の贄海神事では、この石の前で船を泊めて祝唄をうたったともいう。
(「浜参宮だより~二見と伊勢とその近辺と~」http://hamasanguu.seesaa.net/category/7368751-1.html


アクセスについて

破石・御座石を車で訪れる場合、近くに駐車はできない。

伊勢市が公式に指定する駐車場は「朝熊山麓公園」の駐車場となっている。
(「伊勢志摩公式ナビ」https://www.iseshima-kanko.jp/spot/2959

公園駐車場から徒歩で御座石まで徒歩20分、破石まで徒歩30分をみておきたい。

朝汐橋を渡りすぐ西に入る小径があるのでそこを歩くとたどりつく。


2022年12月5日月曜日

浦神社の岩石信仰(三重県鳥羽市)


三重県鳥羽市浦村町今浦


皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会が2017年にインターネット公開した『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』では、「浦神社の磐境」として紹介されている。


「磐境」と命名しているのは管見のかぎり本文献にとどまり、歴史的に正しい名称がどうかわからないため、本ページでは岩石の名前を特に指定しないことにする。

探訪時は、境内工事中のため迂回して参拝した。


浦村湾沿いに鎮座。


浦神社社殿に接して岩崖が広がる。

境内の岩崖は、そのまま山頂の高さ数十mの岩山につながるのだろうと思われる。

岩崖の一部には、目の病に霊験をもつ「目薬の水」や滝が流れる。

高さ百尺余りと案内される一枚岩が神社の背後にひかえており、神社の選地の源となったことは明らかだろう。

巨岩信仰と形容するより岩山信仰のスケール感であり、岩山の名前はキントウ山ないしはギントウ山と呼ばれるという。


浦神社の名は、明治40年に近在11柱の神々が合祀された時からの社名というが、現地看板には「立神の地」に合祀されたとある。

この「立神」が地名を指すのか一般名詞としての表現を指すのか文脈からは不明瞭であるが、海沿いに屹立する立岩や岩礁に神宿るとみなす立神岩信仰を想起させるようで興味深い。


2022年11月17日木曜日

12月18日(日)講演会「岩石信仰の歴史を、旧石器時代から現代まで」開催のお知らせ

 2022年12月18日(日)に、一般公開の講演会を開催します。

このような形で皆様に岩石信仰の話ができるのは初めてです。

詳細は、下の画像にてご確認ください。


日時

2022年12月18日(日)

14:00~16:30

※「鹿児島磨崖仏巡礼」vol.5「岩石信仰と磨崖仏」の基調講演を担当します。


場所

レトロフトMuseo 2階

鹿児島県鹿児島市名山町2−1 レトロフト千歳ビル


鹿児島市電「朝日通電停」より徒歩2分。

鹿児島空港からはバスで1時間強の距離です。


参加料

1,500円 事前申込制です。


申込方法

「鹿児島磨崖仏巡礼」の専用申込フォームからお申込をお願いいたします。

会場の都合上、先着15名と限られておりますので、お早めにお申込ください。

→定員に達しましたので申込を終了いたしました。


講演タイトル

「岩石信仰の歴史を、旧石器時代から現代まで」


講演内容

タイトルのとおり岩石信仰の歴史を、遡りうる最古の時代(旧石器時代)から現代まで一気に説明します。

具体的には、それぞれの時代(旧石器時代・縄文時代・弥生時代・古墳時代・飛鳥時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代・近現代)の特徴的と思われる事例・場所をピックアップして、視覚的にも楽しめるようなスライドショー形式で紹介していきます。

今までこのような視点で説明される方もいなかったと思うので、斬新な内容としてお楽しみいただけるのではないかと思います。

専門的な内容も織り交ぜつつ、一般の方向けに説明を工夫する所存です。

また、私個人としては初鹿児島になるので、「鹿児島磨崖仏巡礼」主催の川田達也さんや窪壮一朗さんから摩崖仏の勉強を深め、鹿児島の岩石信仰の実地観察もいくつかできればと今から楽しみです。

鹿児島県開催ということで気軽にお越しいただけない方も多いと思いますが、ご興味を持たれた方はぜひご参加ください。


2022年11月6日日曜日

葛籠石/つゞら石(三重県伊勢市)


三重県伊勢市中之町




伊勢自動車道を作る際に移設されたため原位置ではない。
岩石の配置も、立地する斜面傾斜によって異なっていた可能性があるだろう。

「出かわり乃 神もありてや 葛籠石」
(上野録二郎『伊勢両宮詣でのしるべ』1881年 https://lab.ndl.go.jp/dl/book/815107?page=15


