藤井修平氏『科学で宗教が解明できるか 進化生物学・認知科学に基づく宗教理論の誕生』(勁草書房 2023年)を読みながら、私自身が今後覚えておきたいと思った重要な部分をメモしたものである。
自分用申し送りの色が濃いため、読者に読ませる体裁で文章を書いていないが、本書の概要紹介と同様の問題意識をもつ方の検索向けに掲載しておく。
(私の誤読・解釈が入り混じるため、正確な理解は本書を参照されたい)
ミルチャ・エリアーデへの批判とそれ以降の宗教研究
批判点① 反歴史主義
人類の心には普遍的な共通性があるというエリアーデの前提は、原初性を絶対視して反証不能。歴史的変化を考慮に入れていない。
批判点② 非還元主義
宗教および宗教研究は他の分野には還元できない固有・独自の存在であるというエリアーデの非還元主義は、信仰者にのみ理解が可能で非信仰者には介入不可能という断絶をもたらす。
批判点③ 規範性・神学性
エリアーデは聖なるものの実在を仮定しており、学術活動ではなく宗教的活動になっている。また、エリアーデ自身に政治的な偏りが指摘されている。
→以上の批判点により、世界的にはエリアーデは宗教学者ではなく思想家として位置づけられており、エリアーデ研究を無批判に用いる時代は終わっている。
宗教研究と宗教活動を区別する神学性批判から、科学を重視するモダニストが生まれた。具体的には、宗教認知科学(CSR)で普遍的な宗教研究を可能として、エリアーデの非還元主義を超克するという取り組みが盛んになった。
そのモダニストに対立するのがポストモダニスト。科学にも人間の主観が入り、科学知の絶対性・普遍性を疑問視する立場。CSRについても科学絶対視を疑問視。系譜学(過去の言説の分析)でエリアーデの半歴史主義や政治的イデオロギーを超克する。
日本においては、モダニスト側の研究が日本語に翻訳されることは少なく、ポストモダン側に寄った状況が続いた。日本におけるモダニスト不在は宗教研究・知見の多くを見落とすことになり大きな問題。だから本書が詳細を取り上げて補う。
モダニストの理論的根拠としての生物学・自然科学
ダーウィンの進化論
ダーウィンの進化論は非常に単純な原則ということもあり、多様な分野に応用してすべてを説明しつく「現代総合説」が誕生。しかし、これは「万能酸」という危険性も指摘されている。
生物学の進化に、本来、進歩の意味は含まれない。変化の意味にとどまる。
進化(変化)の要因は自然選択。自然選択とは、ある環境下で有利な形質をもった個体が生き残り、それにより特定の形質をもった生物に変わること。この自然選択の主体には3つの説がある。
- 生物集団内には遺伝的な変異が存在し、個体差が生じる。突然変異やランダムに遺伝子が変化する個体説。
- 集団選択で自己犠牲する説。
- 現代総合説は、遺伝子レベルで「利他行動」「血縁選択」があるという説を重視。この現代総合説が他の分野にもこの進化理論を応用していく。
現代総合説・社会生物学
現代総合説を『社会生物学』(1975年)と銘打って人間研究に用いたのが生物学者エドワード・O・ウィルソン。
人間は、遺伝子によって本性が決まり、攻撃行動、男女差、利他行動、宗教などの社会行動を行うとした。
人間の本性は変えられないから戦争や不平等を肯定するという道徳的な批判があり、後年、遺伝的な影響と本性が変えられないことはイコールではないことを言及して理論修正した。
遺伝子の影響を絶対視して、人間が生み出す文化による後天的変化を考慮しないという批判もあり、これにも理論修正して「遺伝子と文化の共進化」を論じるようになった。
これによって社会生物学は生き残り、宗教に関する分野では次の2つの研究が生まれた。
進化心理学
自然選択により最適化をめざそうとする人間の心理メカニズムに着目(1992年の論文集『適応した心』で創唱)。
