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2023年1月17日火曜日

社護神稲荷神社/三護稲荷大明神/社合神/三護神/三狐神(三重県伊勢市)

三重県伊勢市有滝町 豊北漁港

豊北漁港の敷地内に社護神稲荷神社はある。

社護神稲荷神社。社号標などは設置されていない。

神社境内。右手前に積み石が見られる。

岩礁状の積み石も祭祀対象であることがわかる。

社殿向かって左にも同様の積み石が見られる。


明治9年ごろに世古口藤平が著した『神三郡神社参詣記』に当社の姿が記録されている。
櫻井治男氏によって『皇學館大学神道研究所紀要』2(1986年)において翻刻されており、以下に該当部分を引用する。

社合神 三護神 三護稲荷大明神
社護神稲荷神社、正一位稲荷大明神幟を建て、祭日は七月晦日相撲あり
或人曰元三狐神ト云、誰か其後正一位稲荷大明神のがくをあ(上)けて今ハ稲荷社ト云、今又白狐の坐す、右の脇に何ヶ文形ある白狐ト申、此裏ハ浜ニつき出たる処ニて、遠き海向イ地よりも見へる日本三所の処なりト所人ハ云なり
此社ノ北ニ小さき森小社あり
弁才天
櫻井治男「資料 『神三郡神社参詣記』(二) 」『皇學館大学神道研究所紀要』2(1986年)


本記述を信頼するならば、稲荷神社と呼ばれる前には三狐神の名があり、それが社合神・三護神・社護神といったバリエーションで表記されていたことがわかる。

いずれの名もこれはいわゆる信州発の信仰・ミシャグジ信仰の影響下にあるものと思われ、本事例の読みは振られていないが、漢字から類推すると「シャゴジ」が適切かと思われる。


つまり、本事例は伊勢地域におけるミシャグジ事例の一つとして位置づけられるが、伊勢において他に著名な類例としては、二見浦で有名な二見興玉神社の「天の岩屋」が挙げられる。

天の岩屋では三宮神社をまつっており、その一名が三狐神社ということで本例と同名である。そして三狐神社は「石神」「佐軍神」とも呼ばれていたということから、こちらもミシャグジ事例に属することは間違いない。


「今又白狐の坐す、右の脇に何ヶ文形ある白狐ト申」との記述を示すものか、今も現地には社殿向かって右に礫石を玉垣状に積み重ねた場所があり、単なる玉垣となっておらず積み石の前に小鳥居と白狐が献ぜられている。

社殿とは別で祭祀されていることがわかるものであり、それが三狐神だったのだとしたら、二見浦の天の岩屋同様に岩石をもってまつられたミシャグジ事例ということで、石神とも領域が重なる存在となる。


ちなみに「此社ノ北ニ小さき森小社あり 弁才天」と記載されているものも現存しているようである。

当社が鎮座する有滝漁業魚市場の海を挟んだ北向の突端に「弁才天」の名を三重県森林GISの地図に認めることができる。


2023年1月16日月曜日

舟神龍宮の積み石(三重県伊勢市)

三重県伊勢市村松町 村松漁港

舟神龍宮。右奥に見えるのが村松漁港。

村松漁港

左・船上龍宮の祠。右・積み石。並置の関係にある。

積み石近景。岩礁を思わせるような形状。


情報がかなり乏しい場所である。

唯一と言って良い典拠は、皇學館大學伊勢志摩百物語編集委員会『伊勢志摩百物語~磐座の聖地めぐり~』(2017年)であり、ここでは「舟神龍宮の積み石」として紹介されている。

担当著者は皇学館大学特別教授の櫻井治男氏であり、その櫻井氏をもってもこの積み石について名称はおろか、付帯する伝承・記録についてもほとんど触れられていない。
(積み石だけではほとんど文章を書けないので、周辺神社の記述を足して何とか2ページの文章を完成できたことが読み取れる)


舟神龍宮について少なくともわかっているのは、昭和28年9月の台風の後、現在地に遷座されたということ。現在地は村松漁港に接して鎮まり漁師の守り神として適地と言えるが、元来の鎮座地ではないことがわかる。

