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2023年2月7日火曜日

石體神社の岩石信仰(鹿児島県霧島市)


鹿児島県霧島市隼人町内


石體神社は石体の意であり、石体神社・石躰神社の字や石體宮などの表記もある。

読みは「せきたい」「しゃくたい」のほか、地名の岩田帯と絡めて「いわた」の読みも許容されている。

大隅国一宮の鹿児島神宮(鹿児島神社・大隅正八幡宮)の原鎮座地と伝えられ、鹿児島神宮の元宮に位置付けられる。


石體・石躰・石体の諸説


石體神社の名が示すとおり、神体は石と伝わる。

たしかに境内には、自然岩盤由来と思われる大小の岩石が散在している。

石體神社境内

境内に残る岩石の一つ。

石體神社拝殿

それでは、神社内にまつられると思われる石はどのようなものなのか。

守屋奈賀登・桑幡公幸の共著『国分の古蹟』(私家版 1903年)に、この石體神社の「石體」について各種異聞が収録されているので以下に併載する。


  • 林山の中に石體宮あり此社は神功皇后御正體石を勧請す(神社撰集)
  • 崇徳院御宇天承二年正月正宮へ御幸此時御石躰の銘文金色にて賜崇石躰権現(略)此所正宮初現の所也云云(鹿児島神社舊記)
  • この石躰は即ち火火出見尊の初都し玉ひし宮床の跡にて其地に神庿を建て石の御神像を安置し奉るこれ鹿児島神社の原處なり後今の山上に遷宮ありても本の如くに此地に留め置奉りて崇めけるといへり古人の説には此御神躰の石は地石にて坤軸際より生出たれば動すことならず本の宮床に斎ひ奉る(名所考)
  • この石八幡の正體なりといひ傳ふ往古豊前洲宇佐の宮の神官等此事を信ぜず三使を遣して是を焼かしむ何の歳を詳にせず四月三日来りてこれを焼石體たちまち缺裂して中に正八幡の文字あらはれたり(略)三使おほきに恐怖して逃帰る一人は立どころに死し一人は途中に死し一人は宇佐に至りて死すみな神罰を蒙れりとぞ今に至りて其顕はれたる文字照然として石面に存在せりと云ひ傳ふれど深く秘して謾に拝する事を得ず(名勝志)

すべて前掲『国分の古蹟』より


さまざまな立場から語られた由来が、相容れないまま併存しつづけたことが一見してわかる。

どのような神の石体なのかという問いには、神功皇后説、火火出見尊説、八幡神説が残る。

そして、石体の様態については、石面に石躰権現の銘文が金色に現れた説、石が割れて石面に正八幡の字が現われた説、石像というが地石のため動かせない岩盤状のものと思われる説が残る。

上記文献には触れられていないが、『三国名勝図会』巻之三十一ではさらに「石體は、秘物にて藁薦を以て其體を覆ふ」の一文がある。石を藁薦で覆って秘匿している。秘匿されているから、このようにさまざまな諸説が生まれるのだろう。


石体の様態に関する記述はそれだけではない。

『鹿児島県史 第1巻』(鹿児島県 1939年)によると、石體神社の項目で「石體は二基が向ひ相に立つて」おり、「當時の御寶殿丑寅三町許、宮坂麓に立つて居たのを、古老神人多治則元が発見」したと紹介されている。

これも天承2年(1132年)のこととされているので、『鹿児島神社舊記』が記す故事と通ずるものと思われる。


この出来事は「石体事件」としてすでに研究がなされており、日隈正守氏の論文「八幡正宮(大隅国正八幡宮)石体事件の歴史的意味に関する一考察」(『鹿児島大学教育学部研究紀要 人文・社会科学編』62)に詳しい。

本論文によれば、この石体は大隅正八幡宮(現・鹿児島神宮)が八幡宮発祥の地であることを主張して神威を高めるために人為的に起こされた事件の産物であるという。

地石の石體伝説とは別系統の物語のようであり、「石体」としての出自が相混ざっているのかもしれない。だが、この石体事件の奇譚を以て鹿児島神宮元宮・原鎮座地としての石體神社の創建となったのかもしれない。


なお、国分郷土誌編さん委員会・編『国分郷土誌』(国分市 1973年)には、このような記述も見られる。


石体宮の宝殿の下は岩石の洞窟になっており、この中に御神体である石体が奉安されている。(前掲『国分郷土誌』より)


この記述のさらなる出典を求める必要があるが、地石が岩窟のように内部空間を有しており、そこにさらに石体を置くという構造を記しており、石体の詳細を語るものとして紹介しておきたい。

石體神社本殿


御石・石塔


石體神社境内の「御石」「石塔」

石が置かれている。

石塔

社殿向かって右に、二体の岩塊の上に小石を積み重ね、そのうちの一体には石塔が建てられている。こちらも岩石祭祀であるため、石體神社の石體をこの存在かと誤解する向きもあるかもしれない。

社殿内に秘匿された石體から端を発する岩石を用いた祭祀事例とみれないこともないが、神社の石を持ち帰り、祈願成就の際に石を返す風習は全国各地に見られ、当地の場合は神功皇后の鎮懐石伝説と絡めて成立している。


石躰神社はむかしより祭神は神功皇后と傳へ此の神社の御石を乞受産婦の腰に挿めば平産するとて世人の崇敬する(守屋奈賀登・桑幡公幸『国分の古蹟』私家版 1903年)


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