2023年2月20日月曜日

一番好きな「推し岩」「推し石」は何ですか?


「吉川さんが今まで見てきた岩・石で、一番好きな場所を教えてもらえますか?」

この前、上のご質問をいただいて、ごにょごにょ濁してお返事したのが悔いに残っています。

1位は決められないと思いますけど…と、気遣ってご質問くださったのにもかかわらず。


自分の一番好きな"推し"岩石というものを、建前だけでなく本音でも考えたことがないのです。

まだ自分が行ったことのない場所がたくさんあるから、仮決定もしていない。かっこつけていえば、常に最新が最高かもしれない、という心持ちでしょうか。


そうはいっても、雑談レベルでさえ毎回たいした答えを返せておらず自分で嫌になるので、今後の自分のために、これまで訪れた場所を思い返して頭の中を整頓してみます。

この記事で書いたことすべて主観ということで、ひとつよろしくお願いします。


巨石・巨岩部門

巨石・巨岩って、それだけで周辺の景観、なんなら今までの自分の記憶と比しての「異物感」があると思うんです。それが巨大なものが発する心的要素なのだと今はとらえています。

そういう意味で、歴史的経緯などと関係なく、感覚的に好きな岩石として挙げます。


■ おかめさんのはら(三重県桑名市)


多度山の一峰を瓶尾山と呼び、その尾根を「おかめさんのはら」や「亀の尾」と呼びます。

上写真が代表的ですが、岩石で敷きつめられたかのような尾根なんですね。

単独の巨岩・巨石ではなく、多数の巨岩・巨石が一面に織りなす光景の空間力、視界にあたえる力という意味で強く印象に残る場所でした。

多度大社と多度山の岩石信仰(三重県桑名市)


■ 兵主神社の影向石(兵庫県丹波市)


上は、私のパソコンの壁紙を数年間飾る写真です。その点では、私の無意識ではこの岩石が一番好きなのでしょうか?

地面からこの場所だけムキムキと隆起するさまを感じたというか、地表に顔をのぞかせた岩石の異質感をその場で感じたものです。初見で主観的に惹かれるものがあり、立ち去りがたい記憶があったことを思い出します。

ちょうど、この岩石だけ光が当たり、周囲の社叢の鬱蒼とした景観との差異や、岩盤を取り巻く玉垣の少しくたっとした佇まい、そしてこの聖地を護持してきた神社のもつ視覚的な要素などもその主観と相俟っていることは否定できません。

兵主神社の影向石(兵庫県丹波市)


■ 俱盧尊佛/黒尊佛/鉾島(和歌山県田辺市)


一回でたどりつけず、苦労して訪れた場所という思い出補正もあります。アクセスがどちらかというと秘されることの多かった場所で、隠されると神秘性が増すというような「後天的」な要素も私の主観をかき乱しています。

それでも、上写真で伝わるでしょうか、この岩石の岩肌の多面的なグラデーション。特に、下部の青白く色が変わるところには、異物感といいますかイキモノ感すら言葉として説明できるような迫力が否応なくありました。

もちろん、これをみて単なる岩じゃんという感想があってもいいと思います。むしろ、その受け止め方の違いが出たほうが人間の複雑さの証明となり、なおのこと岩石信仰研究の原動力となります。

津荷谷の俱盧尊佛/黒尊佛/黒尊仏/鉾島(和歌山県田辺市)


小石部門

巨石・巨岩の「魅力」は、理屈だけでなく感情面でも私のなかにある程度は備わっているのだと思います。だから巨石・巨岩部門で3か所を選べました。

その一方、逆向きの興味関心として、私はただでかいというよりは、小石や何の変哲もないといわれそうな自然石に、人々の物語や伝説が付されている現象に強く興味を抱くようです。

自分の感覚とそぐわないからかもしれません。自分の感覚との「異物感」と表現したらいいでしょうか。

異物感は心の不安を増長するので、自分の心の中で理屈をつけて折り合いをつけたいのかもしれません。だからこのような岩石信仰研究をしている節もどうやらあるのですが(自分でも言語化に困る核心的な部分のため、これくらいの表現とさせてください)、このような疑問や不安を解明したいという意味で吸引力をもつ岩石を挙げます。