この積み石も、昭和28年より前は別の場所にあったものか、それ以降に構築された祭祀の場だったのか、わからない。


積み石は、多数の礫石を人工的に積み上げたものと推測されているが、この構造と類似した事例がすぐ南東に隣接する有滝町豊北漁港の「社護神稲荷社」にも存在する。

地理的な近さも考慮して、これら海岸沿いの岩礁にも似た積み石祭祀は、相互影響下の存在としてセットで論じることが望まれる。


2023年1月8日日曜日

谷ノ神社/上之郷の「石神」(三重県志摩市)


三重県志摩市磯部町上之郷

「上之郷の石神」と「志摩3大石神」の文献調査





志摩国一宮とされる伊雑宮から北へ徒歩10分の位置にある。

現在は「上之郷(かみのごう)の石神」の名前で知られており、現地看板では「志摩3大石神」の1つと書かれている。


しかしながら、この「志摩3大石神」の総称を遡っていっても、管見のかぎりでは昭和以前の文献(紀行文や自治体史含む)には登場せず、三重県内に住む私自身、耳にしたのはここ10年以内である。
※2014年に相差町神明神社の石神さんを訪れた時は、まだ「志摩3大石神」の呼びかたを聞かなかった。

相差の石神さん(三重県鳥羽市)


「上之郷の石神」についても、その名で調べても昭和以前の文献にはまったく見当たらない。

別の名前で知られていた可能性も考えたが、『磯部町史』(1997年)などの自治体史を捲っても、地誌や観光ガイドの性格をもつ『志摩めぐり』(上野梅吉、志摩国史研究会、1929年)や『鳥羽誌 志摩国旧地考』(曽我部市太、三重県郷土資料刊行会、1975年)を当たっても、近くの史跡名勝「千田の御池」や他の石神については記述されるものの当地については記述が見られない。

千田の御池(当地より徒歩5分の距離にある)

現「上之郷の石神」の入口。「志摩の三大石神」の標柱が建つ。

上之郷の石神の現地は、舗装された参道や鳥居・標柱など、よく整備されている。「神恩感謝」の標示などはずいぶんと新しいように思うが、元来はどのようであったのだろうか?

Googleストリートビューを確認すると、2012年撮影時は様相がかなり異なっていることがわかる。

2012年撮影。入口すら見当たらない。


インターネット上で「上之郷の石神」を検索すると、最古で2014年11月の記事まで遡ることはできる。

上之郷の石神、旧村社「谷社」跡と秋を見つけて(志摩市磯部町)

しかし2013年となると、たとえばイワクラ学会理事の平津豊氏が伊雑宮を訪れたレポートを2013年1月に上げているがそこには上之郷の石神について一言も出てこない。

アマテラス鎮座前の伊勢

イワクラ学会主催の「イワクラサミット」で辿ると、2006年の「イワクラサミットin鳥羽」では上之郷の石神への言及がないが、2016年の「伊勢イワクラツアー」では「最近近づけるようになった岩」として上之郷の石神が紹介されている。


以上をまとめると、2012年頃まで現地はほぼ無整備の状態で、それが2014年頃には「上之郷の石神」の名で整備され、現在は「志摩3大石神」で括られる存在になったという現代史が描き出される。
歴史は数年で変化して、それ以前のありようがわかりにくくなる性質があるので、他記事ではあまり追究されていない部分について本記事はあえて記した。


谷ノ神社

とはいえ、この「石神」と呼ばれる岩石群は、まったくの無の状態から突然聖地として創られたものでもないらしい。

文献上でこの岩石群を記録したものとして、唯一見つけることができたのが、植島啓司氏『伊勢神宮とは何か』(集英社、2015年)である。下記ブログの存在で本文献を知ることができた。

フィールドノート(民俗野帖)


植島氏は、この岩石群を「上之郷の石神」ではなく「谷ノ神社」という名で紹介している。文章を読むと植島氏が現地を訪れたのは2013年夏のようである。

この時の様子は、「ちょっとわかりにくいところ」にあって「比較的大きめの磐座に注連縄が巻いてある」が、「神籬の跡がかすかに認められるものの、もはや原形をとどめないほど荒廃」(植島 2015年)した状態だったと記されている。現在の整備状態とは差があったことが読み取れる。同書に掲載された谷ノ神社の写真には、岩石の前に奉納物としてのミニ鳥居が立てかけられているが、これも現在は存在しない。