人間の自然選択は約250万年前~約1万年前の更新世のあいだに形成されたもので、狩猟採集社会の心理メカニズムがそれ以後の現代までの1万年間の人間行動の基盤となっていると考える。この1万年間では十分な進化の時間がとれず、だから現代社会において人間が非適用的になっている場面がみられる。
配偶者選択、親族関係の構築、集団内での協力と対立など、生存と再生産に関する研究が中心。宗教は生存と再生産には直接寄与せず、生物の適応によるものではなく、人間が進化して得たさまざまな心的能力・認知的能力の副産物とみなす。
その点で、文化や学習による後天的な変化の可能性はほとんど考慮されない。その点で非歴史的だが還元性はある。
具体例① 人類学者スチュアート・ガスリーによる「擬人観」…人間以外の対象に人間的特徴を見出すこと(1993年~2015年)
ある対象が、自分と同じ人間のような人格を持つか、持たないかを判断する時に、人格を持つと判断したほうが生存に有利に働くから、一種の適応となる。この適応行為の副産物から宗教が生まれたと考える。
多数の例から、擬人観は人類普遍の現象と結論付ける。
擬人観は科学など他の分野でも現れるが中心的ではない。しかし宗教において擬人観は中心的であるという(しかし、擬人観が宗教成立の必須条件というわけではない)。
後年、心理学者ジャスティン・バレットは(2000年~2004年)は、無生物が生きているようにみえること、偶然の出来事に何者かの意図を感じること、自然界に意図・目的・デザインを感じる人間の心的傾向を「過敏な行為者探知装置(HADD)」と名づけた。擬人観もその一種であり、HADDが人に備わっていることで、実際は行為者がいなくてもそこに行為者を見出すことで宗教観念が生み出されるとした。
→HADDへの反論あり。何らかの起源の説明は現時点での機能を説明することにはならないという「発生論的誤謬」に該当し、HADDのような認知能力の誤作動で宗教が生まれたとしても、現在もその宗教が保持される理由はHADDに限られないというもの。
具体例② マヤ人の子供の実験(2002年)
普段トルティーヤが入っている箱を見せて、中のトルティーヤは食べてズボンを入れておいたと説明する。下の3者が見たら中に何が入っていると思うだろうと子どもに聞く。
- 人間の場合→トルティーヤ
- 森の精霊→トルティーヤとズボンが半々
- キリスト教の神の場合→ズボン
→子供は直観的に、人より神のほうが能力を有していると考えていると言える。
具体例③ ニュージーランドの社会調査(2015年)
宗教と出生率の関係。教会出席頻度が高いと出生率も良いという相関関係が統計的に出た。
教会出席が社会的評判を生み性的魅力につながるからかという推論。
宗教が生存選択と再生産に寄与するから宗教は適応的行為であるという説。
文化進化論
ロバート・ボイドとピーター・リチャーソンが代表的な研究者(1985年)。
人間の行動は、遺伝的な心理メカニズムよりも文化が大きく影響するという考え方で、進化心理学に相対するもの。進化心理学が反歴史主義・普遍主義的なのに対し、文化進化論は歴史主義・個別主義に立つ。
文化の定義は「教育や模倣によって種の他の成員から獲得される、個人の表現型に影響を及ぼしうる情報」。
文化は、遺伝子の進化とは異なる過程で伝達され、文化は工業製品のように徐々に洗練されたものになっていくと考えられる。
文化の選択の方法は次の3つ。
- 内容バイアス…何らかの本質的魅力を有するものが支持される
- 頻度依存バイアス…多く見られるものに従う
- モデルによるバイアス…地位が高く模範的な人物の好みを模倣する
宗教が例に挙げられる。
宗教は、集団内にシンボル体系を作り上げることによって、社会統合やコミュニケーションの推進という利益を与えられる。宗教を有さないより宗教を有したほうが生存する、利益を得るという視点(世俗的有用性)で宗教をとらえる。