本石はすでに、南平秀生氏がブログ「伊勢すずめのすずろある記」にて詳細な文献調査をされている。

伊勢・志摩・度会の石紀行 その3 伊勢市中之町の「葛籠石」(つづらいし) - 伊勢すずめのすずろある記

かつては「お岩」として社が設けられ、今はなき『伊勢風土記』なる書物にもその存在が記されたという。それがいわゆる古風土記か後世に編まれた続風土記だったかもわからない。


2022年11月2日水曜日

ドビロの列石 / 龍仙山の「神籠石」(三重県度会郡南伊勢町)


三重県度会郡南伊勢町船越 字ドビロ(堂広)


「龍仙山の神籠石」として紹介されることがあるが、文献を捲ると「神籠石」と呼ばれた時代がいつからなのか疑問符がつく。

南伊勢町の郷土史家として知られた中世古祥道氏(中世古 1980年)によると、当地が神籠石として紹介されたのは昭和15年が初出で、それ以前の古文書などに本列石の記述は見当たらないという。明治時代に巻き起こった、いわゆる神籠石論争の後にその影響で名付けられた可能性がある。

以上の点から、恣意性を避けるためこの記事では字名から命名された「ドビロの列石」を採用したい。

 

位置関係把握のため、下地図の地点記号に沿って紹介する。

地理院地図(電子国土Web)より。作図機能が埋め込み不能のため画像化した。

A地点 登山口

A地点から望む龍仙山。

南伊勢病院の奥に駐車スペースと登山口がある。普通車可。


B地点 東ルート入口

東ルートの標示。明記されてはいないが神籠石へ取りつく最短ルート。


C地点 本ルート入口

軽自動車なら本ルート前の駐車スペースも可。今回は本ルートから山頂を目指し、東ルートで下山する行路を選んだ。


D地点 最初の岩塊

龍仙山が自然岩盤を露出する地質であることがよくわかる。登山道中、沢が通る場所に礫石を列状に並べるのは、後述する「神籠石」に触発されたかのよう。


E地点 岩塊群と岩船石?

龍仙山の山頂近くに高さ5mの岩船石と岩船池があり、目が潰れるので近づくものはいないという(岩永 1980年、南伊勢町教委 2021年)。その場所は未確認ながら、地図上で山頂近くに池マーク(溜池含む)があり巨岩が見られるのはE地点のため、候補地として挙げておく。


F地点 山頂直下の岩塊群

こちらも山頂近くの巨岩と言え、岩船石の候補たりうる場所。

鞍部から谷間に列状に集まる岩石群。これも当山の「列石文化」の萌芽につながるものか。

山頂直下の巨岩群は山頂鞍部に続く。


G地点 「不動尊」「行者さん」

山頂西尾根上の眺望の開けた地点に位置。

行者さん(左)、不動尊(右)の石祠。手前の斜面には岩盤が露呈する。

行者さん、不動尊の西に連なる列石状の岩石群。


I地点 大日如来

龍仙山頂上。

大日如来の石祠。

山頂からは五ヶ所湾が一望できる。曇天のなか一瞬陽の目が射した。


J地点 "神籠石列石"の上端の始まりか

山頂から東ルートで下る場合、最初に出会う「列石」がJ地点。上方斜面から撮影。

下方斜面から撮影。

J地点から下方斜面にも断続的に列状の露岩が続く。石垣状にもみえるが、龍仙山は龍仙山層群と呼ばれて地質的な特徴を有する。その岩脈の一種ではないか。


K地点 ドビロ列石上部 自然岩盤群

「神籠石」の看板が立つ地点の北限。

列石というより、巨岩の群集である。

高さは目測5mは越えるだろう。人が運ぶ形状ではない。

しかし、このように列状にみえる部分も存在する。

当地の列石が、自然岩盤に端を発するものであることを首肯せざるを得ない光景。

巨岩と巨岩の間には、中休み的に中小規模の岩石が散在する。

K地点南限の巨岩。ここから南はL地点へわたって岩石の規模が小さくなる。


L地点 ドビロ列石中盤 人為的列石

L地点には「謎の列石・神籠石」の看板が立つように、最も人為性に富んだ列石が広がる。

岩石は地表面から独立して直立していることから、人が副次的に並べた可能性が指摘できる。

岩石の高さは1体1体が高さ1mを越えず、翻って人が並べた可能性を想像しやすい。自然の岩盤がまずあって、断続的な岩石の線に対して後世の人が手を加えたかもしれない。


上動画はL地点を撮影したもの。


M地点 ドビロ列石下部

列石の下部は、再び自然岩盤を起点に不整形の露岩が散布する。

列石下端の岩石。

東ルートから神籠石の尾根への取りつきは、上写真の赤看板が目印。


「龍仙山の神籠石および南伊勢町の列石群」雑感


ドビロの列石については、南伊勢町に広がる他の列石と絡めて論じられることが多い。

以前から知られた存在ではヤジロ山の列石、八方山の列石、行者山(大戸)の列石、城ヶ谷の列石があり、武蔵大学の学生グループが数年がかりで実測した列石測量図が町立の資料館「愛洲の館」に保存されている。