谷ノ神社とはどのような社だろうか。

現在も現地には「旧村社『谷社』跡 立入禁止」の柱が建っており、この谷社が谷ノ神社のことなのだろうと思われる。

現地に立つ「谷社」跡の標柱。当地に隣接する。

谷ノ神社は現在、近くの磯部神社に合祀されている。

明治時代の神社合祀の動きを受けて、磯部村内の十数の神社とともに合祀された時の一社である。

『三重県神社誌』第4(三重県神職会、1926年)によると、谷ノ神社の祭神は大幡主神で、以下の概要を記す。

「大幡主神ハ大字上之郷字西外戸四百七十一番村社谷ノ神社ノ鎮座ナリキ、由緒ハ[明細帳]ニ[不詳]トアリ」

いわゆる由緒不明の小社で、とりあえず最終の祭神が大幡主神ということだけはわかっているが、大幡主神(大幡主命)はいわゆる倭姫命伝説と絡む神であり、これが原初の地主神であったのか後世の勧請神だったのかはわからない。

さらに谷ノ神社には境内社が存在しており、前掲『三重県神社誌』によると「秋神社」の名が記されている。


前出の植島啓司氏は、谷ノ神社を「その土地の氏神・産土神を祀ったもので、伊勢・志摩一帯の古い信仰の痕跡がそこに表れていると言っていいもの」(植島 2015年)の一例として位置づけている。

この見解に対しては、たとえば江戸時代前期に成立したと推測される「伊勢二社三宮図絵」で伊雑宮に関するさまざまな聖地が強調されているのに、伊雑宮から徒歩10分の距離にある谷ノ神社については描かれていないことからも、当地が伊雑宮信仰というよりもそこから外れた在地的・非言語的信仰だったことを窺わせる。


近くの下之郷の山神社も「磐座」の岩石をただまつったものとして植島氏は写真を掲載している。

いわば伊勢志摩一帯には「形、石に坐す」と記されるような石を以て社とする岩石信仰が多い。それを祭祀考古学の笹生衛氏が提唱するような「御形」と呼ぶべきか、石に坐すから「石坐=磐座」と呼ぶべきかは保留したいが、谷ノ神社の岩石信仰もそのような伊勢志摩の事例の一つと言って良いだろう。

(なお、植島氏が磐座と石神などの使い分けをしておらず磐座を総称的に用いているのは、学史を踏まえた用法ではなく不適切だと思う)


したがって、歴史的にまとめるなら当地は「上之郷の石神」と呼ぶより「谷ノ神社」と呼ぶべきものであり、岩石の名を「石神」と定義してしまっていいのかも、学史を踏まえると慎重でありたい。

(本記事タイトルが谷ノ神社を優先表示して、石神に括弧付けしているのはそこが理由である)


また、隠されていた/禁じられていた聖地というわけではなく、神社合祀により一度その役目を終えて一般には注目されていなかったかつての聖地が、地元の方のなかでは継承され続けて、この10年で「上之郷の石神」として再整備された場所とみるのが適切である。

植島氏は磯部神社宮司の山路太三氏と共に谷ノ神社を訪れており、磯部神社宮司の方も当然承知の存在で、合祀前の旧社地としてこの岩石を護持されていたのではないかと思われる。

植島氏が訪れた2013年の翌年には、先に紹介したブログなどのとおり聖地整備がされ始めたので、このような専門家の訪問も一つの契機になったのかもしれない。


【補遺】天井石について

千田の御池の横に現存する「倭姫命旧跡」も併せて紹介する。

「天井石」と呼ばれるもの。由来は下画像を参照。

"いけないもの"が出て官憲に回収されたという話は超古代史系の話でも類型があり、どこまで事実として信頼できるか。
ちなみに、別の看板によるとその鏡は現在、志摩市立歴史民俗資料館に保管されているという。

同敷地内にある「勝負神」。力石の一例と思われる。