したがって、宗教は集団を維持するために必要な制度と言え、それは人類にとって適応の産物とみなすことができ、そこが進化心理学とは異なる。
キリスト教神学は現世での節制を命じており、これは遺伝子レベルの適応的行動とは言えず、宗教文化の影響下にある集団行動の一例で、遺伝子より文化が人間行動の決定要因として上回ることを示す。
具体例① アラ・ノレンザヤンの実験(2013年)と超自然的懲罰仮説
不正を行える状況下で知識テストを実施。参加者の一部には、十戒を想起させた。結果、十戒を想起した群は、他の群に比べて不正率が低かった。
人が監視するより、神が監視するほうが、人はより道徳的・向社会的にふるまう。
神の概念を有していない場合でも、運命やカルマといった形で超自然的懲罰の観念はみられるという。
具体例② ビッグ・ゴッド(2013年)
小集団では統制が効いていたものが、集団が大きくなるとさらに強力な統制システムが求められる。そこでゴッドがビッグゴッドになり、社会が大規模になると道徳性と宗教はますます結びつき、教義は規則的になり、超自然的な罰は強化される。
CSR(宗教認知科学)
認知科学・認知心理学の見地に依拠して宗教を研究する。テスト可能な科学であることを自認し、人類に普遍的な心的傾向・宗教現象を説明できるような一般法則を導き出すことが目的。
CSRは科学的・自然科学的とみなされているが、それは人文学・社会科学と両立不可能というわけではない。両者の境界は曖昧である。
ステュアート・ガスリーの「宗教の認知的理論」(1980年)
1.世界に見出される現象は曖昧であり、人間は解釈を必要とする。
2.その現象は、類似した現象をモデルにして人間に解釈される。
3.そのモデルは、頻繁に起こる現象や重要な現象に従って選ばれる。
4.人間は周囲にいる他者から重要な影響を受けるので、人間を見出すモデルが解釈に用いられやすい。実際、周囲の現象に人間的特徴を読みとる事例が多い。
5.このモデルが、宗教の認知的基盤となる。
→これが、先述した「擬人観」の根拠となる。
人類学者ダン・スペルベルの「表象の疫学」(1984年)
表象の伝播を疫病の広がりにたとえる。伝播の誘因子は次の2種
1.人間の心的能力要因…「石炭は黒い」などの直観的信念
2.生態学的要因(社会形態など)…「すべての人間は生まれつき平等」などの反省的信念
トーマス・ローソンとロバート・マコーリーの儀礼能力理論(1990年)
人間は言語を自ずから獲得できるように、儀礼の行為者は儀礼を自然に形成する能力がある。儀礼は言語とのアナロジーによって理解できるという考えに基づく。
宗教的儀礼の普遍法則を2つ提示する。
1.超人間的行為者の原則…すべての儀礼には超人間的行為者を含み、儀礼の行為者か儀礼の受容者・行為とむすびついている。
2.超人間の近接性の法則…超人間的行為者が儀礼に深くかかわるほどその儀礼は重要視される。
(例)インドのヴェーダ文献における供儀の研究および、通常/特別の2種類の人物・素材による儀礼のテキストを読ませた心理学的実験で、通常より特別なほうが効果を感じるという直観結果が統計的に有意に出た。
バスカル・ボイヤーの研究(1990年~2001年)
伝統が反復されるのは、単に人々が保守的だからではなく、それは記憶のプロセスと関連しているからと考える。記憶には、記憶されやすいものとされづらいものがあるとの主張。
人の心に共通性があるのなら、宗教にも普遍的な現象が生まれ、それが世界中で類似した信仰体系として複数出現するのではないか。
反直観的概念…カメルーンのファン人は魔女にだけある臓器があり夜中に臓器が飛んでのりうつる人に能力を授けるという話があるが、これは当のファン人の間でも奇妙なことと思う人がいるらしい。しかし、この奇妙と思う、直感から反するために、逆にこの信念は信じられると述べる。宗教はこうした反直観的概念を含み、これによって特徴づけられるとした。