■ 岩神/おんじく石/温石(福井県大飯郡高浜町)


岩石自体が異形という点で惹きつけるものはありますが、この岩石が「この世をば打ちこわす」と言葉を発する岩神としてまつられ、まつられながら岩石は削り取られ、石のかけらを温めると痛みが取れるという温石の役目も果たしたという多面性。

人と神の関係は一言で言えない複雑なもので、ひとつの岩石がたどった歴史の重さも想像されるという点で、ここに推せます。

岩神/おんじく石/温石(福井県大飯郡高浜町)


■ 調宮神社の列石(滋賀県犬上郡多賀町)

調宮神社といえば、社殿奥の社叢内に屹立する立石の存在が本邦界隈では注目されがちですが、私は奥の立石より、上に掲載した境内入口の列石に惹かれます。

駐車場や外の舗装道と明らかに区画するために並べられた列石なのですが、岩石の大きさは不揃いで、敷きつめられた密度もスカスカ。いつ並べられたかわからないが、結果として現在の景観は苔むして、不整形な自然石だからか却ってなにか言語化しにくい感情を喚起する。

調宮神社に話がおよぶ時は、いつもこの列石のことをやや熱っぽく触れるのですが(調宮神社に話がおよぶことがほとんどないので人生で2回くらいか)、この狭い岩石界隈でもまだ理解が得られたことはありません。

調宮神社(滋賀県犬上郡多賀町)


■ 阿呆賢さん(京都府京都市)


「あほかし」さんです。名前がいいですねえ。

神占石や重軽石の別称もあるとおり占いの道具としての岩石であり、この種の類例には事欠きませんが、さん付けされて人格化したところに独自性があります。

そして、岩石自体の黒光りした、全体として楕円形ではありつつも自然石然とした部分も残す"ランダムさ"もまた、私にとっては疑問や不安の対象となりえます。

今宮神社の岩石祭祀事例(京都府京都市)


人生のマイルストーンとしての岩石

旧ホームページで一度ふりかえったことがあります。確認したら2008年のことで、想像より昔すぎて自分でびっくりしました。

これこそ思い出補正の執着心以外の何物でもありませんが、自分の気持ちに整理をつけるために書いておきます。


■ 山の神遺跡(奈良県)と保久良神社の立岩(兵庫県)

山の神遺跡


保久良神社の立岩

二つ同時で失礼します。私が人生で初めて認識した岩石信仰です。

山の神遺跡は高校日本史の資料集で、保久良神社の立岩は『ムー』での出会いでした。ほぼ同時期で、この二つが重なったから、ああこういう世界があるんだという認識にいたったわけです。つまり、本を通して初めて知ったというマイルストーンです。

両者とも、後年に現地に立った時はえもいわれぬ感情に包まれたことは言うまでもありません。

三輪山の磐座群と周辺の岩石信仰(奈良県桜井市)

保久良神社の列石を巡る磐境説とその批判的検討(兵庫県神戸市)


■ 猪子山(滋賀県東近江市)

猪子山中の「岩船」

大学生になって、初めて自覚的に自分の足で赴き、目におさめた岩石信仰の現場でした。

なぜ猪子山にしたのか、詳しい心の流れは自分自身覚えていませんが、藤本浩一氏の『磐座紀行』に掲載されていて、見たいと思ったのだと思います。

猪子山には山麓から山頂にいたるまで複数の岩石祭祀事例がありますが、麓から登って最初に目にするのは上写真の「岩船」ということで掲載しました。

猪子山の岩石信仰(滋賀県東近江市)


■ 山添村(奈良県山辺郡山添村)

山添村内の「天王の森」

私が岩石祭祀の機能分類を作るきっかけとなった場所です。村内で計82事例の岩石に出会い、どのように理解すればよいか一番ウーンウーン唸って出てきた考えかたでした。研究上の画期としていつまでもありつづけるでしょう。

山添村の岩石信仰(奈良県山辺郡山添村)


■ 与喜山(奈良県桜井市)