近年では中根洋治氏の踏査(中根 2018年)により馬山、浅間山、清水山、七軒屋の山中でも列石の存在が確認されている。

この濃密な分布は、一種の「文化」さえ感じさせる。


これが何なのかについては、アマチュアから職業研究者まで、すでに多くの見解が出されている。ここで、龍仙山を一度だけ見た私が何かを評価するというのは無謀に等しい。

半世紀以上にわたり南伊勢町の郷土文化の生き字引だった先述の中世古氏をもってさえも、その結論は「謎を解くつもりで始めた歩みが、まずまず迷路にはまり、ヌキサシならぬみじめな姿が今の筆者」(中世古 1980年)と自虐的に締めるしかなかった存在なのである。


それでもあえて書き記すことがあるといえば、龍仙山のそれはすべてが人工物であるとは認められず、まず存在したのは自然露出の岩盤だったことは揺るがない点である。

これを認めたうえで、次は、すべてが自然だったのかというとそうではなく、その自然の地質特徴に対して、人々が影響されて自然露岩群に端を発した列石を構築した可能性である。

龍仙山においては、先に報告したK地点やM地点に自然露出の高さ数m級の巨岩群があり、その巨岩と巨岩の間をつなぐように高さ1m弱の地離れした岩石を立て並べている様子が見受けられる。


南伊勢町の他の事例では、ヤジロ山においても尾根上に存在する二体の巨岩をつなぐように列石がみられるという。

そして先述したように、龍仙山の一帯は龍仙山層群と呼ばれて他と一線を画する特徴的な地質構造を持った地域であることが判明している。

そして龍仙山層群の範囲(内野・鈴木 2017年)を地図上で照らし合わせてみると、これまで報告されている南伊勢町の列石群の多くが龍仙山層群のエリア内に属していることがわかる。地質的には、龍仙山と同様の成因で岩石が列状に露出する土壌があったことも考慮に入れたい観点である。


そこから、人々が露出した岩石の光景に何を感得して、どう二次的に手を加えて自らの心性を表現したいと思ったのかで差は分かれたことだろう。

南伊勢町の列石群は、場所によって列石の配置のしかたや列石の立地が異なっているというのはすでに指摘されている。八方山はそもそも山頂に少なくとも一重、一部二重の環状列石が明瞭に構築されており、実測図から見るかぎり人為的遺構というほかはない。ヤジロ山の列石は山頂から山麓の尾根稜線上に一列の列石が続き、話を聞くだけだと奈良県御蓋山の列石を想起させる。そして龍仙山は、山頂近くの7~8合目の一部の尾根上に列石が断続的に続く。列石とは一言でいえども、一つ一つの列石の様相は異なるのである。


この様相の異なりは、南伊勢町の地質的特徴が山ごとで異なって地表面に岩石として出現したことによるもので、本来は意図的な立地や存在ではなかったのではないか。

その非意図的存在たる岩石を意味付けすべく、時に列石が増築され、それぞれの山で異なる意味や性格が付与されたとしたら、今ここでそれを祭祀遺跡とか砦跡・烽火跡などで一括するのは危うい(神籠石、猪垣の二説はすでに下火である)。しかし一つ一つの集落としての列石の性格をミクロ的に論ずることができたら、それを結果的に当地の「列石文化」として語ることはできるかもしれない。

現時点で私が書けるのはこれくらいで、後はさらなる踏査の機会、資料調査の機会が到来した折に追記することになると思う。


参考文献

  • 中世古祥道「南勢町の謎の列石」『夢ふくらむ幻の高安城 第5集』高安城を探る会 1980年
  • 岩永憲一郎「三重県南勢町列石見学記」『夢ふくらむ幻の高安城 第5集』高安城を探る会 1980年
  • 中根洋治『巨石信仰 第3巻』2018年
  • 南伊勢町教育委員会『南伊勢の民話』2021年(https://www.town.minamiise.lg.jp/material/files/group/17/minamiiseminwa_full.pdf
  • 内野隆之・鈴木紀毅「三重県志摩半島、秩父累帯北帯白木層群の泥岩から得られた中期ジュラ紀放散虫化石と地質対比」『地質学雑誌 123巻12 号』2017年(https://doi.org/10.5575/geosoc.2017.0041