直観は、人は年を取ると死ぬ、死者は話さない、木や石などの自然物は自分から動かないなどの常識的観念と言い換えられる。こうした1つ1つの常識を「存在カテゴリー」と呼び、それぞれの存在カテゴリーに関して反直観的情報を含むと宗教家が促されるとした。
この反直観はあまりにも大きい(破天荒)すぎると人々には記憶されにくく人々に広まりにくいが、存在カテゴリーの直観をわずかに違反した「最小反直観」が、人々には記憶されやすく宗教として広まりやすいとボイヤーは考えた。
(例)存在カテゴリーにおいて違反を含む記述と含まない記述を複数読ませ、その後思い出せた記述を集計した結果、違反がある記述の萌芽「裏切り」の印象深い記憶として残るという結果が出た。フランス、ガボン、ネパールの3つの地域で類似した結果が出たので、通文化的な心理学実験として知られる。
ミッキーマウス問題(2002年)
ボイヤーの反直観は、たとえばミッキーマウスなどの創作物にも多く存在するが、それらは宗教にならない。反直観だけをもって宗教ができるわけではないことをどう説明するかという問題。
※類語…大人になると信じられなくなる「サンタクロース問題」、時代によって信じられなくなる「ゼウス問題」、一切の文化から切り離された人でも神を信じるのかという「ターザン問題」
ピュシアイネンがこれに説明を試みた。
・反直観は宗教の必要条件ではあるが十分条件ではない。
・反直観は、宗教以外にも科学、創作、妄想にもみられる。
・科学の直観は自発的に生まれない、創作は真実とみなされない、妄想は集団的にならない。
・反直観のうち、自発的に生まれ、真実とみなされ、集団化するものが宗教的概念と定義づけられる。
・それに加えて、儀礼に参加して怒りや恐怖の感情を喚起することで宗教は信じられるとする。
トッド・トレムリンは、神の条件として「社会的機能を有すること」を考えた(2006年)。
通常の人間は、他者の情報を把握しているわけではない。神は、社会的な情報を際限なく完全にアクセスできる存在とみなされるからこそ、宗教的行為者は重要視されるとした。反直観的行為者の中でも社会的機能を持つものが宗教的行為者となった。
ハーヴィー・ホワイトハウスの「宗教性の二様態理論」(1995年~2004年)
1.教義的様態…教義などの言語が意味記憶によって記憶され、言語の繰り返し記憶によって形成されるので知的で統一的で反復的で感情的な要素は少ない。
2.写象的様態…強烈な宗教体験などの図像的イメージがエピソード記憶として鮮烈に記憶されるので、感情的、多様的、散発的となる。
(例)二つのグループに分けて儀礼をおこない、片方は赤い照明を用いて、音楽や太鼓の音量を大きくした(写象として強烈にした)。その結果、照明と音を写象的にしたグループのほうが、おこなった行為に対する自分の感情を解釈する言葉の数が増えた(感情的になった)という心理学的実験。
その他のCSRの知見
・宗教の二重過程理論…人の思考には、素早い・自動的・直観的な思考の「システムⅠ」と、慎重・意識的・反省的な思考の「システムⅡ」があるという心理学の研究があり、それを宗教に応用し、一つの宗教や宗教者の中にもこの2つの思考が入り混じること。
・種々雑多な目的論…子供が自然界に機能・目的・デザインを見出す傾向。
・子供が、生物の死後もその生物に心理的機能や認知的機能が継続していると考える傾向。
→子供の心理は後天的な学習の影響をあまり受けていないので、人間心理の普遍性を示すものとして用いられる。人間の自然的な認知は6歳までの幼児期に起こるという説もある。それに対して、子供が宗教的な心理を示すのはあくまでも発達の一段階の特徴であり大人の宗教観をそのまま表すわけではないとみなす立場もある。
CSRへの批判
マッカチオンの指摘(2012年)