『岩石を信仰していた日本人』の表紙写真に採用した与喜山中の「北ののぞき」

約15年、断続しながらも何度も足を運んだ山でした。一つの地にこだわって調べ続ける、フィールドワークの大切さを学ぶことができました。

1か所、どうしても見つけられない場所が山中にあり、そこと出会うために15年を費やしました。しかしその結果蓄積できた学びを小考にまとめることができたのは、いわゆる「研究者として与喜山に呼ばれていた」とまで言える貴重な経験でした。

与喜山の旧跡群まとめ(奈良県桜井市)


■ 真清田弘法(愛知県名古屋市)

森徳一郎『郷土史談(三二) 真清田神宝流出記(5) 十六 龍神石』1935年

一時期、とりつかれたように調べていた存在でした。結局謎がまあまあなレベルで解けていないのですが、今は時間もたち、落ち着いてしまいました。よくないですね。

インターネットの大海でキーパーソンと会えるか委ねていましたが、まだその時期ではないようです…。

真清田神社の神体石と覚王山日泰寺の真清田弘法


■ 夫婦石/妻夫石/妋石(三重県四日市市)


マイルストーンという点では、自宅からもっとも近い岩石信仰の一つでありながら、その存在を認識するのに時間を要した本例を見逃すわけにはいきません。

地元の歴史を掘り下げる機会があり、そうすると知らなかった岩石信仰がたくさん出るわけです。あちこちに足を運び、目移りしようとする自分に「足下を固めろよ」と警鐘を鳴らしてくれる岩石たちです。

東海道の夫婦石/妻夫石/妋石(三重県四日市市)


なお、2023年現在のマイルストーンは愛知県北設楽郡設楽町の岩石群です。

2019年末から関心を抱き、今年には調査を終えて記録にまとめたいと思います。

愛知県設楽町名倉(大名倉・東納庫・西納庫)における岩石信仰の文献調査


まずはここから案内したい入門編

これまで取り上げた場所以外で、特に、比較的行きやすいところを紹介して終わります。

(険しい山登りなどを必要としないという意味で。お住まいによってアクセスのしやすさは異なります)


■ 榛名神社・榛名山(群馬県高崎市)


奇岩怪石の宝庫。一日ゆっくりたっぷりと、岩石信仰を堪能できる場所。関東に住んでいたら、私ならここへ最初に案内するかな。

榛名神社・榛名山の岩石信仰(群馬県高崎市)

■ 太郎坊宮(滋賀県東近江市)


麓に降り立った時から、岩石信仰をわかりやすく期待できる場所。初見からの印象良しとして入門編に最適。
(車で中腹まで行けますし)

太郎坊宮と瓦屋寺とその周辺の岩石信仰(滋賀県東近江市)


■ 元伊勢内宮皇大神社・天岩戸神社(京都府福知山市)

推し神社になるのだと思います。岩石信仰だけでなく、山岳信仰や河川信仰などの自然物信仰が凝縮された場所巡りとしてもお薦めできます。

元伊勢内宮皇大神社・天岩戸神社・日室ヶ嶽の岩石信仰(京都府福知山市)


ほかに天乃石立神社(奈良県奈良市)もわかりやすくて好きですが、一刀石が鬼滅の刃ブームで人口膾炙状態になったので、書き添えるのみにとどめます。


おわりに

たくさん挙げてしまいました。


ボリューム的に、何回かに記事を分割して書けば良かったのですが、衝動的に書きたいのと1ページで全情報が見られるようにしたい、インターネット旧世代としての嬉しみを優先しました。


結局、一番好きな場所はどこですか?と問われたら、瞬時にこれくらいの場所が脳内でオーバーフローして、答えられなくなるのだと思ってくださいませ。

ということで今度から聞かれたら、この記事を見せていきたいと思います。


2023年2月19日日曜日

妙見大菩薩石聚神社/石牟礼妙見大菩薩/妙見神社の岩石信仰(鹿児島県日置市)