「心や脳に宗教の起源を求めるのに夢中になって……彼らは部分から全体へ、偶然から必然へ、歴史から非歴史へ、個別から普遍へ、文化から本性へと移ることの明らかな安易さに関する疑問に答えられていない。」
・CSRには理論的・方法論的な核がなく、進化心理学などの学問との明確な区別がないため分野として不安定。
・科学者としての訓練を受けていない学者が、心理学的な論文を満足に読めているのか。
・仮説をテストするというより、すでに存在する事例に対して心理学の理論を適用するだけの「アームチェア科学」である。
・普遍主義的であり、文化や歴史の文脈性を無視している。
・還元主義的であり、生物学・心理学・神経科学などの枠組みで単純化しており、宗教の要素の重要な部分をそぎ落としている危険性。
論点① 普遍主義か個別主義か
認知メカニズムは、普遍的に神が信じられるのはなぜかという問いには答えられているかもしれないが、ある個人がなぜ神を信じているかという個別的な問いに答えているわけではない(アク・ヴィサラ2018年)。特定の人にだけなぜ宗教心が生まれるのかを説明できていない。
→個別事象の取り扱いは別の回答方法が必要で、両主義の長所・短所を取り上げたうえで異なるアプローチで対話するのが最善である。
論点② CSRは客観的な説明で、解釈ではないと言いきれるか
説明を行う際には解釈は必須であり、説明アプローチを用いる科学でも、意味や解釈の問題から逃れることはできない(ギャヴィン・フラッド1999年)
宗教者の行動や宗教者が使う言葉をそのまま受け入れずに、研究者が別の用語や概念に置き換えて説明する時点で、意味論の観点ではそれは二次的であり宗教現象と正しく一致した説明と言えるか担保できない(マーク・ガーディナー、スティーヴン・エングラー2015年)
CSRは文化や意味を考慮に入れない「文化消去主義」であり、無意識の認知に、文化的な意味や言語を組み込まなければならない(イェベ・シンディング・イェンセン2013年)
論点③ 「宗教」の概念の取り扱いかた
いかなる宗教の概念にも何らかの偏りが指摘できる。大きくは、宗教を集団活動とみなす定義と信念と結びつける定義の2つに分かれる。
- E.O.ウィルソン「個人を説得し、集団の利益のためにその直接的な利己的利益を抑えさせるための過程」(1990年)
- D.S.ウィルソン「人々が求める利益の生産のための集合的活動」(2002年)
- アトラン「死や欺きといった人々の実存的不安を抑制する超自然的行為者の反事実的・反直観的世界に対する、ある共同体の負担の大きく偽りがたい参加」(2002年)
- ボイヤー「観察不可能な、自然の外の行為者と過程に関する観念の群」(1994年)
- ピュシアイネン「個人的な反直観表象およびそれと関連する実践や組織」(2001年)
既存の概念の再記述のみに陥らないように。「超越→超自然・反直観」「神→反直観的・超人間的行為者」など。
宗教(自然発生的で直観的で普遍的なもの)と神学(意図的で反省的で個別的なもの)の上下優劣をイデオロギーとして抱いていないか。どちらかを好むということの偏り。
組織化された宗教だけに着目しないこと。癒し手や霊媒師などの「非公式の専門家」に頼る人々への軽視。
論点④ 「科学」の概念の取り扱いかた
- マイケル・ルース「科学はその定義上、ナチュラルで、反復可能で、法則に支配されるものを扱う」(1982年)
- ウィルソン「世界についての知識を集め、その知識を検証可能な法則や原理に凝縮する、組織化された体系的な事業」(1998年)
というが、これらの科学の定義にも批判がある。
理論がテスト可能であることが科学の要件とされやすいが、創造科学をテストすることは不可能であり、反証主義では進化論も疑えてしまうことなど、さまざまな反例によって要件とは言えないことが明らかとなっている。
科学と宗教は対立物ではなく、どちらかというとそれは政治的対立だったのであり、神学も進化論から示唆が得られるように、両立可能といわれている。