鹿児島県日置市吹上町中之里

妙見神社社殿の背後に巨石群が控える。

社殿側から拝む巨石群の全景。階段と手すりの整備は巨石に手を入れるものであり、必須だったかは悩ましいところ。

巨石の群れの内部には岩陰状の空間がみられ、内部に立ち入ることもできる。

巨石の頂部の一つ。このように穴が開いた岩石構造をもつものが多い。

巨石群から東を眺めれば遠くに水平線(東シナ海)もみえる。

「成功」と刻まれた岩肌。おそらく戦前戦後の刻字と思われるものが複数みられる。

それらの刻まれた字にあやかって、現在これらの名前が岩石に冠される。


一般には「妙見神社の巨石群」の名で知られる。

近年、地元の方々が神社の整備や顕彰を進めており、「落ちない岩」や「努力・祈・成功の岩」と命名された合格祈願にかかわるものや、「男性岩・女性岩・子ども岩」の命名で子宝安産や家庭円満にかかわるものとして、パワースポットとしての色を強めている。

歴史的にはどうだったかという部分で、ここに記録を残しておきたい。


社頭に掲示された「妙見神社由緒書」は文字が消えかかっているが、そこに「石聚神社」の名がみえ、以下のとおり記されている。

石聚(むれ)神社 岩石の群がる石牟礼が此の名称の出所

所在 小牧のミケン(筆者注:判読しにくい)から此処へ移転になったという伝説がある

石牟礼(いしむれ)が地名として残り、それはつまり当地の「石の群れ」から由来したという説である。

「聚」は「衆」であり、石の集まりを社名にしたという点で岩石信仰に端を発する神社とみることに特に異は挟まない。


境内に建つ、享保年間の奉納と思われる「石垣誌」にも「石牟礼妙見大菩薩」の刻字がある。

さらに、柚木英一氏「道で出会った石の神」(『鹿児島民俗』78号、1983年)には、「この神社は吹上町中之里石牟礼に在って、古い社名が、妙見大菩薩石聚神社」とある。


冒頭の由緒書では遷座説もあるようだが、巨石が移設されたとは考えにくいので、神仏分離以前の聖地としての在り方がこの名に伝わり残ると言えるだろう。

本記事では、歴史的に辿ることができて、当地の岩石信仰と神仏の関係をよく表す、妙見大菩薩石聚神社・石牟礼妙見大菩薩の名を優先して表題に掲げておくことにする。


2023年2月13日月曜日

湯之浦の「神籠石」「天狗岩」「環状列石」(鹿児島県日置市)


鹿児島県日置市吹上町湯之浦字鍋石ヶ岡


神籠石の概要

鍋石山、ナベ石岡、天狗殿の山、天狗どんの山、兜山などと呼ばれる標高117mの山(以下、鍋石山)に、「神籠石」「天狗岩」「環状列石」と呼ばれる3か所の岩石群の存在が報告されている(大岳 2000年・徳留 2002年)。

2003年、地元の吹上郷土研究会によって神籠石までの山道が整備され、道が荒れているとか急登であるとかいう話も聞くが、私の感想としては今も比較的山道は明瞭である。

登山口から約10分登ると神籠石の場所へ到着し、現地には同会が立てた看板がまだ残る。

神籠石(南から)

神籠石(東から)

神籠石(西から)

斜面下部から上部までの最大高で10mを越えるとされる。

全国各地、神籠石と呼ばれる自然石や地名は数多あるが、当地の神籠石の特徴をまとめるなら、

  • 岩窟状の内部空間を有し、そこに後世磨崖仏が彫られる。
  • 鏡餅状の岩石を積み重ねたような景観を一部に見せる。

この2点が挙げられるだろうか。鏡餅状は鍋形と言い換えても良く、地名の鍋石をよく表した景観だと率直に感じた。

かつては、特に冬季は麓からこの神籠石の姿が望めたという。


全国各地の神籠石を実地調査した向井一雄氏によると、神籠石の形態としてはいくつかのパターンに分かれるといい、下記のように整理している(向井 2019年)。

  1. 窪み、穴、隙間(室状)
  2. スジ・割れ目
  3. 上に石を乗せる(積み重ね)
  4. 円形や立方形で上部が平たい形
  5. 水中にある事例などもある

湯之浦の神籠石の場合は1と3の要素が含まれており、後述するように頂面が平たいので広い意味で言えば4の要素も含む。
神籠石がどのような性格の信仰なのかはまだ答えが出ていない問題であるが、当地の神籠石は神籠石分布の中では南限に近い事例でありながら、全国各地の類例と共通する外形要素を兼ね揃える好例であることは認めて良いだろう。