まとめ
1.人間行動はどこまで普遍的共通要素により説明可能で、どこからそれが不可能になるのか。
2.自然科学と人文・社会科学の差異はどこまで認めることができるか。
3.社会的水準と生物的水準の双方を反映する視点はいかにして可能か。
科学が抱える「ナチュラリズム」という一つの宗教思想
9.11テロ以降に、神は妄想であるとして宗教批判をおこなったドーキンスは進化心理学やCSRに立脚したものであるが、その研究の理論選択が恣意的であり、つまり無神論原理主義ともいうべきイデオロギー性が批判されている。
(例)意識や心の存在は唯物論では説明できない、宗教を否定しない科学者もおり科学から必然的に無神論が導かれるわけではない
→現代科学がナチュラリズムを内包するかぎり超自然的存在は否定され、そのような世界観はイデオロギー的であって受け入れるべきではない。
ダーウィンの進化論が正しければ、生物は自然選択の産物でありそこに人生の意味や道徳は存在しなくなる。宗教を否定すれば代わりにどのような世界観、価値観を提供すればよいのかという問題が取り上げられている。
ドーキンスは、自然科学がもたらす自然への畏敬の気持ちは宗教心と比肩しうる価値観であると説き、科学は伝統的信仰より魅力的な観念としての「事実の宗教」と位置付けられうる。
「宗教的ナチュラリズム」の誕生
超自然(神、魂、天国など)は存在しないという仮定のもと、自然のなかで認識できる宗教的と呼ぶのにふさわしい出来事、過程、反応。科学的知識がもたらす世界観を信頼する中でも生まれる宗教的機能。自然が崇拝対象。
具体例① クロスビーの「自然教」
宗教の6つの機能を提示した。
- 独自性
- 優先性
- 浸透性
- 正当性
- 永続性
- 秘匿性
さらに、自然の四つの価値を提示した。
- 生物の行列(生物の歴史的な繫がり)は聖なるもの
- 生物多様性は聖なるもの
- バイオリージョン(特定の環境を有する生態学的な地域)は聖なるもの
- ガイアは聖なるもの
→自然は、宗教の6側面をすべて備えるから宗教たりうるとする。
宗教を「超自然的・超越的存在への信仰」とする定義もナチュラリズムでは否定でき、新たな定義として「意味や価値の源泉となるもの」が代表的。
神は宗教の絶対条件ではない。無神論でも、価値の完全で独立した実在性を受け入れる態度は経験であり宗教的態度といえる(ロナルド・ドゥオーキン2014年)。
科学的世界観が浸透した社会では、既存の宗教は衰退していくだろう。それと同時に、環境問題が深刻化して地球が破滅になった時、人間は新たな宗教を生み出し、それが宗教的ナチュラリズムだろう(ルー『宗教は神についてのものにあらず』2005年)
科学と宗教の共存の研究領域
イアン・ハーバーの「科学と宗教」の関係の4分類(2000年~2004年)
1.対立…科学と宗教の闘争は不可避
2.独立…科学と宗教は扱う対象も目的も異なり独立する
3.対話…宗教は科学が提起する問いに答えていくべき
4.統合…宗教と科学が協力し合って同一を目指す →これを目指す研究領域
CSRが取り上げる心の理論やHADDは、人間に備え付けられた「神の機構」ではないか。カルヴァンの「神性の感覚」の概念と一致し、それにより生み出された信念は誤りとは言えない。自然的な説明と超自然的な説明の双方が正しいのかもしれない(バレット2011年)。
神経科学と宗教を結びつけた「神経神学」
・人間の脳には、神的なものを感じて宗教体験を引き起こす能力がある(アシュブルック・オルブライト1997年)
・神秘体験は脳の活動と推定でき、人間には宗教活動をおこなう生物学的・神経科学的機構が存在する(アンドリュー・ニューバーグ2001年~2003年)
アーミン・ギアーツによる神経神学の批判(2009年)
1.宗教者の文化的・社会的文脈が無視されている。
2.宗教を体験に還元し、特定の専門家のみが宗教を特権的にアクセスできるというスタンスの問題。