なお個人的には、当地の神籠石が山頂ではなく山頂直下の斜面に位置するという点も注目している。

この岩石構造物は自然の営為とみなす立場であるが、山の最高所である頂上を外した場所にこのような岩石が存在するという点で、当地の信仰世界観に影響を与えたものはあったと思われる。

というのも、たとえば福岡県日峯山遺跡は古墳時代の岩石祭祀の遺跡だが、山頂で祭祀を行わず、山頂直下の岩石の前で祭祀を行なったと推測され、山頂を外して祭祀行為を行うことに意味が置かれていた可能性もあるからだ。


「こうごいし」か「しんごいし」か

神籠石は「こうごいし」と読む。

大岳吉之助氏は、神籠石は古代山城説・磐境説で議論が巻き起こった九州北部中心に多い列石を指すものだから、当地の神籠石は列石状とは言い難く、本来の読みは「しんごいし」だったと類推する説をとる。

しかし、大岳氏の依拠した神籠石の学説は古く、現在は神籠石は列石とは関係のない岩石から由来する名称で、また、今日では磐境説は否定されていて古代山城説を支持する考古学的根拠が揃っており、いま異論の余地はない。


さらに、当地には地名で中世山城の皮籠石城が残っていることも大きい。

鍋石山の主に西側にあった城で、皮籠石城は伊作城の支城の一つだった。この山城の存在によって、神籠をしんごと読むからしんごいしだとする根拠は崩れ去り、皮籠石の城名から「皮」の字も伝えることから、当地の神籠石は「こうごいし」、さらに言うなら元は「かわごいし」の音が源流だった可能性を伝えている。


ちなみに、神籠石を磐座と同義とみなす向きもあるようだが、語義研究からも実例研究からもこの二つが同義であるとは証明されていない。文脈の異なる「磐座」の概念を早計に持ち出すことは慎重であったほうが良い。


神籠石の岩陰空間と磨崖仏

神籠石の岩陰空間と磨崖仏(天井石の右側を支える岩肌に見える)

当地の神籠石の下は岩窟状になっており、トンネルのように潜ることができる。

ここは神様が通る道だったという言い伝えが残っている。


そして、この岩陰部分の岩肌には磨崖仏と複数名の人名が刻まれている。


「奉供養光明真言十万遍」の字が読み取れる。

現地に同行・案内いただいた窪壮一朗氏、川田達也氏の所見では、十万遍を唱えてその記念に彫った磨崖仏で、集団が彫刻した磨崖仏というのも珍しいとのことだった。

口承によると、この磨崖仏は天保年間(1830年~1844年)に刻まれたもので、この場所から石を切り出して伊作に米蔵を造るために石工が彫ったと伝わる。

現地の摩崖仏の側には、文久年間(1861年~1864年)の修験者名と共に、海蔵院二十三世法印亮賢の名が刻まれているという(徳留 2003年)。亮賢は元禄6年(1693年)没とのことで、17世紀から19世紀にかけての年代幅が広がっているが、これらの摩崖仏と刻字が同時・同一集団になされたものとも言い切れない。


神籠石の天井部

神籠石の天井部(頂部)

神籠石の天井部には平らな石面が広がっており、約4m×5mほどの広さをもつ。相撲の土俵場くらいの広さとも形容される。

天井部の石の上からは、麓の湯之元集落を見下ろすこともできる。今でこそ樹林がかなり遮っているが、かつては見晴らしに良かったことは容易に想像される。

神籠石天井部から麓を眺める。

この天井部の岩石は、鬼または天狗が持ち上げたといい、そのために鬼または天狗の手形が残るという。物語系統が鬼説と天狗説に分かれるようである。

天井石の底部。抉れているような石面をいくつか認められるが、これらが「手形」と語られるものか?

神籠石の天井の石面に、鳥の餌として餅を小さく刻んで撒く風習があったという。

神籠石の天井部の岩石上を土俵に見立て、相撲を取ったという話もある。


春と秋の2回、三味線太鼓で囃して酒肴を交わした「岡上り」があったという。これが祭祀だったか娯楽の一環だったかは、当時(おそらく1920-30年代)参加した古老の見解では判然としなかったという。

これは『吹上郷土史』下巻に記された行事「でばい」と同じものと指すと思われ、村人が総出で神籠石へ行き、見晴らしの良い場所で三味線太鼓を鳴らし歌い、酒を飲むのだという、


天狗岩

天狗岩は、神籠石から東200m地点にあり、急斜面に露出した巨岩群からせり出したものという。

これがどこのことなのか、今一つはっきりしない。

神籠石から東に同標高をたどって歩いていくと、木に掴まりながらでないと立っていられない急斜面上に、多数の巨岩巨石が露出している一帯がある。




これらすべてを天狗岩と総称してもよさそうな存在感だが、どうやら下記Facebook投稿のような、天狗の鼻のように突き出た岩のことを特にそう呼ぶらしい。


残念ながらこの岩を現地で特定できなかったが、後述する「環状列石」から南に下り、現れる巨岩群をさらに東に行った下写真の辺りが怪しい。

写真右奥の巨岩の上部に、天狗の鼻のようなせり出しが認められる。

上写真の拡大

天狗岩の近くには、かつて「天狗殿の松」と呼ばれる大松があったそうだが、昭和30年代の台風や松食い虫のために枯れて今はない。

なお、天狗岩の崖面にも仏像が彫刻されているという話が残っているらしいが、神籠石の摩崖仏と混同している可能性もある話なので参考程度に記しておく。


山頂の「環状列石」について

鍋石山頂上には「環状列石」ではないかと俗に呼ばれる岩石群がある。考古資料認定や文化財登録をされているものではない。




岩石の規模としては先述の神籠石・天狗岩のような巨岩ではなく、人為的に運搬・設置できるものである。

たしかに何か寄せ集めたようにも感じる岩石の群集も窺えるが、少なくとも「環状」とまでは呼べないと記しておく。


この「列石」については、終戦後に食糧増産のためにこの山も開墾され、その時に畑地の土留めをした結果がこの列石様の構造物なのではないかと、下野敏見氏が2000年の講演「南九州の石神信仰を訪ねて」内で発言したという(大岳 2000年)。比較的冷静な評価と言え、参考としたい。

先述のとおりこの山には皮籠石城もあったのだから、仮に「環状列石」が先史時代の産物であったとして、後世の改変や再利用を通過しなかったとは考えにくい。地表に露出する現状の景観をもって「太古」を幻視する危うさを抱きながら岩石信仰に接したほうが良い。


参考文献

  • 大岳吉之助「湯之浦の天狗岩および神籠石について」2000年(非公刊)
  • 徳留秋輝「薩摩半島の巨石文化を探る―巨石信仰と磐座と神社の起源等について―」『鹿児島民具』第15号 2002年
  • 向井一雄「石神・磐座・磐境といわれているもの」『第59回古代山城研究会例会 古代山城と祭祀・寺院 神籠石論争から四天王信仰まで 予稿集』古代山城研究会 2019年
  • 吹上町教育委員会・編『吹上郷土史』上・中・下巻 1966年


2023年2月7日火曜日

石體神社の岩石信仰(鹿児島県霧島市)