3.科学と宗教を混ぜ合わせることはこれまでの研究でも問題点が指摘されている。
4.研究者が宗教的主張をおこなうことの問題。
意味管理理論
宗教は人生において究極の意味となり、それによって信仰者は実存的な諸問題に対処できるようになるので、宗教は人の幸福や精神的健康に肯定的効果をもたらすものとして人の利益になるから宗教は存在する。
進化生物学と同じく、宗教を信じることは人にとって利益があるという点で副産物ではなく適応の結果とするところに通ずる。また、現代においても宗教にメリットがあるという主張に通ずる。
(例)マインドフルネスなど、宗教の実践行為が精神的健康につながるとする臨床試験結果もあり、これらも宗教の現代における共存の一例として挙げられる。
科学と宗教の共存に対する批判点
・既存宗教の現世的な利益だけを略奪する点で、宗教の一面だけをくりぬいた危険性があり、倫理的な側面が考慮されていない。既存宗教にとっては対立の素にもなる。
・宗教の効果を取り入れた方法論は、それ自体が宗教側面を有することになり、宗教としての扱いを受けうること。
・宗教研究者と宗教実践者の境界が曖昧になり、宗教研究が神学的になり権力としての宗教組織との結びつきが生まれ、研究がイデオロギー的になるところに批判の余地がある。
まとめ
理論は、地域の社会的背景に影響される。
宗教的ナチュラリズム、無神論はアメリカ主体の現象。CSRはヨーロッパが中心。宗教の行程・否定にはキリスト教を母体とした議論にもなり、キリスト教圏の社会的背景で理論や議論が生まれる。
より多くの他地域での理論の社会参加が望まれる。
宗教研究においては、宗教者や神学的な研究を排除すべきではなく、宗教者がかかわることで有意義な議論が生まれる。宗教者が抱える前提と同様に、科学者も同等に前提を抱えて研究している。
そして、神学的ではないとされる科学研究においても、「宗教擁護/宗教批判/どちらの姿勢も見られない残余としての中立」のいずれのイデオロギーが窺われるかという批判的視点が向けられて、神学的立場と均等な関係になる。
イデオロギー的な偏りを意識すること。社会との結びつきにおいてバランスを欠いていないか、議論の中で修正を施していく。理論は、現実の社会・政治を動かす力を秘めており、だからこそいかに社会的・政治的問題を生み出しうるかまでを明らかにして批判していくことが求められる。
北米の宗教学と比較して日本国内の宗教学においては、本書で取り上げた科学的宗教理論の紹介・周知・議論が不足していた。科学的宗教理論を用いて宗教を研究する土台がこれで構築でき、同時に、科学的宗教理論の批判を踏まえて導入していく必要性も提示されている。
科学的宗教理論を批判的に導入する手順としては、
・科学の普遍主義(後天的な社会・文化の個別要素を下位に置く)は支持できるか、支持できないか。
・科学の還元主義(対象の要素を断片化)は支持できるか、支持できないか。
・科学の説明(文化や意味を消去して、研究者が外部の立場から宗教者の信念を別の用語に置き換えること)は支持できるか、支持できないか。
・神学批判(特定の宗教的信念を肯定する根拠を提供する研究への批判)は支持できるか、支持できないか。
筆者が挙げる具体的な論点としては、
・人間行動はどこまで普遍的共通要素により説明可能で、どこからそれが不可能となるのか。
・自然科学と人文・社会科学の差異はどこまで認めることができるか。
・社会的水準(後天的文化)と生物学的水準(生得的遺伝)の双方を反映する視点はいかにして可能か。
・科学の発展によって宗教がどのように影響を受け、新たな宗教が生まれたかを、対象化する必要性。(例)無神論、宗教的ナチュラリズム、神経神学の宗教的な要素の取り扱い。
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