鹿児島県霧島市隼人町内


石體神社は石体の意であり、石体神社・石躰神社の字や石體宮などの表記もある。

読みは「せきたい」「しゃくたい」のほか、地名の岩田帯と絡めて「いわた」の読みも許容されている。

大隅国一宮の鹿児島神宮(鹿児島神社・大隅正八幡宮)の原鎮座地と伝えられ、鹿児島神宮の元宮に位置付けられる。


石體・石躰・石体の諸説


石體神社の名が示すとおり、神体は石と伝わる。

たしかに境内には、自然岩盤由来と思われる大小の岩石が散在している。

石體神社境内

境内に残る岩石の一つ。

石體神社拝殿

それでは、神社内にまつられると思われる石はどのようなものなのか。

守屋奈賀登・桑幡公幸の共著『国分の古蹟』(私家版 1903年)に、この石體神社の「石體」について各種異聞が収録されているので以下に併載する。


  • 林山の中に石體宮あり此社は神功皇后御正體石を勧請す(神社撰集)
  • 崇徳院御宇天承二年正月正宮へ御幸此時御石躰の銘文金色にて賜崇石躰権現(略)此所正宮初現の所也云云(鹿児島神社舊記)
  • この石躰は即ち火火出見尊の初都し玉ひし宮床の跡にて其地に神庿を建て石の御神像を安置し奉るこれ鹿児島神社の原處なり後今の山上に遷宮ありても本の如くに此地に留め置奉りて崇めけるといへり古人の説には此御神躰の石は地石にて坤軸際より生出たれば動すことならず本の宮床に斎ひ奉る(名所考)
  • この石八幡の正體なりといひ傳ふ往古豊前洲宇佐の宮の神官等此事を信ぜず三使を遣して是を焼かしむ何の歳を詳にせず四月三日来りてこれを焼石體たちまち缺裂して中に正八幡の文字あらはれたり(略)三使おほきに恐怖して逃帰る一人は立どころに死し一人は途中に死し一人は宇佐に至りて死すみな神罰を蒙れりとぞ今に至りて其顕はれたる文字照然として石面に存在せりと云ひ傳ふれど深く秘して謾に拝する事を得ず(名勝志)

すべて前掲『国分の古蹟』より


さまざまな立場から語られた由来が、相容れないまま併存しつづけたことが一見してわかる。

どのような神の石体なのかという問いには、神功皇后説、火火出見尊説、八幡神説が残る。

そして、石体の様態については、石面に石躰権現の銘文が金色に現れた説、石が割れて石面に正八幡の字が現われた説、石像というが地石のため動かせない岩盤状のものと思われる説が残る。

上記文献には触れられていないが、『三国名勝図会』巻之三十一ではさらに「石體は、秘物にて藁薦を以て其體を覆ふ」の一文がある。石を藁薦で覆って秘匿している。秘匿されているから、このようにさまざまな諸説が生まれるのだろう。


石体の様態に関する記述はそれだけではない。

『鹿児島県史 第1巻』(鹿児島県 1939年)によると、石體神社の項目で「石體は二基が向ひ相に立つて」おり、「當時の御寶殿丑寅三町許、宮坂麓に立つて居たのを、古老神人多治則元が発見」したと紹介されている。

これも天承2年(1132年)のこととされているので、『鹿児島神社舊記』が記す故事と通ずるものと思われる。


この出来事は「石体事件」としてすでに研究がなされており、日隈正守氏の論文「八幡正宮(大隅国正八幡宮)石体事件の歴史的意味に関する一考察」(『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編』62)に詳しい。

本論文によれば、この石体は大隅正八幡宮(現・鹿児島神宮)が八幡宮発祥の地であることを主張して神威を高めるために人為的に起こされた事件の産物であるという。

地石の石體伝説とは別系統の物語のようであり、「石体」としての出自が相混ざっているのかもしれない。だが、この石体事件の奇譚を以て鹿児島神宮元宮・原鎮座地としての石體神社の創建となったのかもしれない。


なお、国分郷土誌編さん委員会・編『国分郷土誌』(国分市 1973年)には、このような記述も見られる。


石体宮の宝殿の下は岩石の洞窟になっており、この中に御神体である石体が奉安されている。(前掲『国分郷土誌』より)


この記述のさらなる出典を求める必要があるが、地石が岩窟のように内部空間を有しており、そこにさらに石体を置くという構造を記しており、石体の詳細を語るものとして紹介しておきたい。

石體神社本殿


御石・石塔


石體神社境内の「御石」「石塔」

石が置かれている。

石塔

社殿向かって右に、二体の岩塊の上に小石を積み重ね、そのうちの一体には石塔が建てられている。こちらも岩石祭祀であるため、石體神社の石體をこの存在かと誤解する向きもあるかもしれない。

社殿内に秘匿された石體から端を発する岩石を用いた祭祀事例とみれないこともないが、神社の石を持ち帰り、祈願成就の際に石を返す風習は全国各地に見られ、当地の場合は神功皇后の鎮懐石伝説と絡めて成立している。


石躰神社はむかしより祭神は神功皇后と傳へ此の神社の御石を乞受産婦の腰に挿めば平産するとて世人の崇敬する(守屋奈賀登・桑幡公幸『国分の古蹟』私家版 1903年)